表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

博士からの手紙

作者: 音音リクト

初投稿です。


最後まで読んでいただけると嬉しいです。

ツ、ツ、ツー、ピーゴロゴロ。


受動通信始動、通信良好。

位置情報取得、東経138.21度、北緯34.65度。

時刻情報取得、東京時間2026年8月25日17時45分00秒。

目標到着時刻まで残り20分00秒。

目標完了確率99.6%、修正無しと判断。

省電力モード移行、通信終了。


ピュルン。


 縹渺(ひょうびょう)たる海を隔てる砂のカーペット。そこに腰を据える男がいた。うねる潮音(ちょうおん)が彼の感情と重なる。彼は波に揺られる漂着物をただぼんやりと見つめていた。


「もし、あの日、会いに行っていれば。」


 誰にも届くわけでもない独白が波間に漂う。


「ブルブル、ブルブル。」


 懐からデジタルの心音。彼は仕事用の古びたスマホを取り出した。週明けから出張依頼の通知。それを読み終えると、最後に18:05の表示を一瞥。ひとつため息をついて、立ち上がった。そして、海を背にして歩き始めた。


「はくろって、いつも大事なときにいないんだから。忙しいのはわかるけど……。あたしだって、拗ねるよ。」


「忙しいとは思う。けど、落ち着いたらでいい。帰ってきて、娘に会ってやってほしい。」


 記憶の足跡が二歩、三歩と増えていく。足跡には小さな甘えが楔模様として刻まれる。彼は当たり前の日常に忙しさという言い訳で縛られていた。


******


「ベトナムの工場に卸した新しいNCルーター。あれの軸ブレのクレームが入った。」


 新機種によくある初期不良。対応はサービスエンジニアの彼に回ってきた。


「はくろ。報告書の途中で悪いけど、明日から現地に行ってくれ。復旧には四週間くらいかかると思う。頼むよ。」


「……分かりました。」


 彼は淡々と了承した。逆らわない。それがいつもの彼だった。書類業務を片付け、時計を見ると二十時を回っていた。


「帰るか。」


 つぶやいて部屋を出る。車の通りはまばらで、渋滞のストレスもない。これが彼の日常だった。


「ガチャ」 


 玄関の戸を静かに開ける。「ただいま」と言わないのは、眠っている彼女への気遣い。


 リビングに入ると、パジャマ姿の彼女が起きていた。明るく振る舞うその顔に(かげ)りが見えた。


「おかえり。」


「この時間まで起きてるなんて、珍しいな。」


「ふふ。再来週の日曜日、私の好きなドラマの映画があるの。誕生日もかねて、一緒に行きたいなって。」


「……悪い。明日から、一ヶ月ほど出張なんだ。」


「え……また?聞いてないんだけど。どこに?」


「ベトナム。」


「……。」


「……。」


「……はぁー。起きてて損した。」


「……。」


「はくろって、いつも大事なときにいないんだから。忙しいのはわかるけど……。あたしだって、拗ねるよ。」


「……でも、仕事だから。」


「わかってるよ。ご飯、冷蔵庫にあるから。チンして食べて。もう寝る。」


「うん。」


「おやすみ。」


「おやすみ。」


 彼女は静かに部屋を出た。右手が震えていた。怒りか、悲しみか。その背中を見送りながら、彼は冷蔵庫を開ける。そこにはやさしさのぬくもりが残っていた。


 温める間、彼はテーブルに腰を下ろした。胸に広がるのは申し訳なさとやるせなさ。


「チーン」


 電子レンジの音と同時に立ち上がる。テーブルには空のコップとロキソニンの薬殻。それらを手に取り、流しとゴミ箱に置いていった。


 そして、いつも通りの食事を始めた。


 二週間後の水曜日。雨季のベトナム。蒸し暑さは日本の夏と変わらなかった。


 彼はいつも通り工場に向かった。だがその日、スマホをホテルに忘れていた。些細でいて致命的な不幸であった。


 作業は順調だった。順調すぎて、逆に不安になるほどに。


 ホテルに戻り、スマホを開く。着信が十件以上。彼女の入院を知らせるメッセージが並んでいた。すぐに折り返す。電話に出たのは彼女の父だった。


「もしもし。はくろです。すみません、電話に出れなくて……。」


「ああ、はくろ君。つながってよかった。娘がね、今朝倒れて、病院に運ばれたんだ。」


「はい。つい最近まで、そんな素振りがなかったので......。本当に驚いています。容体はどうなんですか?」


「CTの結果、脳出血だそうだ。すぐに手術をして、今は落ち着いている。意識もある。ただ……元々、血管に奇形があったらしくてね。再発の可能性もあるそうだ。後日、MRIで再検査するらしい。」


「……わかりました。」


「忙しいとは思う。けど、落ち着いたらでいい。帰ってきて、娘に会ってやってほしい。」


「はい。そうします。ありがとうございます。」


翌朝。彼女は再度脳出血を起こし、帰らぬ人となった。


******


 その日、携帯を所持していれば。朝から日本に帰り、生きている彼女に会えただろう。いや、夜から出ても間に合ったかもしれない。


 後悔が全身を覆った。肩が沈み、胸に大きな空洞が開いた。その空洞に重く、冷たい水が入り込む。現実は動かない彼を虚無な海底へと呑み込んでいった。


深く、深く。

暗く、暗く。


 溺れる彼を捉えたように、海上方向から「ピー」という異様な機械音が耳をかすめた。


 彼は海に目を向けた。赤に染められた海と灰色の砂浜の境界。そこに緑色の瓶がひとつ、ポツリと横たわっていた。


 藁のように陳腐な漂着物。だが、彼はそこに希望のようなものを感じた。それだけが色を持っているように。


 彼は吸い寄せられるように瓶に近づいた。コルクにより閉じられたそれはまだ新しく、丸められた紙と切手が封入されていた。


 彼は迷うことなく栓を外し、足元の流木を拾い上げると苦労しながら紙を取り出した。ようやく取り出した紙。それは二枚で(つづ)られた手紙であった。彼は微かに揺れるスマホの明かりで照らして読み始めた。


******


 あー、あー。


 よしよし、文字起こしされてるな。


 ゴホン。


 迷える君へ


 私はそうだな……仮に「ヘロン博士」と名乗っておこう。口上はないが、この名前にはちょっとした由来があるが。まあ、それは別の機会としよう。


 まずはありがとう。これで私の実験はほぼ成功だ。この手紙の目的だが、


「心に喪失感を負い、人生に迷える人を導く」


というものだ。君がこの手紙を手に取り、読んでいる時点で、私の実験は99.7%の成功に達した。あー、我ながら誇らしい。


******


 軽快な口頭文から放たれる脈絡のない内容。


「ヘロン博士?実験?何を言っているだ。なぜ、喪失感がわかる?訳がわからない。」


これらの情報は彼の思考をショートさせるに十分であった。


******


 ん?思考が止まっている?まあ、そうだろう。じゃあ、まずは小話をしよう。アイスブレイクってやつだ。


 君がこの瓶を手に取り、開いた理由。それは偶然じゃない。むしろ、私は最初から「君が拾うこと」を想定してこの瓶を流していたんだ。


 この瓶と手紙には生体情報を読み取るセンサーが備わっている。汗や心拍数から感情を判断していわけだ。決して当てずっぽうではない。実際、君が喪失感に包まれていると認知しているからね。


 それから、君の名前が『はくろ』ということ。初の告白でビンタを喰らったこと。20社面接を受けて全て落ちたこと。6歳までオムツを履いていたこともわかる。まあ、私はセルフのプライバシーポリシーに同意している。君の秘密を他人に売る趣味はないからね。


******


 むず痒さと寒気が彼を襲う。


「どこまで、わかっているだ。身内の誰かの悪戯か。それにしては手が混んでいる。」


手に帯びる汗が増える共に、疑心と興味が湧いていた。


******


 では、さらに話そう。なぜ君が、無数の漂着物の中からこの瓶に気づいたのか。実は私の発明品のひとつ、「脳ジャック装置」が関係している。


 これは軽いリフレイン効果やサブリミナル効果を利用して、特定の行動を促す装置だ。たとえば、最近こんな言葉を耳にしなかったかい?


「海に行けば気がまぎれるよ。25日の18時ごろがいいんじゃない?」


 それは私が君の知人の脳にちょいと細工をして言わせたんだよ。ほかにも、


「最近、緑のグラスが妙に目につくな」


なんて感じなかったかい?それも私の仕業。色彩知覚のフィルターを操作して、君の意識をこの瓶に向けさせたのさ。


 そして、そして。ついさっき聞こえた「ピーッ」という音。あれも幻聴だ。脳に直接信号を送ることで、あたかも耳で聞いたように感じさせてるんだ。


 驚いたかい? でも安心して欲しい。私は君に悪戯したいわけじゃない。ただ、君が「この手紙に出会えるように」少しだけ背中を押しただけなんだ。


******


 現実にあり得ないような話であった。しかし、これは真実なんだと。彼の経験が(ささや)く。


******


 さて、核心に入ろう。君の中にある「喪失感」。それは大切な人を亡くしたことに起因しているようだね。 それも突然に。


 あぁ、わかるよ。私も同じ経験をしたからね。大切な人をふいに失った。残されたものは伝えられなかった言葉。私はそれを飲み込むことしかできなかった。それこそ一生という時間を掛けてね。


 だから、私は決意したんだ。


「今を生きる誰かを、過去に取り残さないために、何かできないか」


と。君に届ける私の発明。それは、


「この一瞬だけ、大切な人と繋げること」


さ。ただし、通信できるデータ量はUTF-16で1キロバイト程度。1カラットのダイヤモンドくらいの小さなものだ。でも、君にとっての価値は大いにあるはずだ。


 それと、君の大切な人はどうやらおしゃべりらしい。全部を君に送ることはできない。まあ、許してほしいね。では、内容を送るよ。


『はくろへ


元気?まあ、あたしがいないんだから多少は落ち込んでいて欲しいけど。はくろは落ち込みすぎるから少し心配。


そうそう、あたしね今すごく幸せなところにいるの。ただ、意外と暇なのよ。Netflixとか見られたらいいのに!まあ、そんな愚痴が出るくらいには元気かな。


こっちの時間の流れはね、はくろの世界の十倍くらい早いらしいよ。もうここに来てから、二ヶ月が経つのかな。


最初はやっぱり戸惑ったよ。目が覚めたら、列車の中にいたの。しかもね、一等車!


ふかふかのソファに腰かけて。目の前には湯気の立つアールグレイと、四段重ねのケーキスタンド。もう、インスタにあげたかったくらい!って、ここじゃインスタもないんだけどね。ちょっと悔しい。


それから、右隣の窓を見たらね。そこに、あたしたちの思い出が映ってたの。


家族で行った夏祭り。

中学の卒業式。

修学旅行のディズニーランド。

初めてのデート。

そして、あの海辺でのプロポーズ。


……懐かしくて、大切な。


あ、そうそう!鎌倉で喧嘩したときのこと。やっばり、あれははくろが悪かったと思うの。だってね……。


プツッ


あたしは大丈夫。だから、はくろは自分の人生を大切にして。


ちゃんと、生きて。

ちゃんと、笑って。


その先で、また会いましょ。


今度はずっと一緒に。』


******


 目から入る文字列。これが声となる。これが映像となる。手紙には亡き人がいた。


 胸に込み上げる何かを感じた。彼は押さえるように大きく息を吸い、震える吐息をこぼした。鼻に抜ける磯の匂いは軽やかな心地さをもたらす。ただ同時に、咽ぶ気持ちと混ざり合い、どっと雫が垂れるのであった。


 彼は袖で拭うと、再度深呼吸をした。そして、心を落ち着け、二枚目の手紙を読み始めた。


******


 さて。どうやら、君の心は晴れてきたようだね。私ごとのように嬉しいよ。


 だが、これで終わりではない。君には、もうひとつだけ役目が残っている。いや、正確には「ふたつ」かな。


「心に喪失感を負い、人生に迷える人を導く」


実験の最終段階に入っている。成功率99.7%。これを君の手で100%にしたい。というわけで、ここからは君を私の“助手”に任命する。まあ、異論は受け付けないが。


 一つはこの瓶の中に入っている切手だけを取り出し、また海に流してほしい。


「なぜ切手だけなのか?」って。


 この瓶は、次の「心を痛めた誰か」のもとに届く必要がある。君が今日手紙を受け取ったように、次の誰かにバトンを渡すんだ。


 そうそう。この瓶はバイオガラスという葉緑体とミトコンドリアを含んでいる。エネルギーと環境問題を同時にクリアできる優れものさ。


 だから、瓶を流すことに罪悪感を抱く必要はないよ。まあ、他人から見たら不法投棄ではあるがね。


 そして、もう一つ。その切手を使って、「君の想い」を大切な相手に託してほしい。一方通行は寂しいだろ。そのための手順だが......。


******


 彼は手紙を読み終えると、スマホのライトを消した。ぼんやりと暗闇を見つめながら、心に浮かぶ感情を言葉にできなかった。周囲を見渡すと、星々の煌きと灯台の灯り。夜はすっかり深まっていた。


 月明かりを頼りに、彼は菖蒲(あやめ)が描かれた切手を瓶から取り出した。その手は少しもたついていたが、しっかりと意思を宿していた。手紙を瓶に戻し、口にコルクを強く押し込んでそっと海に放した。


 瓶は離岸流に乗って、旅を始めた。灯台のゆっくりとした明滅が表情に伝わる。海に映るキラキラの中に煌く緑色の瓶が同化する。彼はただそれを眺めるのだった。


 不思議な体験の一月後。彼は真新しい墓地の前にいた。黒の装いに身を包み、切手が貼られた封筒を握って。


納骨式を終えると、周囲は緊張から解放から穏やかに談笑しながら墓地を後にした。


 彼はひとり、墓の前に残った。封筒を墓石のそばにそっと添える。目を閉じ、静かに黙祷を捧げた。


あの日、あの夜、あの手紙。


 不思議な出来事に、心からの感謝を込めて。やがて目を開けると、何かが報われたような不思議な感覚が胸に満ちていた。


 彼はゆっくりと立ち上がり、墓に背を向ける。一歩、また一歩。踏みしめる地面が少しだけ前より軽やかであった。


 そのとき、聞き覚えのある「ピー」という異様な機械音が耳をかすめた。


 振り返ると、置いた封筒は姿を消していた。


 彼に驚きや戸惑いはない。


 背中を押すように、柔らかな風が抜けていった。

 ご愛読ありがとうございます。


 フィクションとノンフィクションの両方が成り立つように書きたかったのです。ただ、あれよ、あよれとフィクションに流されました。


 個人的には科学なら、生き返らせた方が手っ取り早い気もしてます。


 ただ、割れた瓶が完全には戻らず、溶かしてもう一度作り直すように、人間も一回分解して再構築しないと戻らない気もする。


 すると、テセウスの船的な現象が起こりそうですね。


 あれ、小説になりそうですね。


 「科学の根底は人のためにあるもので、その時勢に沿う倫理性を持ち合わせ続けて欲しい」というのが私の稚拙な所感です。


 最後に、感想いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ