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短編集『トタン屋根を叩く雨粒のような』

何処かで口を噤んだ



ピーポーピーポー‥‥‥


シャーーッ


カーテンが開かれると、 温かな日差しが入ってきた。 「最近救急車多いね」と坂田(さかた)梨無子(りなこ)(つぶや)いた。


「あ〜おはよう」美濃(みの)澪而(れいじ)はベッドで横になりながら、 人差し指で目ヤニを取り、 ティッシュを1枚引き抜いた。


トントン、 と肩をつつかれたので、「なに?」と言おうとしたが、 先に「お届け物です」と梨無子に言われ、 口の居心地が悪かった。 彼女の右手には大きな封筒があった。


「『東京第7出版』って書いてあったよ。 これって、 もしかするとっ?」 朝から口を尖らせ変顔をする彼女。 レースのカーテンに()された、 柔らかい光が、 茶色がかったロングヘアの梨無子を包んでいる。


「ありがとう女神様。 でもあんまり期待はしないでおくよ」受け取ったA4サイズくらいの茶封筒を、澪而はサイドテーブルに置いた。


***


澪而と梨無子がこの平屋の一軒家に住み始めて3年が経つ。 4年前、 東京のコインランドリーで2人は出会った。


「あの‥‥‥お1人ですか?」黒いジーンズに茶色いパーカー姿の、 高校3年生の澪而は、 歳が近そうな女性に何となく話しかけた。 梨無子は青いジーンズに白いブラウス姿で、 横顔が陶器のように白かった。


「今どきナンパですか?」 梨無子は回転する洗濯機から目を離さずに質問した。


どうだろう?と自分の心に問うが、 頭の中を整理する前に言葉が出てしまう。 「一周回って今こそナンパです」


「フフフッ何それ?」反射的に男の方を見る。 梨無子は驚いた。 そこにいたのは、 キリッとした眉に、 クリッとした瞳、 程よい厚さの唇をした、 彼女のタイプど真ん中の男性だった。


一方、 澪而も驚いていた。 正面から見る梨無子はなんと、 キリッとした眉に、 クリッとした瞳、 程よい厚さの唇だったのだ。


『心拍数が上昇しました』 2人が付けている左手首のリングから、 同時に通知が届いた。


***


「行ってきまーす」梨無子が仕事に出掛ける。 ロボットキーパーの仕事は彼女のやりがいらしい。 澪而は、 彼女も自分のように、 創作の道に進めばいいのに、 と常々考えているのだが、 余計なお世話だ、 と言われてしまったことがある。 「十人十色なんて、革新的な四字熟語をよく思いついたな」 と、 太古の人々に思いを馳せる。


リビングで観ていたテレビを消して、 寝室に戻る。 サイドテーブルから封筒を取り上げ、 差出人を見ると、 確かに 『東京第7出版社』とある。

澪而はもう何年も、 ネットに小説を投稿する活動をしている。 活動としたのは、 小説がお金になっている訳ではないからだ。


期待をしてはいないが、 封筒の中身が切れないようにハサミで丁寧に封を切ると、 2枚のA4用紙と封筒が 入っていた。



〈美濃澪而様

東京第7出版社、 編集部の宿村(やどむら)と申します。

先日、 美濃様が我が社の小説投稿サイト 『ダイナナエリア』 に投稿されました 『海を掻き分けて』 が我々編集部の目に留まりまして、 一度美濃様と実際に会って、お話をさせていただきたいという運びになりました。つきましては2枚目の誓約書をご記入の上、 返信用封筒にて5月26日までにご返送いただきますようお願いいたします。

誓約書が確認できましたら、 ダイナナエリア上で、 集合場所等のメールをさせていただきます。 期限内にご返信がなければ、 辞退されたと受け取らせていただきます。〉



会って話すだけで誓約書を書かなければいけないのか、 と不思議に思い、 2枚目の紙を見る。 細々と書かれているが、 要は企業秘密を絶対に漏らさないと約束しろ、 ということだった。


何だか少し行きたくないかも、 と思ってしまった。 澪而は企業とか責任とは無関係な世界で生きてきたのだ。


***


「ねぇなんで梨無子は働くの?」 飲食店のカウンターでうどんをすすりながら澪而は疑問をぶつけた。


「楽しいから。 あと誰かは働かないといけないし」梨無子はカツ丼を頬張りながら、 自信満々に答えた。


「召集されたらで良くない?俺みたいにクリエイティブなことしようよ」ご自由にどうぞ、 のネギをどっさり追加して、 麺と絡めてまたすすった。


「私の遺伝子が 『働けっ!』 って言ってる感じがするんだよね。 そういうのない?」 ご自由にどうぞ、 の紅生姜を一掴み入れる。


「ないね!梨無子みたいな人がいるから、 俺は創作に集中出来るんだよなぁ」汁まで飲み終えると、 左手首のリングから通知が届く。


『カロリーが足りていません。 揚げた肉を摂取してください』


ちぇっ、 と舌打ちをして、 澪而は液晶パネルで鳥の唐揚げを注文した。 「今日はさっぱりで終わらせたかったのに」


***


「はじめまして、 東京第7出版の宿村です。 本日はお越しいただきありがとうございます」40代前半と見られる、いかにもビジネスマンな男は、先に席に着いていた。 紺色のスーツに黄色のネクタイの、オールバック気味、七三分け男は、 随分疲れた様子だった。


「美濃澪而です。 今日はよろしくお願いします」スーツ着てる人、 初めて見た、 と思いながら青いTシャツに茶色の半ズボンで、 澪而は時間通りに現れた。


待ち合わせ場所は、 ファミリーレストランだった。 客は自分たち以外いない。


『カロリーが足りないのでショートケーキを食べて下さい』


澪而が到着早々、 リングに横槍を入れられる。 わかった、 と宿村はため息混じりでリングに返事をすると、 ウェイトレスを呼んだ。


ゴロゴロゴロゴロ


ウェイトレスがアンドロイドになってもう100年以上だ。 顔からお腹までは人間らしさがあり、 その下はがっつりロボット、 移動は12個のタイヤで障害物の間も巧みに動く。


不思議なことに、 発売当初からずっと言われてきた、 タイヤの音問題がずっと改善されなかった。 タッチパネルで十分、 ウェイトレスなんかいらない、 という意見が野党から出たが、 与党は、 ウェイトレスがいる景色を残すことに意義がある、 という謎の主張をして、 一部の店ではこのアンドロイドが今でも働いている。


『ご注文はいかがなさいますか?』


宿村が、 端正な顔立ちのウェイトレスに、 取付けられた胴体のパネルで、 ショートケーキを頼むと、 彼女は ゴロゴロ厨房まで帰って行った。


ウィーーーーン、 ガシャン


厨房では全自動で作られたショートケーキをロボットが切り分けている。


「さて、 美濃さん。 あなたの作品ですが、 主人公が仲間たちと湘南の海で遊ぶシーンがありますよね?」宿村はテーブルナプキンで折り紙しながら言った。


「それがどうしました?」 いきなり作品の中身について聞かれて面食らってしまう。


ゴロゴロ 『お待たせ致しました。 ショートケーキです。 ごゆっくりお過ごし下さい』 アンドロイドがお盆にケーキを乗せて、 話を折りに来た。


「ありがとう」と言って宿村はケーキを受け取り、 以上です、 と伝えると、 アンドロイドはまたゴロゴロと音を立てて、 出入り口前の定位置に戻った。


宿村はケーキを食べながら 「海にはどんなイメージがありますか?」 と謎の質問をしてきた。


「魚介類を食べに行くイメージしかありません」 澪而は当然のことを話した。


「私もそう思ってました」そう言うと、 宿村はなぜか悲しそうにケーキをまた一口食べ、 我が社にある歴史の資料を美濃さんに見ていただきたい、 と提案してきた。


話が見えてこなかった。 「俺の小説はどう評価してくれたんですか?」 前に乗り出し 1 番知りたいことを聞いてみる。


「評価した上での提案です」宿村は無理矢理微笑(ほほえ)んだ。 資料を見ていただけないとなると、 出版の話も白紙です、 と続けた。


「別に資料を見るだけなら全然いいですよ」なぜ資料を見ることに、 ここまで確認がいるのか、 訳がわからない。 一方、 宿村は苦い顔でショートケーキを食べ切った。


「体調でも悪いんですか?」ケーキを不味そうに食べる男を澪而は初めて見た、 当然の疑問だった。


ため息をついて、 宿村が左手のリングのボタンを押す。


『今日も健康状態に異常は見られません』


「ほら、 健康です」宿村はやさぐれた様子で返事をした。


***


「良いですか?君に見せるのは2024年の映像です」そう告げられた澪而が呼び出されたのは、 旧内閣総理大臣公邸(こうてい)だった。


宿村に渡されたカードを門兵ロボットに見せると中に通された。 ここは現在、 3年前に新設された、 文化人類設計省があり、 地下に4フロアあるそうだ。 出版社との約束がなぜ政府の機関に繋がるのか、 この支離滅裂な出来事に澪而はワクワクしている。


旧公邸内部は、 随分と豪華だった。 壁がレンガで出来ており、 高い天井からは、 複雑な形状のガラス製のライトがぶら下がっていた。 あんな形をどうやってロボットで作るのだろう、 と考えていると、 受付から声を掛けられた。 上半身だけの、 端正な顔の受付アンドロイドに促され、 カードをスキャンすると、 呼び出し音が鳴った。


『ぴんぽんぱんぽーん!栗沢様、 栗沢様、 美濃様がいらっしゃいました。 受付までお越し下さい。 ぴんぽんぱんぽーん』


30秒程すると、 エレベーターが地下から上がってきて、「ようこそ、 いらっしゃいませ」と、 50代くらいの灰色のスーツに赤いネクタイをした男が姿を現した。 かなり短髪で、 おでこが出ている。 黒髪と白髪が混ざって、 灰色の髪に見える男は、 赤い絨毯の上をせかせかと歩いて、 内ポケットからピカピカの銀色のケースを取り出し「私、 こういう者です」と、 名刺を差し出した。


『文化人類設計省 研究局長 栗沢(くりさわ)(そう)


「珍しい名前ですね」なんて出会い頭に話してしまったら、 栗沢は興奮して、 それが私を突き動かすのです、 と言った。


「この世界には、 走ることをリングに強制される者と、逆に走ることを止められる者がいます」そうですね、 と栗沢の当たり前の話を聞く。


「私は 『走』 という名なのに、 リングに走ることを止められます。 私はそれが憎いです」 真剣な表情で話す彼の怒りの理由が、 澪而には分からなかった。


「リングは健康的な肉体を維持するために機能しているんですよね?それに怒る意味が分からないのですが」


栗沢は小さく頷くと、 エレベーターに乗るよう促した。


栗沢はB4のボタンを押した。 そして「現在の日本の人口が何人かご存知ですか?」と背中を向けたまま質問してきた。 襟足から綺麗に刈り上げている。


「約3500万人ですよね?」と自信満々で澪而が答えると、「2024年の時点では、 約1億2400万人でした」と栗沢は顔だけ振り返り、 チラリと澪而を見た。


「は?」そんな馬鹿げた数字あるはずがないと思った。 と同時に、 とんでもないことに巻き込まれていると野生の勘が働く。 逃げるべきか‥‥‥。


チーン


地下4階に着いてしまった。 結局、 勇気が出なくて、 栗沢について行ってしまう。 このフロアには、 様々な本や、 本じゃ無さそうな、 よく分からない物が、 何列もの棚に陳列されていた。 図書館のような雰囲気だ。


「本じゃない物は、 Blu-rayやDVDと言います。 人間が作った娯楽のための映像です」これなんか面白いですよ、 と言って見せてくれた物の表紙には、 人生で見たことのないようなツヤツヤした生き物の顔が、 大きく写っていた。


「これ‥‥‥人間ですか?」澪而は冷や汗を生まれて初めてかいた。 思考が高速回転する。 呼吸が早まる。


『心拍数が上昇しています。 安静にして下さい』


栗沢は澪而の姿を見て、 涙をこぼした。 「失礼」 と言ってハンカチで拭き取った。 こちらへどうぞ、 と個室に案内する。


真っ白な部屋に椅子が1脚、 小さな台にティッシュが置いてある。 床にはゴミ箱。 正面には大きなテレビが台の上に置いてある。


「ここで2024年の映像を観てもらいます。 苦しくなったら、 手を挙げて下さい」と言って栗沢は優しく微笑んだ。


「怖いです」澪而は小刻みに震えていた。 垂れ下がった(あご)の肉がプルプル揺れる。


「辛い時は、 この部屋から出ていただいても構いません。 私はあなたの横で映像の解説をします。」 栗沢は、 覚悟が出来たら言ってください、 と言いDVDをセットした。


***


『皆さん、 夏ですねー。 夏といえば海!海といえば湘南!というわけで、 今日の突撃アンケートは茅ヶ崎にやって来ましたー!』 上半身裸で半ズボンのピン芸人は、 日に焼けて、 短髪をオールバックにし、 身体から筋肉がうっすら浮き出ていた。


「彼の様な身体の状態を"痩せている"とか"普通"と言いました」栗沢が発した単語を澪而は知らない。 "痩せている"とは何だ?こんなヤツ普通ではないだろ、 と澪而は思った。


「この時代の若者なら、 この体型が標準的でした。 多少これに肉がついても"普通"です」栗沢は表情を変えずに話す。


『ちょっと、 お姉さん、 すごく美人ですねー。 インタビュー良いですか?』 画面には、 ほぼ裸の様な、 胸と股間だけを、 黒い生地で隠した女性が映る。


「この状況は何なんですか?ほとんど裸じゃないですか。 この人はすごく"痩せている"ってことですか?」と栗沢に質問すると、 確かに彼女はすごく痩せています、 と答えた。人間なはずがない、 と混乱していると、 自分の顔が熱くなっていることに、 遅れて気付いた。


ドクッドクッドクッ


『血圧が急上昇しています。 心拍数が危険なレベルまで上がっています。 今すぐ安静にして下さい』リングが悲鳴を上げるように、 警告してくる。


「何を言ってるんですかね。 安静にしてますよね」と言って栗沢は笑った。 そして、 ティッシュを2枚引き抜いて澪而に差し出す。


「どうかしました?」行動の意図が分からない澪而は、 ぽかんとした。


「血が出てます。 鼻から」栗沢は鼻の下を指差した。


人差し指で人中(じんちゅう)を触れると湿っていた。 真っ赤だった。 ティッシュを受け取り、 恐る恐る拭いて、「病院に行ってきます」と伝えると、 栗沢は首を横に振った。


「それは病気ではありません」 栗沢は悟ったように続ける。 「人間は興奮したとき鼻血が出るという漫画のネタが大昔ありましたが、 現代ではそれが真実になりました。 脆い血管に急激な血圧の上昇が加わると鼻血が出るのです」栗沢は両手を上に伸びをして、 パタンと腕を降ろした。 大きな腹部が僅かに揺れた気がした。


「2024年の頃は、 俺や栗沢さんみたいな人間をなんて呼ぶんですか?」澪而は気になってしまった。 質問してから、 言わなきゃ良かったと思った。


「たとえば、 "太っている"とか"デブ"とか"肥満"とか、 酷い物だと"豚"と呼ばれることがあったみたいですね。 2024年より(さかのぼ)って映像作品を観ましたが、 散々でした」栗沢は怒りとも覚悟ともとれる、 力強い声色で答えた。


「知らない言葉が多くてなんとも‥‥‥でも"豚"はなんか嫌ですね」 澪而は豚に食以外のイメージは無かったが、 人間を形容する言葉としては、 適切ではないと思った。


「次の映像いきますよ?」 栗沢は澪而に寄り添う様に聞いた。


***


「観てもらったように、 農家や漁業に警察官、 消防士や土木作業などなど体力が必要で、 筋肉がいるような仕事は、 今の時代、 大部分をロボットが代わりに働いてくれます」


「現代人の仕事のほとんどが、 ロボットの保守点検をするロボットキーパー。 だから高校までの授業は、 ロボットキーパーに必要な技術ばかりを習うカリキュラムなのです」


「ご存知の通り、 一部の人間は私の様に政府関係で働く者がいたり、 宿村さんのような企業で働いたりしています。 出版社の数も昔は複数あったんですよ?」


「昔の日本は"競争社会"だったそうです。 同じ業界に複数企業が存在し、 利益を競い合っていました。 昔は衣服も食事も住宅もお金を出さなければ得ることができず、 一部を除いて、 ほぼ全ての人間が競争を余儀なくされたそうです」


「昔はお金のために働いていました。 お金を交換することで、 モノを得ていましたから。 美濃さんのような、 作家を目指して、 働かずに1年中文章を考えるなんてことは、 出来なかったんです」


***


「次に見せる映像は、 少し難しいかもしれませんね。 私は大好きなのですが」栗沢はニコニコしながら、「これはサッカーという"スポーツ"です」 と言って再生ボタンを押した。


『今日のゴーーーール!!さぁ今週は日本代表戦を特集します!どんなスーパーゴールが生まれたのでしょうか?』


「映っているのは、 サッカースタジアムと呼ばれる施設です。 この中に6万人のお客さんがいます。 大きな壁面に青や白の点々が動いてますが、 あの一つ一つがお客さんです」


「あの、 全然意味わかんないです」澪而は困惑していた。 あの一つ一つが人間だとしたらどれだけ大きな建物なのか、 想像が出来なかった。 少なくとも澪而の知る今の日本には、 巨大な建物はなかった。 小説の設定に 使われる様な現実離れした話だと感じた。


「これは日本対中国の戦いです。 7対0で日本が圧勝します」栗沢はまた意味のわからないことを話した。 日本の代表が"中国"という名前のチームと戦う、 中国とは何という意味だろう、 と澪而は思った。


『ヘディングシュートが決まりましたー!ここで先制します!』 旗が立った遠いところから、 なぜかボールを蹴り上げて、 仲間らしき人物の頭にぶつかったと思ったら、 ネットが揺れていた。 青いユニフォームの男たちは、 大喜びで仲間を抱きしめたり叩いたりしている。


「こんなに痩せているのに、 あんなに走り回って、 汗をかくなんて、 死んでしまいませんか?」澪而は得点より日本代表の命の心配をした。


「美濃さんもそう思いましたか、 私も最初はそう思いました。 一緒ですね」そう栗沢は笑いながら、 彼らは一般的な人々よりも健康といって良いでしょう、 と変わったことを言って、「これが"スポーツ"です」と付け加えた。


「美濃さん、 彼らサッカー選手の顔を見て何か感じたことはありませんか?」栗沢は映像を巻き戻すと選手入場の場面で一時停止した。


「何だ?変わった顔の人が横一列に並んでいる。 あっ!派手な服を着た人が黒いです!見たことない!彼のことですか?」 澪而は目を丸くしてある選手を指差した。


「彼は日本代表で活躍した、 大変有名な選手です。 お父様がガーナ人でお母様が日本人です。 ガーナとはアフリカ大陸にある国です。 ()()()()で大陸です。 なんと世界には6つの大陸があります。 大陸に行くには、 海を越えなければなりません。 そして大陸には国があります。 2024年時点でも、 世界に国は190以上あり、 現在何ヵ国あるのかは我々は把握していません。 ちなみに白い服の選手たちは中国人です。 中国やガーナのような国を"外国"と言います。 外国それぞれに肌の色や顔の作りに特色があったりします。 横一列に並んでいたのは、 審判と呼ばれる試合のルールを司る存在です。 彼らも外国人です」何度も練習したのか、 この長文を一切噛まずに栗沢は説明した。


「"外国"の人たちも、 現代では、 日本人のように太っているのですか?」膨大なあり得ない情報と対面し、 混乱を極めた状況で、 なぜかこの質問がすごく重要な気がすると、 澪而は感じた。


***


「ただいま」


「遅い!こんな時間まで話してたの?」梨無子はダイニングテーブルに肘を乗せ、 頬杖をついて言った。 梨無子の方が帰りが早いなんて初めてだった。


「ちょっと色々あって‥‥‥。 詳しくは話せない契約だから‥‥‥。」 (うつむ)くと、 自分の腹が目に入った。 ふとビーチのピン芸人が頭を()ぎる。 ビキニの女性‥‥‥。


『心拍数が上昇しています。 安静にして下さい。』


「大丈夫!?疲れすぎたんじゃない?」梨無子の優しさが今日は鋭利に感じた。 心が裂かれるみたいだ。


「ねぇ、 海行ったら梨無子は何する?」


「何それ、 海鮮食べる以外ある?」


「俺もそう思う」




***


「どうしたの?もう出発するの?」本日、 休日の梨無子は朝食後のティータイムを堪能している。 この国で『ティー』 と言えば椎茸茶しかない。 緑茶も紅茶もコーヒーも絶滅した。 原産国が海外なら当然、 ロボットによる生産自動化に適していない食品も、 現代の日本には存在しない。


「ちょっと走ってくる」澪而は、 昔は運動のための衣服だったという、 ジャージを着て、 首にタオルを巻き、 スニーカーを履く。 服装はボクシング映画を参考にした。


「何のために?大丈夫なの!?くれぐれも気を付けて、 リングの警告には従ってよ」梨無子は心配そうに玄関までやって来た。


「変なの。 走るだけだよ」笑っている澪而の気持ちが梨無子には分からなかった。 近頃、 彼の様子がおかしかった。 パートナーが出て行った後の、 戸が閉まる音が聞こえるまで、 彼女は玄関で手を振っていた。


「よし、 やるか!」澪而は、 リングをストレス発散モードに切り替えて、 ジョギングを始めた。 この国には"運動"の概念がない。 (まれ)にリングから走ることを求められる者がいるが、 ストレス値が異常だから、 それを解消するために走る、 という名目で走らされていた。


今日の澪而のように、 自らストレス発散モードに切り替える人間は、 他に聞いたことがなかった。 澪而はジョギングを初めて経験する。 栗沢と見た映像を思い出しながら、 ほぼ歩きと変わらない速度で走ってみる。


栗沢は、 現代の日本人のような人々は"デブ"とか"豚"と呼ばれていたと話していたが、 2024年のバラエティ番組をいつくか見ても、 体型の悪口を言う人は特に見当たらなかった。 代わりに、 "ご飯美味しそうに食べるな"とか"もう腹減ったのか"とか食事に絡めて話すことが多く、 当事者も似た様な話を好んでいるみたいだった。


しかし当時のテレビでチヤホヤされたり、 映画やドラマの主人公になるのは、 決まって"普通"か"痩せている"か"筋肉質"の体型だった。 ヒーローになるのはそんなのばかりだ。


現在、 この国にもテレビがあるが、 ニュース番組しか無い。 "ピン芸人"というカテゴリーはあるが、 アナウンサーの横で少しユーモアのあるコメントをするだけだ。 当時のテレビを観て、 芸人はコンビやトリオなど 複数のメンバーで構成される場合が多かったと知り、 愕然とした。


「ハァ、 俺もサッカー選手みたいな、 ハァ、 キックが、 ハァ、 出来るようになるかな」


『緊急警報!緊急警報!命に危険が迫っています!今すぐ安静にして下さい!』


「うるせぇ!ハァ、 こんなもんで、 ハァ、 死ぬわけねーだろ!」澪而は急激にフラフラになって、 足を止めた。 身体がパンパンに張っている。 走ることがこんなに辛いことだと思いもしなかった。 デバイス(2024年でいうスマートフォン)を見ると、 走り始めてから5分しか経っていなかった。


「ちょっと美濃くん!どうしたの!すごい汗だよ、 死んじゃうよ!」ご近所さんの原田洲真(はらだしゅうま)に見つかってしまった。 当然原田も健康的な体型である。 そして、 自殺なんてやめてくれ、 と言って、 梨無子に連絡されてしまった。




「ただいま」 澪而は原田に連れられて家に帰って来た。


「ゔぅ、 何してるの?」梨無子は滝のように涙を流している。


「坂田さん、 美濃くんは自殺しようとした訳では無いみたいなんだ。 僕が早とちりしたせいで、 ごめん」原田は申し訳なさそうに頭を掻いて、 じゃあ僕はここで、 と逃げるように帰ってしまった。


「どういうつもり!」 梨無子は今度は怒り始めた。


「ストレス発散モードにして、 走ってみたんだよ。 そしたら5分しかもたなかった。 歩くのと変わらないスピードでね」 世界の罪を背負ったかのような暗い表情で澪而は呟いた。


「やっぱり普通の人に走るのは危険なんだよ。 もうやめてね」梨無子はまだ澄んだ世界の中にいる。


「俺がやったことは、 正しくは"ジョギング"と言うんだ。 誰にも話してはいけないよ」


「ジョギング?」


「すごく苦しかったけど、 走り始めた時、 風が気持ち良くって。 なぜか"生きてる"って感じたよ。 生まれて初めての経験だった」澪而は正直な感想を述べた。 目には涙を浮かべていた。



***



「どうでした?2024年」宿村がショートケーキを食べながら澪而に話し掛ける。 今日は仕事では無いらしく、 宿村もTシャツに半ズボンだった。


「正直なところ、 心も体も開放的で、 自由に見えました。 "現代の多様性"と"昔の多様性"では、 見える世界が全く異なります」宿村のように、 過去の話が出来る相手がいることが、 澪而にとって救いだった。


「昔はTシャツに柄があったり、 (えり)があるポロシャツなんかもあって、 "おしゃれ"という概念がありました」 宿村は澪而が着ている、 無地の白Tを見つめる。


「今は、 生産の自動化ありきの生活ですからね。 ‥‥‥俺にとっての"個性"は小説を書くことでしたが、 逆に言えば、 それしかありません」ファミレスの店内を無意味に見渡す。 ここは宿村が来る時は、 必ず貸切らしい。


「働かない人間の中に、 稀に創作活動をする人間が現れる。 国民はそれを大事にしなさい、 と高校で習うじゃないですか」宿村は苺を頬張り、 だから私は出版社に入社したのだと思っています、 と自分のことなのに他人みたいな不思議な言い方をした。


「ボクシングを観たんです」 澪而はため息をついた。


「あれは野蛮だ。 無くなって良かったです」宿村は皿についた生クリームを綺麗にフォークですくい、 口に運んだ。


「人間には、 荒々しい一面が隠されている。 誰の心の中にも。 そう思いませんか?」澪而はここ数日間で見つけた真理を打ち明けた。


「美濃さんは現代が生きづらいですか?」宿村は澪而の質問には答えず、 テーブルナプキンで折り紙を始めた。


「どうでしょうか?明日また、 栗沢さんの所に行きます。 ところで、 いつも何を折っているんですか?」宿村の手元を見つめる。 澪而は幼い頃は、 紙飛行機をよく作っていた。 栗沢に出会って、 飛行機という物があることを初めて知った。 宿村は何を作るのだろう。


「何も。 折って、 折って、 そこに思想はありませんよ」


「あぁ、 そうでしたか」


「ただ私はいつもここに来ると考えることがあります」


「‥‥‥何ですか?」


「ショートケーキと一緒にコーヒーを飲んでみたい」


「え?そんなことですか?」


「私の夢です」



***



「さて、 美濃さん。 今日はいよいよ恋愛映画です」栗沢は深刻そうだった。 この真っ白な部屋に来るのも慣れて来たが、 今日はなぜか、 白菜がテレビ台に立てかけてある。


「白菜ですよね?」当然の質問をすると、 昔は"観葉植物"という部屋に飾る植物がありました、 と返ってきた。


「白菜を飾っていたのですか?」また当然の質問をすると、「観葉植物の代わりに、 緑のものを持ってこいと部下に伝えたら、 白菜が届きました」と間抜けな回答が返ってきた。


「今日の映像はあなたにとって、 過酷かもしれません。 だから少しでも心に安らぎを与えたいと思い、 緑を用意しました」 栗沢はあくまでも真剣である。


「白菜の力でもいいから借りたい。 それくらいの映像だと?」澪而はだんだん不安になってきた。 初日はビキニで鼻血が出た。 もっと過激なものをこれから見るのか!?



***



「ねぇ、 澪而。 どうかしたの?」梨無子は、 好物のハンバーグに手をつけない彼を心配していた。 久しぶりの手料理を、 パートナーは喜んでいないのか?


「え、 何?」澪而の頭の中は、 さっきまで鑑賞していた、 恋愛映画のことでいっぱいだった。 端正でスッキリした顔の男女が、 最初は(いが)み合いながら、 すれ違いや衝突を経て最終的に強く結ばれた。 ビキニの痩せた女性のように、 露出をしてる訳では無いのに、 ラストのキスシーンで、 澪而は涙と鼻血を同時に出した。 あんなに素敵な作品だったのに、 栗沢は苦しそうにしていた。


「ハンバーグ冷めちゃうよ」 頬杖をついて梨無子がこちらを見つめる。


「う、 うん」澪而は梨無子から目を逸らし、 ハンバーグを食べ始めた。 脳内では、 栗沢との会話が再生される。


『昔の日本人を見てどう思いましたか?』 栗沢は恋愛映画のエンドロールの途中で、 話しかけた。


『この映画の男性は、 顔が端正でスッキリしていて、 動きの一つ一つが良いなと思いました』 澪而はこの俳優の映画を他にも観たいと思った。


『前に見たサッカー選手やボクシング選手、 ボクシングは映画なので俳優ですが、 彼らはどうです?』


『強そうでしたね。 速くて、 パワーがあって、 筋肉が凄くて、 同じ人間とは思えないです』


『憧れますか?』


『はい。 ジョギングに挑戦しましたが、 あんな体には、 俺はなれないです』


『彼らのような人間を"カッコいい"と呼びます』


『カッコいい?』


『主に男性を褒める言葉です。 女性のスポーツ選手など例外も多々あります。 容姿を褒める以外に、 闘う姿を讃えて使う言葉でもあります。 説明する言葉というより感性の言葉です』


『ヘェ〜、 そんな言葉があるんですね』


『この映画の女性はどうです?』 栗沢はゆっくりと地べたに座り込んだ。


『そうですね‥‥‥、 ずっと見ていたいと思いました。 ふとした表情に心が苦しくなりました。 今もはっきりと笑顔が思い浮かびます』


『美濃さん、 それを"美しい"と言います。 あなたは景色にしか使ったことがないのでは?』


『人間にも使う言葉なんですか?なぜカッコいいも美しいも今は使わないのですか?』


『感性の言葉です。 言葉を知れば、 現代の日本人でも使う人はたくさんいます』


『感性の言葉‥‥‥』



「ごめん、 1人で食べたい」澪而は、 無意識に出た自分の言葉に驚いていた。 梨無子は、 何言ってるの?と信じられない様子で、 硬直している。


「ごめん、 1人になりたいんだ。 ‥‥ハンバーグはもちろん食べるよ。 作ってくれてありがとう」澪而の謝罪の言葉と笑顔が、 無理をして作ったものだと、 梨無子には分かった。


「もう第7出版とは関わらない方がいいよ」梨無子は、 あえて強めの口調で言った。


「自分でも何のために頑張っているのか分からなくなってしまったよ」テーブルに肘をついて、 頭を抱える澪而を、 梨無子は後ろから優しく抱きしめた。


「お金に執着する必要無いじゃない。 所詮は自己満足だし」


「ずっと認められたかったんだ。 自分には才能があるって」


「んー私には分からないけど、 たまにいるよね、 澪而みたいな人。 ほんと色んな人がいるよね、 この世界には」



***



「あの‥‥今日は何ですか?」澪而は、 またあのファミレスにいた。 正面には宿村と栗沢がいる。 当然、 店は貸切である。


「栗沢さんが、 外で美濃さんと話したいと言うものですから、 たまにはここで、3人で会うのも良いかなと思いまして」そう言う宿村はスーツを着ている。 向かって左側の栗沢もスーツだった。


「でも仕事なんでしょ?スーツだし」1番年下の澪而が子どもっぽい()ね方をして、 オッサンの2人は噴き出した。


「ハハハッ、 まぁ何度も会ってるから、 情が湧いてしまいまして。 今日は映像の話じゃなくて出版の話です」 栗沢は嬉しそうに情報を小出しにした。


「俺の作品、 出版してくれるんですか!?」澪而は一気に機嫌を取り戻した。 それほどまでに、 小説に打ち込んでいた。 最近は、 ずっと過去の真実とやらを見させられて、 脳は疲弊しきっていた。


「ですが、『海を掻き分けて』ではないんです。 私たちで1から新作を書きませんか?」宿村は落ち着いたトー ンで話す。 説得力と覚悟を感じる、 嘘の無い瞳に、 澪而は感動していた。


「宿村さんって凄く優秀なんでしょうね。 俺には断る理由が見当たりません」澪而は正面に座る宿村に右手を出した。 宿村も右手を出して2人は固い握手を交わした。


「私も作品には関わりますからね」そう言って、 栗沢は両手を出した。 澪而は左手を差し出すと、 栗沢は力を込めて握りしめた。 2人の握力の差で、 栗沢がこのプロジェクトに、 より強い想いがある様に感じた。


「見てもらいたい資料があります」 栗沢は鞄の中から A 4サイズの分厚い資料の束をテーブルの上に出した。 右上に 『極秘』 という判子が押してある。 澪而は、 極秘の資料に本当に 『極秘』 の判子が押してあるという事実に興奮していた。


「これは何の資料ですか?」澪而はテーブルに肘をついて両手を組んだ。 イメージは小説に出てくるような、 悪の組織の取引だ。 自分もスーツを着てたら完璧だったな、 と馬鹿なことを考えている。


「この国が辿ってきた歴史です。 小説に、 ここに記された事実を少しずつ混ぜて頂きたい。 政府は真実を国民に話す機会を(うかが)っています。 そのジャブとして小説を出したいのです」栗沢は興奮した様子で、 やっとここまで来ました、 と感慨深そうにしている。


一方、 澪而は動揺していた。 「俺にそんな重大な小説が書けるでしょうか。 それに、 そんな重たい話を本当に出版するんですか?」実は本音では、 これ以上真実を知りたくないという気持ちもあった。 本人はまだ無意識だが、 澪而には既に変化が起きていた。 その無意識の変化が、 真実を遠ざけろ、 と言っているのだ。


「美濃くんは過去を知ってどう思いましたか?」 宿村が優しく質問してくれた。 『さん』 から 『くん』 に変わったことが、 澪而には照れ臭く、 しかし喜びが(まさ)った。


「昔の人間の姿を見た時は、 衝撃で体がもたないくらいショックでした。 あまりの美しさに、 直視出来ないこともありました。 映画は破廉恥(ハレンチ)でバイオレンスな作品が多かったのが印象的です」改めて口にすると、 現代と何もかもが異なってしまって、 今まで見たものが全部嘘なのではないか、 という気になる。


「そうですね。 どの作品を観ても辛い」栗沢は澪而よりも、 ずっと多くの映像を見てきた。 3年前文化人類設計省が出来たより以前から、 闘いは始まっていた。


「今現在はどういう気持ちです?」宿村が医師のように見える。 映画で観た、 "カウンセリング"のような接し方だ、 と澪而は思った。


「秘密を知った高揚感と正反対の虚無感の両方が続いています。 フィクションだったら良いのにと何度も思いました」自分の中の変化、 それが何かは分からない。


「美濃さんは変わっていますね。 ‥‥‥私はね、 この時代に生まれたことに、 猛烈な怒りを覚えています」栗沢は鋭い目つきで澪而のことを見た。 やり場の無い怒りを不当に向けられた気がして、 澪而は戸惑った。


「走れないからですか?」以前栗沢が話していたことを思い出して、 当てずっぽうを言ってみる。



「私はパートナーを愛せなくなった」


ピーーーーーーーーー


耳鳴りがした。


「彼女との間には、 息子と娘がいて、 その子ども2人には、 既にそれぞれパートナーがいます。 家族で真実を知っているのは、 もちろん私だけです。 私の気持ちを彼女に話すことはしたくありません。 ‥‥‥私は政府が落とし前をつけるべきだと思っています。 その第一歩がこの小説です」


『血圧が急上昇しています。 心拍数が危険なレベルまで上がっています。 今すぐ安静にして下さい』


「チッ!怒ることさえ許されない」栗沢は鼻血を拭いた。 彼はおそらく50代。 歳を取ると怒っただけでも血が出るのか、 と澪而は固唾(かたず)を飲んで見つめていた。


澪而は、 栗沢という人間が分かった気がした。 宿村は指で眉間を押さえている。 誰にとっても、 耳の痛い話 だった。


「太っている方が好みの人もたくさんいます。 でも私たちは違ったようです。 気付かずにこれまで生きてきた。 でも映像を見て、 本来の好みに目覚めてしまいました。 これは差別なのでしょうか?」宿村が澪而の知らない言葉を話した。


「"差別"って何ですか?」 澪而はまだ澄んだ世界の中にいる。


「除外や拒否と言い換えられるかもしれません。 自分がまるで悪魔にでもなったかのような、 最悪の自覚です」 宿村は目を閉じてゆっくり息を吐いた。


『カロリーが足りないので、 ショートケーキを食べて下さい』


「はぁー、 全く、 分かってますよ」宿村はウェイトレスを呼んでショートケーキを頼んだ。 ここではショートケーキ以外に選択肢は無い。 昔は日本にもチョコレートケーキなるものがあったらしい。


「ロボットが労働者の代わりを務めるようになった。 そんな時代だから、 日本政府は、 人類が目指すべき姿を実現させようとしました」 栗沢が憤怒の世界から帰って来た。


「白菜を飾った日があったでしょう?あれを持って来た部下は、 もうこの世にはいません。 彼は映像を観て、 自ら命を断ちました。 あの白菜は、 おかしくなった彼が真剣に考えて、 用意したものです。 美濃さんは、 選ばれた人間だと思います。 クリエイティブな才能を持ち、 映像を観ても正気を保っている。 政府はあなたに賭けています」 栗沢の瞳には闘魂が宿っている。



***



「"外国"の人たちも、 現代では、 日本人のように太っているのですか?」と以前、 栗沢に質問したことがあった。


「現在の外国のことは何も分かりません」 と言われたのが澪而にとって救いだった。





シャーーッ


「おはよう、 昨日は眠れた?」梨無子がカーテンを開いた。 レースのカーテンに濾された、 柔らかい光が、今日も梨無子を包んでいる。 白くて陶器のような肌は、 真実を知っても尚、 "美しい"と思えた。 彼女の体型も澪而は嫌いではなかった。 澪而は、 宿村や栗沢とは違うタイプの人間だった。


「眠れなかったよ。 参ったね」


『ここ2週間ほど血圧が高い状態が続いています。 睡眠を多めに取るようにして下さい』 とリングから提案されて、 澪而はこのガラクタにデコピンした。 そして、 それが出来たら苦労しないよ、と言って梨無子とダイニングテーブルの席に着いた。


「朝ごはんはオムライスだよ」梨無子は大きなオムライスに、 ケチャップでハートを描いて、 澪而に振舞った。 オムライスは彼の大好物だから、 元気を出して欲しいという、 願いを込めていた。


「ありがとう。 梨無子、 ‥‥いつもありがとう」穏やかな声で呟く澪而は、 やはり疲れているようだった。 梨無子はゆっくり彼の後ろに回り、 ギュッと抱きしめた。 前にもこんな事があったな、 と澪而は梨無子の腕を包んで、 この幸せを噛み締めていた。



朝食を終えた澪而は自分の部屋に戻り、 机に向かった。 例の資料をもう一度読み直す。 色々と書いてあるが、 要約するとこのようになる。


〈2xxx年、 世界ではロボットが主な労働力になった。 一部の企業は、 ロボットキーパーを少数雇い、 機械の保守点検をするだけで、 従来の生産を維持することが出来るよえになった。 新時代を迎えた世界に必要なのは、 エネルギーだった。


そしてエネルギーを目的とした、 小国の小競り合いが大きな火種となり、 第4次世界大戦が勃発。 日本はこの時、 アメリカとの共闘を拒否した。 我が国は戦争には参加せず、 国際協調にも消極的になり、 段階的に鎖国を始める。


国内では海外への未練を打ち消す報道や教育が行われ、 外見の特徴が、海外をルーツとする人々は、 たとえ日本生まれであっても国外に追放された。 閉鎖的で排他的な価値観は、国内で歪み続け、 容姿や体型の差によるイジメ、 それによる他殺や自殺が多発した。 同時に高齢者の過度な長寿化に歯止めをかけたい、 という積年の課題があった。


国は 『リング』 を開発して、 国民の全てを同レベルの肥満にすることを目指した。 太りやすい人間には適度な運動を促し、 痩せやすい人間には、 とにかく食べさせた。 食べても太らない国民は、 やはり国外に追放された。


計画は達成され、 最終的に日本人の平均寿命を60歳前後でコントロールすることが叶った。 人口は着々と減り、 ついには国産の食料だけで全国民の食事を(まかな)えるようになる。 さらに、 エネルギーは海水で発電するシステムにより、 輸入する必要は皆無となった。 こうして完全なる 『鎖国国家日本』 は誕生する。


さらにロボットによる産業の自動化により、 日本人の全てを働かせる必要がなくなったため、 次に国家 は....〉



『次に国家は』 の後は黒塗りされていた。 その内容については、 栗沢や宿村も知らないらしい。 政府にはまだ隠したいことがある。 澪而は、 この資料を初めて読んだ時から、 黒塗りの意味を考えていた。


それに、 この文章で初めて、 当時の海外の状況が分かった。 第4次世界大戦に加担しないことを選んだ結果が、 今の日本人の均質化に繋がっている。 つまりこの愚策が世界中で起きている悲劇ではないということ、そこに安堵(あんど)し、 日本政府に強い怒りを覚えた。 追放された人々を含め、 一体何人が被害に遭ったのだろう。


昼頃になると、 梨無子が部屋にやって来た。 「ねぇさっき買い出しに行ったら、 原田さん一家とばったり会ってさ。 また謝られちゃった。 お子さんにも、 父がすみませんでしたって、 言われちゃって、 なんか私も謝っちゃったよー」 梨無子は面白い話をしたつもりだった。


なんて事ない話に、 緊張が走る。


「原田さんのお子さんって何人?何歳だっけ?」



***



「ウェイトレスの足が(やかま)しいタイヤである理由が何だか分かりますか?」 宿村はこの日もショートケーキを食べていた。


「開発当時の総理が言ったそうです。 ロボットらしさを残さないと人間はロボットに恋をするようになる。 人間より美しくなっては困るって」宿村は、 出入り口前に立つウェイトレスをフォークで指差して、 だったら顔もメカらしくすれば良い話です、 と少し声を張り上げて言った。


「こんな簡単な話ですら、 人間が決定権を持つと無茶苦茶になります。 やってらんねーって話です」キャラじゃない言葉遣いをして、 いい加減ショートケーキも飽きましたね、 と宿村は愚痴をこぼした。 澪而が、 次は店を変えましょうと提案すると、 2人は友人のように笑い合った。


文化人類設計省の地下3階で資料を見ながら、 澪而は、 宿村とのたわいもない会話を思い出していた。


「美濃さんから連絡が来るのは、 新鮮ですね」栗沢は事態の深刻さに気付いていない。 むしろ自分の思い違いであって欲しいと、 澪而は願っていた。


「栗沢さん、 ニュース番組で、 日本の人口の推移について何か聞いたことありますか?」澪而は、 あと一歩でパニックになりそうな頭を、 必死に冷静にさせている。


「推移‥‥ありませんね。 約3500万人の印象しかないです」栗沢も不穏な気配を感じ始めた。


「『悪政の変人』 って単語が色んな資料にちょくちょく出てくるんですけど、 誰ですか?」 あの時代には戻るなとか、 散々なことを書かれている人物が妙に気になる。


「えっと、 志倉馬(しくらば)現登(げんと)総理ですね。 もう100年くらい前の総理です」ぱっと答えが出る栗沢を、澪而は密かに尊敬した。


「その頃の資料探しましょう」



***



澪而が無意識に感じていた、 自分の中の変化、 それは 『絶望』 だった。 この国に、 この時代に生まれた、 どうすることもできない絶望。 澪而は、 真実を見せられる度に、 永遠に秘密が続いていく気がしていた。 極秘資料と対峙し、 何重もの秘密のさらに奥。 この黒塗りの正体。 それももう分かってしまう。 絶望がまた繰り返される。




「こんなの‥‥‥許せない」ある資料を見つめる、 澪而の鼻から血が垂れている。 身体は怒りに震えていた。


『心拍数、 血圧が上昇中です。 危険です。 直ちに安静にして下さい。 危険です』


「美濃さん!大丈夫ですか!?」栗沢は怯えていた。 つい先日の自分も似たような状況だったが、 客観的に見ると恐ろしかった。 美濃を守らなければ、 国民はまた真実から遠ざかる。


「ちょっと行ってきます」鼻にティッシュを詰めた状態で、 澪而は決闘に挑もうとしていた。 そして彼は、 総理と話します、 と言った。


「美濃さん、 私も連れてって下さい、 というか私がいないと会えません」と言って、 栗沢は宿村にも連絡を入れた。


〈宿村さん、 美濃さんが総理と話すそうです〉



***



文化人類設計省の自動運転車に乗り込んだ2人は、 目的地に 『内閣総理大臣公邸』 を入力した。 4人乗りの車の後部座席に並んで座る。 しばらくの間があって、 栗沢が質問した。


「美濃さんは何に気付いたのですか?」 栗沢は本当は知るのが怖かった。


「志倉馬総理の時代、 15年間、 出生率が毎年公開されていたんです。 その数は概ね2.07です」澪而は落ち着きを取り戻していた。 リングも反応はない。


「2.07前後を維持し続けたということですか?」栗沢は澪而が何を言いたいのか、 分かってしまった。 心に闇が灯るような感触がした。


「この数は人口を維持するために、 必要な基準です。 多過ぎれば人口は増え、 少な過ぎれば人口は減る。 国民が1パートナーにつき、 2人から3人、 子どもを授かればいい計算です」澪而は既に政府による悪魔の計算の意図を理解している。


「志倉馬総理は、 国民にヒントを与えていたのか」 それで後の政権に、 『悪政の変人』 と呼ばれたのかと、 栗沢は承知した。


「現職の波木(なみき)総理は、 志倉馬総理の失敗を踏まえて、 慎重に情報を伝達するため、 まずは国民に真実を伝える土壌作りをするつもりです。 その1つが俺の小説」


「志倉馬総理の失敗ですか?」


「志倉馬政権時代、 自殺者が急増しました。 その理由は、 不明とされていますが、 俺は運悪く読者なので気付いてしまいました」


「読者?何のことです?」


「当時、 発売されて、 一部の人から大傑作と言われた、 しがない作家、 海老沢(えびさわ)夢子(ゆめこ)の小説、 その名も 『絶望』。 俺は感動作として読んでいました」


「その作家が当時のあなたと同じ役割ということですか?」


「おそらく。 または、 ニュースで知った出生率から、 鋭い感が働き、 真実まで辿り着いたのか」


「そんな‥‥‥」



***



黒くて高い壁に囲まれ、 中が全く窺い知れない。 澪而は現公邸に初めて近づいた。


「波木総理とお会いしたい」栗沢は、 文化人類設計省の身分証を門番ロボットに見せた。


『秘書に報告します。 ピーーー』


映画で見たFAXみたいな音だなと、 澪而は考えていた。 先程の怒りは落ち着いていた。 これなら冷静に話せる。澪而は、詰めていたティッシュを外してポケットに突っ込んだ。


『総理から了承を得ました。 お入り下さい』


ガチャ、 ギィーーーー、 ガタン


重厚な扉が開いた。 壁の中は、 想像したよりも広くない。 庭らしき場所は、 低木がいくつか植えてあり、 小さな花が咲いている。 門から続く、 こじんまりとした石畳を歩いて、 玄関の前に着いた。


玄関ロボットに栗沢が身分証を見せると、 ピピピッ、 と鳴って扉が開いた。 室内は意外に普通の家だ。 というか、 自分の家と同じ間取りじゃないか、 と澪而は驚く。 どうやら内閣総理大臣公邸ですら、 ロボットによる自動化の影響を受けたらしい。 栗沢を先頭にして進んでいくと、 寝室に着いた、 いや、 ここが総理の仕事部屋のようだ。 まさか内閣総理大臣と部屋がお揃いとは、 冗談がキツい。


コンコンッ


「栗沢です」


「どうぞ」 若い男の声がした。


ガチャ


部屋に一歩入ると即座に栗沢は深いお辞儀をした。 澪而も真似してお辞儀をする。 「本日は急にお時間いただいて、 すみません」栗沢の言葉に澪而も、 すみません、 と続けた。


「別に構わないです。 君たちには、 過酷な仕事をさせていますし、 私も会おうと思ってました」総理は穏やかな声で出迎えてくれた。


顔を上げると、 澪而は衝撃を受けた。 いつからか総理大臣はメディアに顔を出さないのが定番になっていた。 波木総理は、 明らかに30代だった。 重ための前髪を右の眉尻あたりから左に流し、 涙ぼくろが左側にあった。 痩せたらカッコいいだろうなと、 澪而は思った。


「あの、 総理、 お年はおいくつですか?」澪而は開口一番で無礼な質問をぶつけると、 総理は37です、 と答えてくれた。 見た目はもっと若そうだ。


「この国では、 選挙はなく、 適性のある人間が学校教育の中で見出され、 面接を受けて政治家になります」総理が説明を始めた。 大変真面目そうな喋り方だ。


「我々は政治思想を診断し、 それに基づき、 配属された政党で活動します。 診断は5年に1度行われ、 その度に政党に配属し直します。 4年前、 私が所属する政党が最多となり、 私が党の年長者になりました。 だから私のような若手が内閣総理大臣なのです」総理が2人掛けソファーの方に(てのひら)を向けてくれたので、 失礼しま す、 と澪而と栗沢は席に着いた。


この部屋には、 他にデスクとタブレット、 本棚くらいしかない。 澪而たちの部屋の方がよっぽど充実していた。 総理は回転式のオフィスチェアに座りこちらを向くと「では、 一体何の用かな?」と(たず)ねた。


「極秘の資料の黒塗りについて、 お話があります」澪而は、 総理が思ったより普通の人だったので、 あまり緊張せずに、 直球の質問を始める。 一方、 栗沢は膝の上に硬い拳を乗せて黙り込んでいる。


「ふぅー、 何でしょうか?」総理は、 栗沢の様子を見て、 秘密を暴かれたことを察した。


「この国の人口って、 ほとんど変動してませんよね?」澪而は、 さっきまでの怒りはどうしたのか、 というくらい自然に訊ねる。


「はい」総理は覚悟を決めて、 黒塗りについてお話ししますね、 と言った。 タブレットを操作して、 例の文章を開いた。


「では、 黒塗りの直前から()(つま)んで話します。

〈日本人の平均寿命を60歳前後でコントロール。 国内の資源だけで食事を賄えるようになる。 エネルギーは輸入する必要は皆無となり、 完全なる鎖国国家が誕生。さらにロボットによる産業の自動化により、 日本人の全てを働かせる必要がなくなったため〉‥‥‥ここからが黒塗りです。

〈次に国家は、 働かない人間と働く人間をデザインするようになる。 働かない者を 『N極』、 働く者を 『S極』 と呼び、 NとSが()かれ合う様にデザインをした。 働かない人間は子育てをしたり家事をする。 働く人間は主にロボットキーパーとなる。 ごく一部の人間を政府関係や企業などに就かせたが、 それもデザインされたものだ。 感情の起伏も激しくならないよう、 脳内物質の伝達をリングが調整。 暴力事件が圧倒的に減った。 こうして日本は、 人口を一定に保ち、 差別による死を根絶した世界で初めての国となった。〉 以上です」総理はタブレットから目を離し、 2人の方を見る。 彼らは固まったまま、 動かなかった。


「おおかた予想はついていたんですよね?」総理は栗沢に訊ねるが、 死んだ目のまま返事はない。 総理大臣はまだ若く、 見通しが甘かったのだ。 澪而の方を見ると、 口をぽかんと開けたまま、 涙を流していた。


総理は「一体何を期待していたんですか!」と怒鳴ると、 椅子を回転させてデスクに突っ伏した。


「私だって被害者だ!誰かが計画を始めた!国民だって、 何かが始まったことに気付いたはずだ!なのに!それが当たり前になるまで、 何世代かが黙って計画に従ったんだ!馬鹿な国民は、 何処かで口を(つぐ)んでしまった!」 総理は叫んだ。


『心拍数、 血圧が上昇中です。 危険です。 直ちに安静にして下さい。 危険です』


総理は鼻にティッシュを詰めて再び2人の方を見た。「聞いてるのか?」と訊ねても返事はないので、 一方的に話すぞ、 と告げる。 頼りにしていた栗沢の情けない姿に、 総理はため息が出た。


「リングには、 感情の起伏を抑える役割があるはずなんです。 しかし今の私はどうです?君たちも同じことを経験してるはずだ。 私たちは鼻血が出るほど、 感情が爆発している。 実は、 リングで寿命をコントロールしていたはずが、 最近、 突然死が増加している。 20代からも死者が出ています。困った事に、『デザイン』の技術は、現代の日本人には、受け継がれていません。ロボットが自動的に生産したリングを、生まれてきた赤ん坊に装着するのが普通とされてきました。止め時も分からない。死の原因は不明で、もちろん報道はしていません。 今後、出生率は一定をキープ、 もしくは下がっていくでしょう。 このままでは、 やがて日本人が絶滅してしまう」


「リングを止めるんですか?」 やっと澪而が口を挟んだ。


「それしか無いと考えています」 総理は澪而をグッと見つめた。


「人間のデザインはリングが行っているのですか?」澪而の心は、 もう知りたくない、 と叫んでいる。 しかしここまで来た自分には、 何か役割があるはずなのだ。


「おそらくそうです。 リング以外で人体に何かしたことは無いですから」総理は肩を落として、 窓の外を見つめた。 眺めの悪い家だ、 と思った。


総理に釣られて、 澪而も窓を見る。 我が家と同じレースのカーテン。 梨無子の優しい笑顔が浮かんだ。 「俺のパートナーへの愛情は、 リングに操作されたものですか?」


「相手は N ですか?S ですか?」 総理は優しい声色で質問した。


「働く方です」澪而の目には、 また涙が溢れてきた。


「では、 お相手はSです。 あなたは無職だと栗沢から聞いてます。 あなたはNです。 おそらくリングが結びつけたと考えられます」 総理も貰い泣きしそうになる。


またリングのアラートが鳴った。 今度は澪而だ。 総理がティッシュを渡す。 「そういえば、 梨無子はSだけど、 ご飯作ってくれます。 俺は作れません」と言って、 澪而はティッシュを受け取る。


総理は「リングのバグでしょうね。 寿命の件と同じでしょう」と正論を述べた後、 栗沢の方を見た。 栗沢は感情を失ったように床を眺めていた。


「バグによる差異は、 この世界では個性だと思います」澪而は周りの2人とは、 一段階別の次元で話を始めた。 「俺がここ最近知った真実は、 あまりにも闇が深い。 強者(つわもの)の栗沢さんがこうですから。 俺たちは、 真実よりも今ある人命を守るべきなのかもしれません」


「真実より今ある命‥‥‥」総理の気持ちが傾く。


「ダメです!」栗沢が泣いて止める。 栗沢の闘いには、 部下の命も乗っかっていた。


「俺はこの真実を知らなければ幸せでした。 たとえ寿命が60前後と決まっていても。 愛する人がリングのお陰で、 俺を愛してくれていたのだとしても」澪而は栗沢の手を両手で強く握りしめた。 栗沢はその場で(うずくま)った。


「俺たちの世代がまた口を噤むんです。 総理大臣すら真実を知らない状態にすればいい」澪而には志倉馬総理以後の政治家の気持ちがよく分かった。 もちろん話したい気持ちもよく分かる。 この苦しみを抱えることは耐え難い。



***



ガチャ、 ギィーーーー、 ガタン


壁の中から戻ってきた。 澪而と栗沢は両手を上に伸びをした。 パタンと腕を下ろすと、 2人の腹が少し揺れた気がした。


その頃、宿村は仕事中だった。


「宿村さん、 そこそこ面白いのありました。 コレとコレお願いします」部下の(つじ)が下読みした作品を宿村に渡す。


「分かりました」宿村は七三分けの七の部分を指先でなぞり、 いつもの集中モードに入ったはずだった。 東京第7出版社で真実を知っているのは、 ごく僅か。 過去の作品と比べると、 現代の作品は刺激がなさすぎた。 栗沢からのメッセージが頭を過ぎる。 美濃くんは大丈夫だろうか?


『美濃さんに質問があります。 この国では、 カードに労働の対価として報酬が貯まります。 お金は、 使うのが目的ではなく、 国の役に立った証として、 毎月貯まった数字を眺め、 満足するためだけの概念です』ファミレスでの記憶が(よみがえ)る。


『出版社に勤めていると、 小説家志望の方の作品がよく届きます。 お金が無いことで困ることのないこの世界で、 美濃さんはどうして本を出版したいのですか?』 宿村の場合、 遺伝子が 『働け!』 と言っているから、 働いている。 小説家は 『書け!』 と言われるのだろうか?


『たぶん‥‥‥俺はここにいるぞって、 叫んでるんです。 誰かに認められたくて、 辿り着いた方法が小説だった、 みたいな。 自分のことしか考えてないんでしょうね。 恥ずかしいです』澪而は照れながら、 ショートケーキを一口食べた。


『そうですか‥‥‥面白い。 やはり作家という人間は、 この国では異質な存在ですね』宿村は、 ここのショートケーキなかなかイケるでしょ?でも流石に飽きました、 と笑った。



ポーン


仕事を忘れて思い出に浸る宿村に、 栗沢から連絡が届いた。


〈一応、 全て終わりました。 3人でたまには、 うどんでも食べましょう〉


〈承知しました。 うどん、 大好物です〉と返事をした。



***



「いただきまーす」澪而は普段から梨無子とよく来る飲食店に、 戦友たちと訪れた。 年齢も職業もバラバラの3人が、カウンターに並んで座る。


「美濃さん、 ネギそんなに入れるんですか?」左隣で、 器に(あふ)れんばかりのネギを入れる澪而に、 栗沢はドン 引きした。


「栗沢さん、 あれは確かに多過ぎですが、 そこまで驚くことではありません」と言って、 栗沢の右隣で、 宿村もなかなか凄まじい量のネギを入れている。 うどん好きはネギ好きです、 という謎の名言を残して、 宿村はうどんをすすった。


「黒塗りの件も他の真実も、 全て口外しないことになりました。 宿村さんごめんなさい」栗沢を挟んで、 話しにくそうに、 澪而は首を伸ばした。


「別に私も話さなくていい気はしてました。 栗沢さんには悪いですが」宿村は揚げ玉で味変をしながら、 本音をぶちまけた。


「どうしてですか?」栗沢は語調を強めて、 宿村に訊ねる。 やはりまだ未練があるようだ。


「真実の世界は、 欲望に際限がないように見えました。 アレはアレで地獄です。 どちらに向かっても地獄なら、 何も知らないでゆっくり絶滅した方が幸せです」宿村の悟った物言いに、 栗沢も異論が出なかった。


「ただ、 美濃くんがその選択をするのに、 私は驚きました」今度は宿村が首を伸ばして澪而を見る。


「確かに鼻血が出るほど、 怒ってはいました。 でもリングが無ければ、 梨無子と結ばれていなかったかもしれないと思うと、 リングに対して感謝の気持ちが多少芽生えました」澪而は宿村のうどんを見て、 揚げ玉を入れてみた。


ズルズルッ


「何も知らなければ、 この世界を普通だと、 一生勘違いできたはずなんです。 その勘違いをさせてあげた方が、 未来の人たちは幸せだろうと思いました」澪而は揚げ玉を今まで入れなかったことを後悔した。 凄く美味かった。


ウィーン


「あっ澪而!もう仕事終わったの?」梨無子が偶然やって来た。 自動ドアから彼女に向かって後光が差している。


「あっ、 あれが俺の女神様です」澪而は平然と惚気(のろけ)た。



***



ある経済大国にて....


「ということで、 人口減少を止められず、 日本人は絶滅した。 政府関係の仕事をしていたが、 追放されてしまった日本人と外国人のミックスの子孫たちは、 旧内閣総理大臣公邸に、 日本が辿ってきた歴史が隠されているという秘密を、 代々受け継いで来た。 そこには波木総理大臣時代までの書類しか確認出来なかったが、 先程皆んなに話したような、 興味深い人間のコントロールについて、 解明することができたと言うわけだ」ある有名大学の大講堂で、 毎年立ち見が出るほど大人気の講義が今年も終わろうとしていた。


「教授、 日本の総理大臣はなぜこのような失策をしたのでしょうか?始まりは何ですか?」1番前の席で一生懸命メモを取る、 秀才が訊ねた。


「良い質問だね。 2024年辺りから、 目立ち始めた 『ポリコレ(ポリティカルコレクトネス)』 に日本政府が傾倒したことが原因ではないかと言われているね。 彼らは本気で差別を根絶しようとしたんだ。 目的自体は悪くないが、 やり方が横暴だろ?人間が決定権を持つと、 時に取り返しのつかないことになる。 我々は、 この失敗から学ばなければいけないよ」聡明そうな白い髭を貯えた教授は、 腕時計をチラリと見て、 講義を終えようとしていた。


「教授は、 差別はなくなると思いますか?」秀才が滑り込みセーフで最後の質問を投げかける。



「君、 日本みたいになりたいのかい?」


『絶望』

澪而と総理が重大な決断をした年の103年前の小説。 志倉馬政権の時に出生率の推移情報が公開され、 海 老沢夢子がそれに着想を得て小説にした。

主人公の凛華は、 幼馴染の颯太と偶然の再会を果たして、 結ばれる。 しかし、 その再会やその後の展開全てが両家の策略により、 導かれた必然だと明かされる。 凛華は、 操られた自分たちの人生、 その秘密を颯太に話さず、 添い遂げる。

この小説が何を意図していたのか、 出生率の情報と合わさり、 一部の国民は勘づく。 さらに後の作家の訃報 により、 彼らの疑惑が確信に変わった。

作者は小説発売後、 「走ってくる」 と家族に告げて、 1時間後、 路上で倒れているのが発見される。 これが 『走る自殺』 の第一号である。


『海を掻き分けて』

美濃澪而のデビュー作である恋愛小説。

海で出会った真っ白な肌の女性と海鮮バーベキューをする話。

宿村が強く推して出版に至るが、 売れ行きは芳しくなかった。

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