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ほむらみさき、そして…

作者: 德薙零己
掲載日:2009/10/31

「あおひとくさ」「ほむらみさき」の続編。運命に翻弄され逃げだそうとした和泉の命を救った桂。彼女は桂のもとに身を寄せ生きていこうとする。自分が特別ではなく、同じ苦しみを味わった人が今は普通に暮らしていることを知って、和泉は桂のその思いを受け入れた。

 メディアの力とは怖いものだ。

 先月まで自殺の名所だったところが、おいしい蕎麦のある名所になったのだから。

 「けっこう待ちましたからね。こんなに待ったらおそばが伸びてどうしようもないでしょうに。」

 「ソバ出されてから待つわけじゃないっての。」

 生まれたときから通っていると言ってもいいこの店に、桂は生まれてはじめて行列に並んで入店した。

 テーブル席は全て埋まっていて、桂が案内されたのは入り口近くのカウンター席。

 真新しい割烹着をまとった和泉はいかにも不慣れな様子。和泉のアルバイト初日、いかにも学生アルバイトという雰囲気の外見は新鮮なものに見えた。

 「で、何にする?」

 「いずみさんをください。」

 「こら!」

 「いいじゃないの、桂ちゃんが貰ってくれるってんだからあげちゃいなさいよ。」

 「かすみさんもまともに相手しないでください。」

 蕎麦屋の娘のかすみは、結婚するまではこの町のちょっとしたアイドルだった。桂が小学生の頃、かすみ目当ての中学生や高校生がよくこの店を訪れていたことを覚えている。

 そのかすみが結婚し、上京したのが二年前。それから一年して、元の名字に戻った上でこの町に帰ってきた。何があったのかは誰も聞かない。

 「それじゃ、とりあえずビール。」

 「未成年のセリフじゃないだろ!」

 「そうですか。それじゃ、みどりそばと、冷奴と、日本酒の冷やといずみさんで。」

 「みどりそばと冷奴ね。」

 「やっぱ桂ちゃんの扱いに慣れてるね。よっ、奥様。」

 「からかわないでください。」

 この店では茶蕎麦を「みどりそば」と呼び、壁にはひらがなで「みどりそば」と書いてある。

 この「みどりそば」がテレビでとりあげられた。

 旅番組でこの地を訪れた女性タレントがおいしそうに食べている姿がきっかけとなり、数多くブログがとりあげたり、掲示板で評判になったりとネットで話題になり、気がつけば行列ができる日々となって新しいアルバイトを雇うまでになった。

 二人掛けのテーブル席と桂の両隣のカウンター席が空いて、和泉は店の外で待っている客を招き入れた。

 「お二人様ご案内で~す。禁煙席になりますけども、よろしいで……」

 と言ったところで、和泉は入ってきた二人が自分と大して歳の差のない女の子二人と気づいた。明らかに未成年者。問答無用で禁煙に決まっている。

 「かまいませんけど……、……、会長!」

 先に店に入ってきた河崎は、店内を見渡した後で桂に視線を向けて固まった。

 「何してるんですか。」

 「土曜の昼食時におそば屋さんのカウンターに座ってる人に向かって何をしていると聞かれても、答えは一つでしょう。」

 「会長の場合、素直に考えられません。」

 「ちょっと、和波くん、一個ずれて。」

 河崎の後ろに入ってきた吉岡は、桂を一つ右にずらし、今まで桂の座っていた席に座った。

 彼女たちは桂の知り合いらしいが、和泉は彼女たちがなぜ桂のことを『かいちょう』と呼ぶのかわからなかった。

 「昨日、サボったでしょ。」

 「二人ともこれは失礼なことを言いますね。私が昨日サボったのは生徒会の役員会だけです。」

 「だからそれを聞いているんです!」

 「和波くんが来ないから、私が代わりやったんだよ。」

 「終業式で挨拶したからいいじゃないですか。全校生徒に向けて挨拶を済ませたのですから、クラス代表一人ずつ、全員足しても一五名程度の人に向け挨拶までわざわざする必要はないでしょう。」

 「終業式は終業式、役員会は役員会。全然べつ。」

 「でも話すことは同じですよね。『明日から夏休みです。高校生としての心がけをもってまた二学期に会いましょう』ってところじゃないですか。高校生の心がけとは何なのか知りませんけど。」

 「まず役員会をさぼらないことが心がけの筆頭。和波くんが居ないおかげで迷惑したんだからね。」

 「生徒会長不在の穴を埋めるのが副会長の役目ではないですか。いいですか、いつまでも私が生徒会にいるわけではないのです。来年の三月には私はもう卒業してしまうのですから、私が居なくなった後のことを考えてですね……」

 「同じ学年の人間に言うことか。和波くんが卒業するときは私も卒業するときだっての。」

 「だいたい、会長が来れば吉岡先輩が埋めなくてもよかったんです。吉岡先輩、昨日真剣に心配したんですから。」

 「海の向こうの国の工作船に連れられていってしまったんじゃないかとか、渋谷から出てきた芸能マネージメントの会社からアイドルとしてスカウトされたんじゃないかとかですか?」

 「あんたがアイドルになれるんなら、アタシはミスユニバースだ。」

 「そのときは祝福の紅白まんじゅうを用意させていただきます。」

 「マジメに受け取るな!」

 話を総合すると、この二人のうち、白いTシャツにジーンズの子は桂の同級生らしく、赤いチェックのシャツの子は桂の後輩らしい。

 そして、桂は高校で生徒会長をしていて、白いTシャツの子が副会長をしている。赤いチェックの子は、役職はわからないが生徒会の役員なのだろう。

 桂が生徒会長をしているとは知らなかった。

 まあ、今まで訊いてもいなかったし、桂も言うまでのこともないと考えたのだろうけど。

 「いずみちゃん、みどりそばあがったよ。桂ちゃんとこ。」

 「は~い。」

 厨房から呼ばれた和泉は、テーブル拭きを途中で切り上げて厨房に向かった。

 それからすぐにお盆に蒸籠せいろと小鉢を乗せてカウンターまでやってきて、桂の前に並べた。

 「お待たせ。みどりそばと冷奴。」

 「日本酒がついてないじゃないですか。」

 「未成年に酒出せるわけなかろう!」

 和泉は冷たく言い放った。

 「ひどいと思いません? それだけの理由でお酒出さないんですよ、この店。」

 桂は左を向いて吉岡に同意を求めた。

 「充分な理由じゃない。だいたい、生徒会長のくせにお酒呑むなんていいと思ってるの?」

 「平気です。バレないようにしますから。」

 「そういう問題じゃないの。だいたい和波くん、生徒会長って自覚あるの?」

 「それはもちろんあります。生徒会長は大学に推薦してもらえるのですよ。」

 「聞き飽きたからもうそれについてはとやかく言わないけど、生徒会長ってのは他の生徒の模範になるようにしなきゃいけないの。わかる?」

 「いいえ。」

 「……」

 吉岡は黙り込んだ。

 一部始終を聞いていたかすみが間に割って入った。

 「お嬢ちゃんたち、桂ちゃんとまともに相手しちゃだめだよ。」

 「見過ごせるわけないじゃないですか。」

 「あたしゃ桂ちゃんのこと生まれたときから知ってんだ。ふざけてるだけだよ。酒以外は。」

 「それがいちばんふざけちゃいけないところじゃないですか。」

 「吉岡さん。酒は百薬の長と言いまして、心身を健康にする効果があるのですよ。取引先との折衝、上司の小言、株主の圧力、高い高い税金。こうした辛い思いもお酒を飲めば忘れられるのです。」

 「サラリーマンか!」

 「高校生もサラリーマンも大して違いはありませんよ。吉岡さんはなぜ高校に入ったのですか?」

 「は?」

 「勉強したいなら何も学校など行かなくても、図書館にでも行けば充分です。」

 「いきなり根源的な問題出してきたな。どういうつながりがあるのかわからんが。」

 「我々の年齢の者が高校生でいるのは、勉強ではなく、高校生という身分ではないですか。世間体もとれますし、卒業すれば大学進学の許可ももらえます。進学じゃなくても、高校を卒業すれば就職のクチもあります。吉岡さんが高校生をやっているのは、高校生という身分の安定でしょう。」

 「う~ん。ようわからん。」

 「サラリーマンだって同じです。こうした飲み屋でああだこうだと愚痴を言うサラリーマンは多いですが……」

 「ウチは蕎麦屋で飲み屋じゃない。」

 「愚痴を言ってもなかなか辞めようとはしません。なぜでしょう? それは安定しているからです。色々と不満があっても、ストレスがたまるようなことがあっても、安定しているという魅力には勝てません。毎月毎月定期的に給料が貰えますし、家やクルマを買っても誰も文句を言いません。近所の人だって、スーツを着て出勤する様子を見ているからこそ『ああ、あの人は一生懸命働いてクルマ買ったんだ』って思うだけです。株とか、宝くじとか、働いていないって思われるもので大金を手にした人が家とかクルマとか買ったら睨みますけど、一生懸命働いている人が買ったものについては文句を言わないのが日本という国です。」

 「まあ、言いたいことはわかった。わかったが、関係がわからん。」

 「高校生とサラリーマンの共通性についてです。」

 「で、和波君はサラリーマンが持っているようなストレスがたまっている、と。」

 「いいえ。」

 「じゃあ、さっきの話は何だったんだ!」

 「ストレス解消とお酒の関連性です。高校三年生でストレスをためていない人がいたらその人は神か悪魔のどちらかでしょう。大学進学はどうなるのか、自分たちの半年後はどうなっているのか。これがストレスでないわけありません。」

 「言い切ったな。」

 「では、吉岡さんは神か悪魔ですか。」

 「私だってストレスたまることあるよ。どこかの生徒会長のせいでね。」

 「そういうことなら先に言ってください。同級生が困っているのに放っておくことはできません。吉岡さん、教えてください。その生徒会長はどの学校の誰ですか。」

 「自覚しなさいよ! アンタのことだっての!」

 「私ですか。」

 「そう。」

 「そういうことならば。すいません、かすみさん。ビールの中ジョッキ三つ。」

 「ちょっとまった! 何考えてんのよ!」

 「そういうときこそお酒です。人との関係で疲れたときでも、お酒を使えばスムーズなコミュニケーションが図れるのです。」

 「図りたくないっての。」

 「それでは、吉岡さんはどうやってストレスを解消するのですか。酒も飲まず、高校三年生に突きつけられた辛い現実にまともに向かい合ったら人生破綻しますよ。」

 「酒なんか呑んだら、そっちのほうが人生破綻でしょう。」

 「黙ってりゃばれませんよ。」

 「おっかないこと言うなあ、和波くん。」

 「すいませ~ん。お勘定。」

 「はい~。少々お待ちくださ~い。」

 和泉は走ってレジへと向かった。

 「和泉ちゃん、みどりそば三人前、1番テーブル、あがったよ。」

 「は~い、いま行きま~す。」

 厨房のおかみさんに呼ばれた和泉は厨房へ向かった。

 「和泉ちゃん、6番テーブル片づけるの手伝って。」

 「は~い。」

 かすみに呼ばれた和泉は大量の食器の残る6番テーブルの片づけを手伝った。

 「和泉ちゃん。」

 「はい。」

 「いずみちゃん。」

 「はい。」

 「いずみさん。結婚してください。」

 「はい。……、ん?」

 最後の言葉は桂の口から発せられた。

 「忙しいのにふざけるのはやめてよね。」

 和泉は桂の座っているカウンターににじり寄った。

 「ふざけてません。真剣です。」

 「なおタチが悪いっての。」

 やりとりの一部始終を見ていた吉岡と河崎は和泉をまじまじと眺めた。

 和泉には、このあたりではあまり見られない、都会の大人の女性の雰囲気があった。

 店の中の男性の視線がかすみに集まるのはこの店のいつもの光景だが、今日はかすみよりも和泉に視線が集まっていた。

 だぼっとした割烹着を着て三角巾をかぶった格好はお世辞にもファッションセンスにあふれた格好とは言えない。しかし、それでも和泉の美貌とスタイルの良さは際立っていた。

 吉岡は、上半身が白で下半身がジーンズという点では自分と同じなのに、どうしてこうも違うのかという劣等感にさいなまれていた。

 「何か?」

 和泉は二人の視線に気づいた。

 「あの……、和波くんのお知り合いですか?」

 「ええ、まあ。」

 「雄大なる自然の中、手を取り合って愛の逃避行を繰り広げた関係です。」

 「いい方に解釈するな。遭難させたくせに。」

 「遭難?」

 「どういうことですか?」

 吉岡も河崎も桂の説明が理解できなかった。まあ、当事者以外に理解できるわけはないだろうが。

 「こないだ森で遭難した高校生二人、あれ、私と桂なんです。」

 「遭難って何のことですか。」

 「お嬢ちゃんたち知らないのかい。桂ちゃんといずみちゃんの遭難劇。」

 「知らないなら知らないでいいですよ。思い出したくもないですし。」

 「え、何ですか! 聞きたい聞きたい。」

 「吉岡さん、河崎さん。誰しも一つや二つは知られたくないことがあるのですよ。私だって、生徒会長に立候補した理由が推薦入試目当てだとか、未成年のくせに酒を注文したとか、いずみさんに結婚を申し込んだらふざけるなと言われたとか、知られたくないことだってあるのです。」

 「いや、それ全部知ってるし。」

 「う~ん、でも、あまり知られたくないことってのはホントだね。まあ、おかげで今こうしていられるんだけど。」

 「いずみちゃん、森行かなかったらどうなってた?」

 「死んでましたね。」

 「あ、あの、あっさりと言わないでください。」

 「でもそうじゃないですか。桂に止められなかったら、岬から飛び降りてましたよ。」

 「……」

 吉岡も河崎も黙り込んだ。


 彼女たちもほむら岬のことを知らないわけはない。

 しかし、飛び降りる人は見ず知らずの他人であって、自分の知っている人ではない。言うなれば、赤の他人が自殺することと自分たちとは何の関係もないこと。

 それは彼女たちが感じていた死に対する反応だった。

 それなのに、いま目の前にいる女性は、自殺を決意していた。自分と会話をした人が少し前に死を決意した人ということの感覚が掴めなかった。

 自殺する人と自分たちとは何の関係もないという考えは崩れ去り、自分とつながりのある人の中に自殺を考える人がいるということを知った。

 「だから、桂にゃ感謝してるよ。助けてくれなかったら今ごろ私の身体は魚のエサさ。だけどね、結婚ってのは別。」

 その和泉がごく普通に桂と接していることに驚きを見せた。

 吉岡には間違いなく自殺願望者に対する差別感があった。自分はそんな人じゃないという思いがあり、自殺願望者は負け組だと考えていた。

 それは接することのない相手だから抱いていた差別感情。しかし、いまここで和泉と出会って、自分の抱いていた感情が醜いものだと知ってしまった。

 「それは困ります。婚姻届も用意してあるんですよ。」

 「いつの間にやった!」

 「先週。」

 「わたしゃ知らないよ!」

 「僕が書いておきました。あとは二人揃って町役場に行けばめでたく結婚です。」

 「だから、行かないっての。」

 「そりゃあ今すぐは行けません。僕はまだ一七歳ですから。ホワイトデーが終わりましたら僕も一八歳になれますからあと半年あとのことですね。」

 「決めるな!」

 そして、和泉の死を食い止め、いまもこうして普通に接している桂に複雑な気持ちを抱いた。

 「お待たせしました、みどりそば二人前で~す。」

 かすみは両手にお盆を持って運んできた。さすがに手慣れているのか、キビキビとしている。

 「お嬢ちゃんたち、国府台の生徒だろ。桂ちゃん、どうだい? ちゃんとにやってる?」

 「そんなわけないじゃないですか。」

 「会長は学校でもこんな感じです。」

 「でも、生徒会長なんだろ。」

 「そう、和波君が会長……、でもね、二票差なんですよ。二票差。今思い出しても腹が立つ。」

 「どういうこったい?」

 「吉岡さんも生徒会長に立候補しまして、次点だったので副会長となったのです。」

 「そうなんですよ。だから、和波くんに入れた人のうち誰か一人でも私に投票してくれたら同点になったんです。ったく……」

 「そうですよね。だいたい、私より吉岡さんのほうが会長に向いてると思いますから。だから私は吉岡さんに一票入れたのです。」

 「は?」

 「私は推薦入試が目的、吉岡さんは我が校をより良くしようと考えて立候補。どちらが立派なのかは明らかです。」

 「ちょ、ちょっと待って。和波くん、自分で自分に投票しなかったの?」

 「当たり前じゃないですか。」

 「いや、ぜんぜん当たり前じゃない。」

 「自分の考えに従って最もふさわしいとする人を選ぶのが選挙というものですよ。」

 「自分でふさわしくないって考えたわけ?」

 「私にも客観的に物事を見る能力はあります。一年のときも、二年生になっても吉岡さんは学級委員をしていたそうではないですか。それに、聞くところによれば、中学でも生徒会長をされていたとのことですし……」

 「聞かなくたって、アンタと私は同じ中学でしょ。」

 「そうでしたっけ?」

 「アンタ、まさか覚えてないの!」

 「ただそこに住んでるってだけで通うことが決まった中学の記憶などありません。」

 「言い切ったな。」

 桂の話を聞いていた和泉は、森の中での桂の過去を思い出していた。

 いつのことかはわからないけど、それが中学の頃だとすれば、桂が中学時代の思い出を封印しようとするのもわからないでもなかった。

 「せめて母校に対する愛校心とかないのか。」

 「自分でそこに通うと決めたならまだしも、そこに住んでるってだけで通うことが決まった学校に愛着なんかありません。校歌も覚えてませんし、校長もヅラだったことは覚えていても名前なんか覚えてません。」

 「完全に記憶から消去しやがったな。」

 「それじゃ、中学時代の思い出なんかないんですか?」

 「まあ、あるにはありますけどね。」

 「そりゃ、文化祭とか、修学旅行とかあるでしょ。」

 「たいした推薦のクチもないから受験に苦労したことは思い出に残ってます。」

 「受験かよ。」

 「中学に高校受験以外何の価値があるのですか。本人の実力以上の高校に合格させることが中学の役目でしょう。」

 「そう言い切ることないでしょうに。」

 「じゃあ、中学にそれ以外何の価値があるのですか?」

 「桂ちゃんも言うようになったね。ま、わからんでもないけどね。」

 テーブルの片づけの途中でかすみが横入りしてきた。

 「何かあったんですか?」

 「アタシね、高校受験失敗したんだよね。二つ受けて両方落ちて。あんときゃ裏口真剣に考えたさ。桂ちゃんの親父さんにも頼んだからね。」

 「和波君のお父さんって?」

 「私の父は今年厄年です。」

 「いや、年齢を訊いてるんじゃない。どういう仕事かを訊いているんだ。」

 「今は県会議員です。」

 「今は?」

 「町長選挙に出て落ちまして、それからしばらく無職でした。」

 「ま、お嬢ちゃんたちは知らないだろうさ。和波議員って知らないか?」

 「たかが一議員のことなんて知ってるほうが珍しいですよ。」

 「でもないぞ。アタシゃこないだ桂ちゃんの親父さんに一票入れたんだから。裏口世話してくれなかったけどね。」

 「父にそんな権力あるわけないじゃないですか。」

 「おぼれる者はワラをも掴む、ってね。桂ちゃんの親父さんがそういう人じゃないってことがわかったんだからいいじゃないか。」

 「そうなんですよ。せっかくワイロ貰うチャンスだったのに。」

 「こら! 人聞きの悪いこと言うな!」

 「ワイロとか裏口なんてのはバレなきゃいいんですよ。なのに、父は臆病ですから、清廉気取ってワイロ貰わないんですよ。」

 「だめでしょ! そんなモノ貰ったら!」

 「じゃあ、モノじゃなきゃいいんですね。かすみさん。今日からここでアルバイトをはじめた女の子を僕のお嫁さんにください。」

 「いいよ。持っていきな。」

 この話を和泉は一部始終聞いていた。

 「ちょ、ちょっと。かすみさん。」

 「大して変わらんじゃないか。どうせ一緒に暮らしてんだろ。」

 「そりゃまあ、そう……ですけど……」

 「え……」

 吉岡も河崎も絶句した。

 そして、店の中の視線が和泉に集中した。

 「一緒に暮らしてるってどういうこと!」

 「言葉通りです。いずみさんは私と同居しております。結構ある話じゃないですか。ドラマとかアニメだと良くあるシチュエーションですよ。」

 「現実世界の話をしなさいよ。同棲なんていいと思ってるの? 生徒会長ともあろう人が。」

 「じゃあ、会長やめます。」

 「そういう問題じゃないでしょ! 高校生のしていいことじゃないって。」

 「じゃあ、高校も退学します。」

 「そうじゃなくって、あ~、もう、何て言ったらいいんだ。」

 「不純異性交遊、ですか?」

 「まあ、それでいい。そういうこと、していいことじゃないでしょ。」

 「ではいずみさんを我が家から追い出せと。」

 「社会人なんだから、住むところ探すのは自己責任でしょ。」

 「いずみさんは高校二年生ですよ。」

 「へ?」

 「僕たちと一個下、河崎さんと同じ学年です。」 

 それから二人は和泉を眺めた。

 どう見ても自分たちより歳上のお姉さんだった。OLと言っても通用するだろうし、大学生でもおかしくない。少なくとも高校生には見えなかった。

 「私はもう高校辞めたの。だから社会人で正解だよ。」

 「ですから、うちの高校に転校してくればよろしいではないですか。」

 「だからね、そんなお金がどこにあるってのよ。」

 「ウチで出しますよ。」

 「ただでさえ住まわせてもらってるのに、これ以上迷惑かけられないでしょ。」

 「誰も迷惑に思っていませんよ。」

 「そりゃ、桂がそう思うのは自由だけどさ、あたしゃ無神経な人間じゃないんだから。今はお金無いけど、自分の生活費ぐらい稼ぐようにならなきゃ。」

 「高校生の生活は今しか味わえませんよ。」

 「そのうち生活に余裕ができたらそのとき夜学行くさ。」

 「大学は行かないのですか?」

 「行きたくないって言ったら嘘になるけど、あたしゃ桂みたいに金出してくれる両親なんてもういないからね。」

 「ですから、僕の両親はいずみさんの両親になるのですよ。」

 「だから結婚を前提とするな!」

 吉岡は和泉のこの言葉を聞いて、自分はかなり恵まれているのではと感じた。

 どうして和泉が桂の家にいるのかはわからないが、死を考えた自分より年下の人間が親に頼ることなく一人で生きていこうとしている。

 自分は、当たり前のように高校に通って、当然のように大学受験を考えている。

 でも、それは当然のことじゃないことに気づいた。

 「いずみちゃん、やっぱ高校行きなよ。桂ちゃんの親父さんに頼るのがいやだって言うなら、うちで学費ぐらい出すからさ。」

 「それはもっと困ります。働かせてもらってるのに学費まで出してもらうわけにはいきません。」

 「アタシみたいになったらだめだろ。」

 かすみの言葉は自嘲気味だった。

 「桂ちゃん、転校の手続きってどうすりゃいいんだ。」

 「まずはウチの教務課に申請を出しまして、受理されれば編入試験、で、合格すればOKです。」

 「よし、決めた。いずみちゃん。桂ちゃんの高校に入んな。」

 「かすみさん! 冗談はやめてください!」

 「冗談じゃないさ。うちだって変な評判立てられると困るんだよ。年若き乙女が二人、学校にも通わせてもらえず朝から晩まで働かされているなんて評判が立ったらどうするのさ。」

 「かすみさん、どさくさにまぎれて自分も加えましたね。」

 「それに、だ。いずみちゃん目当ての高校生引き連れてくれりゃ売り上げも増えるって。今まではアタシ一人が花だったけど、今日からは大人の色香漂う美女と、苦学を乗り越える現役高校生のダブルヒロインがお店をもり立てるの。わかる、桂ちゃん。」

 「でも、いずみさんは僕のものですけどね。」

 「決めるな!」

 「というわけだ、桂ちゃん、いや、生徒会長さん。あとは頼んだ。いずみちゃんを桂ちゃんの学校に入れてやってくれ。」

 「かしこまりました。どんな手を使ってでも転入させてみせます。」

 「ちょっと待ってよ。勝手に決めないで。」

 「では多数決で決めましょう。いずみさんの高校転入に賛成の人、挙手。」

 桂とかすみが手を挙げたのは理解できるが、吉岡や河崎だけではなく、厨房で蕎麦を茹でているかすみの両親や、この話を聞いていた他の客まで手を挙げた。

 「賛成多数により、本案は可決されました。」

 「何でだ!」

 「諦めなって。おとなしく高校行きな。」


 この日のアルバイトを終えて桂の家に帰ってきた和泉が見たのは、編入手続きの書類一式。

 「あとはサインと印鑑だけです。」

 「ねえ、本気なの。」

 「妻の人生を思うのは夫の役目です。いずみさんの通ってた学校にも連絡がつきましたし、理事長の承諾も校長の承諾も得ました。あとは書類を出して試験を受ければいずみさんは晴れて僕の後輩になるのですよ。」

 「なりたいとは言ってないでしょ。」

 「多数決により決まったことです。少数意見は尊重しなければなりませんが、より多数の意見に従うのは民主主義の鉄則です。」

 「自分の人生を何で他人に決められにゃならんの!」

 「そんなの良くあることじゃないですか。」

 「あるか!」

 「自分の人生を自分で決めることができるのは、ごくごく一部の限られたエリートだけです。あとは、他人が決めた、自分では望まない人生を歩むしかないんですよ。」

 「桂はけっこう望み通りの人生送ってない? 進学校の生徒会長じゃ充分エリートでしょ。」

 「エリートなら生徒会長なんかやらなくても大学に行けます。僕は中学受験に失敗しましたし、今の高校だって行きたかった学校じゃありません。エリートはこんな失敗なんかしません。」

 「だったら大学受験で見返せばいいじゃないか。行くんだろ、大学。」

 「いずみさんと一緒に。」

 「だから、私は行かないっての。」

 「今の世の中、学歴無しでやっていけると思います? 今はおそば屋さんでアルバイトできるからいいですけど、お店の経営が悪くなったら真っ先にクビ切られるの、いずみさんですよ。」

 「そのときはそのとき考えるよ。」

 「考えるのはいいですけど、学歴もない素性不明の未成年を雇ってくれるところがあると思いますか? 国府台町は失業者がいっぱいいるんです。」

 「桂が私を養ってくれるんじゃないの?」

 「養うのといい暮らしができるのとでは話が別です。夫婦揃って極貧生活するか、まあまあいい暮らしをするか、後者の方がいいに決まってます。」

 「……」

 和泉は観念したのか、書類へのサインを始めた。

 「うちの高校の編入試験は、国語、数学、英語の三科目です。国語は古典も含まれますが、漢文は含まれません。」

 「ほう。」

 「で、これが今年の試験問題と解答です。」

 桂はそう言いながら、封筒から紙の束を取り出した。

 「入試問題か。」

 和泉はそれを、今の高校一年生が今年の二月に受けた入試の試験問題と考えた。

 「はい、いずみさんが受ける試験の問題と答えです。」

 「はい?」

 和泉は一瞬桂が何を言っているのかわからなかった。

 「ですから、和泉さんが受ける試験とその正解の答えです。」

 「ちょ、ちょっと待って。なんでそんなの持ってるの。」

 「捨ててあったので拾ってコピーしました。拾いなおすかも知れないので原本は元通り置いておきましたので、これはコピーです。」

 「捨ててあったって、どこに。」

 「理事長室の金庫に。」

 「保管してたんだ!」

 「そんなわけありません。だいいち、いつもの暗証番号を入れたら鍵が開いたんですよ。」

 「『いつもの』って、いつもやってんのか!」

 「せいぜい月に一回か二回ですよ。」

 「一回でもやったらだめでしょうが。」

 「僕は生徒会長ですよ。」

 「関係あるか!」

 「生徒会長が休日に学校に行って、誰もいない理事長室に入って、指紋が付かないように手袋して、監視カメラも細工して、金庫の開け閉めするなんてごく普通のことですよ。」

 「嘘つくな!」

 「じゃあ、どうやって試験受けるんですか。中間とか期末の時期じゃ当たり前ですよ。」

 「当たり前なわけないでしょ。」

 「それじゃまさか、高校生にもなって、試験問題も答えも覚えないで試験に挑むとでも言うのですか。」

 「高校生だろうがなんだろうが、それが当たり前なの。だいたい、桂はカンニングが犯罪だって意識あるの?」

 「ありません。」

 「あのね……」

 「犯罪というからには誰か被害者が居なければおかしいでしょう。しかし、試験で高い点を取る努力をすることでは被害者が生まれません。そりゃあ被害感情を持つ人はいるでしょう。努力が足りずに低い点になった人は。」

 「盗むのは努力じゃない。」

 「いつどこで何を盗みました。」

 「いつ?今日。どこで?学校で。何を?試験問題を。ったく……、カンニングなんて不正やってまで良い点取りたいわけ?」

 「あたりまえじゃないですか。試験なんていうものはどんな手を使ってでも点をたくさん取ればいいんです。」

 「カンニングなんて卑怯だよ。」

 「卑怯を拒否するのは勝手ですが不合格じゃ何の評価にもなりません。世の中の評価は卑怯だろうと何だろうと合格点をとって入学したことだけです。学歴として一生つきまとうのはどの高校やどの大学に入学したかです。そのためなら卑怯と言われようが犯罪と言われようが、何でもしますよ。ボクは。」

 「バレたらどうするのさ。」

 「バレたって、理事長と校長の弱みはとっくに握ってますから、チラつかせれば向こうは黙りますよ。」

 「……、けっこう怖いことするな、桂……」

 「さ、それよりも早く試験の正解を覚えてください。試験は明日なんですから。」

 「は?」

 「明日試験ってどういうことよ。」

 「校長が明日でないと都合がつかないそうです。もう夏休みですし、研修やら何らやで忙しい方ですから。」

 「明日日曜だよ。」

 「もう夏休みですから何曜日だろうと関係ありません。」

 「アルバイトだってあるし。」

 「かすみさんの了解も得ましたし、何より、近所のかた、みなさんの応援も明日なら得られるのです。」

 「ちょっと待った。なんで近所の人が出てくるのさ。」

 「うら若き乙女が親元を離れ国府台町にたどり着き、そして出会った美少年と生涯の伴侶たることを誓い……」

 「自分で美少年とか言うな。」

 「自らの力で生きるべくおそば屋さんで働きながらも学業をきわめるべく試験に挑む。感動的なお話ではありませんか。」

 「感動できるか!」

 「ご近所のかた、みなさん感動されたようです。町会長さんもおそば屋のみなさんも、校長先生も涙を流さんばかりに感動して……」

 「あのね……」

 「という期待がかかっている以上、間違えても試験に落ちるなどあってはならないのです。」

 「なんか大ごとになったなあ、おい。」

 「ま、うちの高校の偏差値はいずみさんが通っていたとこより低いですから、だいじょぶでしょう。」

 「それじゃ、落ちたら?」

 「それは絶対にありません。」

 「なぜ言い切れる。」

 「いずみさんを落としたらどんな結果が待っているか、理事長も校長もイヤと言うほど心得ていますから。」

 「こら!」

 「言ったではないですか。どんな手を使っても合格させると。」

 「桂、あんたやっぱ怖いわ……」


 翌日。

 雲一つない快晴で、朝の天気予報では気象予報士が今年いちばんの暑さになると言っていた。

 「そろそろ試験が始まった頃かね。」

 開店準備をしながら、かすみは母親に語りかけた。

 「いずみちゃんにはあんたみたくなってほしくないもんね。」

 「だいじょうぶだよ。桂ちゃんがついてんだから。桂ちゃんはあいつみたいに女の子を見捨てるなんてしないよ。」

 「だね。」

 書類を出すといってもそれは儀式のようなもので、ただちに編入試験の行われる教室に案内された。

 和泉はこの日、前の学校の制服を着てきた。左の袖をよく見ると司の血の痕が点になっている。もう二度と着ることもないだろうと思っていたが、これも運命かと考えた。

 四〇人は入れる教室に和泉は一人で座った。

 それからしばらくして、監督教師らしい三〇代の女性教師が教室に入ってきた。

 「すでに説明があったと思われますが、試験は数学、英語、国語の順で行ないます。不明な点があれば質問してください。それでは、はじめ。」

 和泉は試験問題と向かい合った。

 それはまさに桂が持ってきたのと同じ試験問題だった。

 「|(これ、本当にいいの?)」

 和泉は自問自答した。

 「|(ま、いっか。)」

 それでも数学の回答が次々と埋まっていった。

 五〇分の試験時間がありながら二〇分で全てが終わり、あとの三〇分で見直しをした。

 そして気づいた。

 桂の用意した正答があるから解けるけど、なかったら自力じゃこの問題を解けない。

 考えてみれば、高校の授業などまともに受けていなかった。カラオケに行ったりショッピングしたり、制服で渋谷や原宿をうろつき、夜になったら身体を売っていた日々だったのがこれまでの高校生活。

 偏差値は高いところだったのに、何にも身についていない。

 「|(私、何やってたんだろ……)」

 悲しくなった。

 空しくなった。

 これまでの高校生活はいったい何だったのかと。

 数学の試験終了まであと一五分というところで、廊下を歩く足音がした。

 足音は教室の前で止まり、ノックの後、扉が横に開いた。

 封筒を持った桂が教室に入ってきた。

 「渡邉先生、校長先生がお呼びです。」

 「ん? 困ったな。今は試験中だぞ。」

 「試験の監督なら僕に任せてください。」

 「う~ん、それじゃ和波くん、すぐに戻ってくるから頼む。」

 「わかりました。」

 試験官の教師は教室を出ていき、教室の中は和泉と生徒会長の二人きりになった。

 「|(何で桂が……って、生徒会長だっけ)」

 桂もこうして見ると品行方正な生徒会長っぽい印象を受ける。教師があとは任せられると判断して教室を去ったのも理解できる気がした。

 この教室は職員室から丸見えである。

 いくらなんでもふざけたマネはしないだろうと和泉は思っていた。

 が、それは甘い考えだった。

 「試験終了まであと一五分です。間違いがないか見直してください。特に、途中の計算式でプラスとマイナスを間違えるようなミスは気をつけてください。」

 桂の表情、立ち位置、口の動き、その全てが試験監督として何の申し分のないものだった。発せられる言葉も試験監督としてはおかしなものではない。ただ、ふと下を見ると問3の途中の計算式で『-1』になっており不可解な答えになっていたのに気づいた。ためしにここを『+1』にして再計算するとすっきりした答えになった。

 「試験終了まであと10分です。」

 廊下を歩く足音が聞こえてきて、桂は聞こえるような声で言った。

 「お待たせ。」

 「それでは、僕はこれで。」

 先生にとっては頼れる生徒会長なのかもしれないが、和泉にとってはカンニングの協力者だった。

 「|(桂、あんた、やっぱ怖いわ……)」

 試験終了後、和泉は教室から会議室に案内された。

 自分がいままで通っていた高校と比べると、校内の設備も見劣りがするし、一言で言うと貧相に感じる。

 「|(だけど、掃除が行き届いてるな。前のトコなんかゴミが散らかってたし)」

 建物の古さと貧相さを感じたが、同時に、今まで通っていた学校にはなかった清潔感も感じた。

 建物の新しさと設備の豪華さでは負けるだろう。桂の言葉が正しければ、偏差値も前の学校のほうが上だという。

 だが、学校内の雰囲気は明らかにこっちのほうが良かった。

 昨日会った女の子達を見ても、援助交際とか、ドロドロとした愛憎劇とかとは無縁に感じた。

 「|(ここならやり直せるかも)」

 会議室につくまでの間に、和泉はここまで考えるようになっていた。

 会議室のテーブルには理事長と校長が並んで座り、校長の斜め後ろに生徒会長が立っていた。

 もっとも、最初はこの二人が誰なのかわからなかった。

 桂が半袖のシャツを着た初老の男性のことを『校長先生』と呼んだからこの男性が校長なのだろう。

 しかし、その横に座っている女性がわからなかった。

 若いとは言えない。見たところ和泉の母と同じぐらいの年齢だろうし、大学生の子供がいてもおかしくない外見をしている。

 ただ、美しさがあった。

 絶世の美女というわけではないが、インテリジェンスがあふれ出ている。才女とはこういう人のことを言うのだろうと思ったし、和泉は生まれてはじめて、知力の劣等感を感じた。

 「それでは、理事長先生。よろしくお願いいたします。」

 桂がこの場の司会をするようだった。

 そして、このとき、その才女がこの高校の理事長だと知った。

 理事長は和泉をじっと見つめた。

 「服部和泉さん。」

 「はい。」

 「まずは結果から申し上げますが、合格です。」

 「あ、ありがとうございます。」

 和泉は合格がこんなあっさり決まるものと思っていなかった。

 人生ではじめて経験した、そして今後も経験することがないであろう、自分一人だけが受験者という試験。

 そういう試験での合否判定はこういうものなのだろうと和泉は理解した。

 「実際の通学は二学期の初日からとなります。」

 これも和泉は理解していた。

 金曜日に終業式を終えて夏休みに入ったばかり。夏休みの最中に転校することはないだろうから、通うのは九月一日の火曜日からになるだろう。

 「服部さん。あなたのことは和波くんからも、和波くんのお父様からも伺っております。これまで通っていた高校にも問い合わせました。その中には服部さんが口に出したくないと思っているであろうこともありますし、私もショックを抱かずにいられないこともあります。ですが、あなたはもうこの高校の生徒。私は何があろうとあなたを守ります。」

 「は、はい。」

 理事長の言葉は頼れる教育者といった印象を抱かせた。

 もっとはやくこういう教育者に出会えていれば自分の人生は大きく違っていたのかも知れないと和泉は感じた。

 「本来であればゆっくりとお話をしたいところですが、本日はこれから出向かなければならないところがありますのでここで失礼いたします。服部さん。今日はあなたもいろいろと疲れたでしょう。今日はゆっくりお休みなさい。それでは、九月一日にまたお会いいたしましょう。」

 「きれいな人だねえ、理事長さん。」

 学校の敷地を出たとほぼ同時に和泉は口を開いた。

 「?」

 「桂は何とも思わないの?」

 「まあ、美人は美人ですね。僕はいずみさんの方がいいですけど。」

 「お世辞言ってどうする。だいたい、桂は何とも思わんのか。」

 「言ったではないですか。僕は理事長の弱みを握っている、と。それを知っている以上、僕は理事長に興味は抱けないのです。」

 「弱み握ってるって言うけど、理事長さんに何かあるの?」

 「理事長個人じゃないですけどね。お互い触れて欲しくないことだろうし。いずみさん、僕の過去、知ってますよね。」

 「桂から聞いたことなら知ってるけど、それ以外は知らないね。桂って、自分のことあまり話さないじゃない。生徒会長しているなんて言ってなかったし、お父様が県会議員だっての知ったのも桂の家に厄介になってからだからね。だから、私は桂の過去を少ししか知らないんだ。」

 「いずみさんにも言ったことです。あまり言いたくはないことですけど。」

 「……、言わなくてもいいよ。」

 「でも、聞いてもらわないと困ります。」

 このとき、和泉は良くないことをこれから桂が話すのではないかと思った。

 そして、その予感は的中した。

 「僕を犯してたの、理事長の妹です。」

 「……」

 和泉は何も言えなかった。

 「とりあえず終わったことになってます。本人はこの町から出ていって今はどこで何をしているのかわかりません。この高校に入学させてくれたのも妹の不始末を取るって言ったからですし、大学の推薦だってお詫びなんです、本当は。でも、表向きは僕が生徒会長だからってことになってます。前の生徒会長も、その前の生徒会長も推薦で大学に行けました。それまではそんな制度無かったのに、僕が入学したとたん、生徒会長は大学に推薦される制度ができました。僕が大学の推薦もらっても怪しまれないように。」

 「ちょっと待って。桂が生徒会長やるってのも決まってたの。」

 「ええ。僕は表向き大学の推薦が目的だって言ってますし、傍目から見れば県会議員の子ですから、選挙に出たっておかしくないと思われたでしょうね。本当は生徒会長なんてなりたくなかったんですけど。」

 「そう……」

 「吉岡さんに一票入れたのだって、生徒会長になりたくなかったからです。彼女は真剣に生徒会長をやろうと決意してましたし、僕より向いてます。」

 「二票差なんだよね。」

 「本当は吉岡さんが勝っていたのかもしれません。そのところはわからないです。もしかしたら、裏で仕組んだかもしれないです。いろんな人が。理事長は責任感の強い人ですし、人としても、教育者としても尊敬できます。でも、あの人からは思い出したくない記憶が蘇ります。だからおねがいです。できるだけ、理事長のことは話さないでください。」

 「うん。わかった。」

 和泉はこのとき、桂は涙をこらえているのを目にした。

 そして、いつものおちゃらけた様子のない今の桂が、和波桂という人間の本来の姿なのではないかとも思った。

 学校から桂の家までの帰り道の途中に、和泉がアルバイトをしている蕎麦屋がある。

 蕎麦屋に昨日のような行列はなく、店の外ではかすみがホウキを持って掃除をしていた。

 二人が歩いてくるのを見つけたかすみは、掃除を途中で打ち切って二人に駆け寄ってきた。

 「どうだった。」

 「無事合格です!」

 さっきまで涙をためていたのは何だったのかと言いたくなるような声で、桂が明朗に答えた。

 「良かったじゃないか!」

 かすみは和泉の手をとった。

 「よ~し、今日はいずみちゃんの合格祝いだ。」

 「何かおごってくれるんですか。」

 「おごったる、おごったる。」

 「じゃ、ビール。」

 「おごるのはいずみちゃんだけだっての。」

 「それ以前に、未成年者のアルコールが問題では。」

 「気にしない、気にしない。だいたい、今日はね……」

 そう言いながらかすみは蕎麦屋の戸を横に開けた。

 そこではちょっとした宴会が繰り広げられていた。

 「理事長先生……」

 その中で一番騒いでいる女性がいた。

 さっきまで憧れの才女と見ていた理事長がくだけていた。

 校長が理事長に酌をし、理事長がみるみるうちにグラスを空にしている。

 大人なのだから別におかしなことではないと和泉は頭では理解してはいたのだが、さっきまでの毅然とした理想の教育者というイメージが壊れてきた。

 「いずみちゃん、この方がたはうちの大切なお客さまだからね。」

 「は、はあ……」

 「それじゃ、校長先生、うちのいずみちゃんの合格祝いお願いしますよ。」

 「おまかせください。」

 校長はさっきから一滴も酒を飲んでいない。

 飲めないのではなく、この店まで理事長を車に乗せてきて、帰りも理事長を車に乗せて帰るので今日は飲まないことにするという。

 「校長先生もこういうところが頼れるんだよね。」

 「教育者が飲酒運転など許されることではありません。」

 「教育者じゃなくたって絶対ダメだっての。」

 おかみさんは校長先生と親しげだった。

 「いくらあなたでも特別扱いはできません。」

 「お知り合いなのですか?」

 「高校生の頃はうちでバイトしてたんだよ。いずみちゃんと一緒でね。東京からここに来て……」

 「あまり言わないでください。」

 「いいのいいの。いずみちゃんだって知っておいたほうがいいから。ほら、語りなさい。いずみちゃん、あなたの後輩なんだから。いろんな意味のね。」

 それからかすみは割烹着を手に持ったままでまだ着ていないいずみを校長の向かいに座らせた。

 桂は何ら促されることなく、和泉の隣りに座った。

 「あ、あの……」

 「今日のいずみちゃんはお客さん。で、おごるのは校長先生。」

 「じゃ、天ぷらそば。」

 「おごるのはいずみちゃんだけだっての。桂ちゃんが食べたかったら自分でお金出しなさい。」

 「かまいませんよ。生徒会長に晩ご飯おごるぐらい。それに、和波会長のお父様にはいろいろとお世話になっていますから。」

 「ありがとうございます。」

 「で、服部さん。理事長は先ほどの面接で服部さんがなぜこの地に着たのか知っていると言いました。それは、服部さんの人生にとっては生涯を左右する一大決意であったはずです。しかし、服部さんと同じ決意をした人間はこの町にはたくさんいます。例えば私がそうです。」

 「……」

 「私は四〇年ほど前、服部さんと同じ理由でほむら岬に来ました。私には和波君にあたるような人は現れずそのままほむら岬に行ってしまったのですが、そこで思いとどまったのですね。それからこちらのおそば屋さんでお世話になりまして、高校に通わせていただいて、大学に入って、この町に戻って教師になって、気づけば校長にまでなりました。女房がいて、子供が二人いて、今では普通の父親です。」

 和泉は校長の身の上を他人事ではない言葉として聞いた。

 と同時に、思いとどまったあと道を歩み直して、教育者となって家庭を持って校長にまでなったことはすごいことなのだろうと思った。

 そして、こう考えた。

 自分にもできるのでは、と。

 「いま、服部さんは高校二年生です。学校生活を立て直して、大学に進んで、自分の人生を作ることはできるはずです。」

 「ずいぶん偉いこと言うようになったね、あんたも。」

 「お母さん、校長先生なんだから偉いのは当たり前じゃない。」

 「でもないよ、だいたいこの人、うちの店でさんざん世話になったくせにかすみを合格させなかったんだから。」

 「そもそもアタシゃ受けてないっての。偏差値そんなに高くなかったんだから。」

 「それをどうにかするのが先生ってもんでしょう。」

 「そんなことできるわけないじゃないですか。」

 「ま、恩を仇で返された恨みはあるけど、今度はうちのいずみちゃんを入学させてくれたんだからヨシとするか。」

 「お母さん!」

 「いえ、いいんです。服部さんはうちの正統な試験を受けて合格した転入生です。教師としての誇りにかけて、服部さんを立派に育てて見せます。」

 「おおっ。」

 「そして立派に育ったいずみさんは僕のお嫁さんに。」

 「なるかっ!」

 理事長はその間、浴びるように日本酒やらビールやらを飲んでいた。

 「飲み過ぎではないですか。」

 「な~に言ってんの。これが私なりの応援。和波会長みたいに未成年のくせに酒・酒言っているわけじゃないから安心しなさい。」

 「僕だって学校の中でそんなことは言っていませんが。」

 「私はね、人にタダでお金を恵むなんてことしない人なの。寄付なんか一度もしたことない。だって、何もしないで誰かに恵んでもらったお金より、一生懸命働いて稼いだお金のほうが立派なお金じゃない。私がこうしてこのお店でたくさん飲んでたくさん食べてお金を払えばこの店の売り上げになる。そうして儲けたお金を服部さんは給料として貰う。これは働いたことの報酬でしょう。何もしてないのに恵んでもらったお金じゃない、ちゃんと働いて貰った正しいお金。だから、うちの学校には、学費を安くするとか無くすとかって制度あるけど、奨学金はない。その代わり、アルバイトはおおっぴらに認めてる。それで私はうちの学校の生徒がアルバイトしているところじゃないと買い物しないの。コンビニもガソリンスタンドもそこでうちの生徒がアルバイトしているかどうかで店を決めているし、今日からはまた、このお店の常連になるね。服部さんが卒業するまで。」

 「普通、逆ですよね。アルバイトは禁止して、奨学金はあるって。」

 「服部さんが通っていた学校はそうだったみたいね。でも、うちの学校はそうじゃない。働くことはとても大切なことだし、自分の学費を自分で稼ぐのってすごく立派なことと思う。校長先生はそうやって苦労して働いて、大学に行って、教師になって、家庭を持って、いまこうして生活してる。あなたは女の子だからそのぶんハンデはあるかもしれないけど、不可能なことじゃない。いまは四〇年前より男女の壁が低くなってるからね。」

 「は、はあ……」

 口調は酔っぱらいの戯言だが、理事長が言いたいことは理解できた。

 「どうだい、いずみちゃん。ここはね、こういう町なんだよ。何があっても立ち直ることができる、ね。みんな、何か持っているんだ。でも、立ち直れる。あたしだって、結婚に失敗して戻ってきちゃったけど、やり直せてる。」

 「……」

 「遊んでるんじゃだめだけど、それなりに働けば人生ってやり直せるんだよ。一生懸命じゃダメ。人生壊れちゃうから。アタシの元旦那がそうだったからね。そうじゃなくて、適度に働いて、適度に人生楽しめばどうにかなるさ。」

 かすみの言葉を和泉は重く感じた。

 「かすみちゃん、桂ちゃんの性格知ってるでしょ。裏も表も。」

 「ええ、まあ。」

 「あれぐらいでちょうどいいの。真面目って本人もまわりも疲れるからさ。」

 「桂はふざけすぎですよ。」

 「それでもいずみちゃんを助けてくれたじゃないか。うちにいずみちゃんを紹介したのも桂ちゃんだし、いずみちゃんを高校生に戻したのも桂ちゃんだよ。もし桂ちゃんがいなかったら、いずみちゃんどうやって生きてるの?」

 「それは……」

 和泉は即答できなかった。

 「真面目な人がふざけるのは困りものだけど、ふざけてる人が真面目になると格好良く感じるんだよね。アタシもたまに桂ちゃん見てドキってさせられることあるから。」

 「まあ、それはありますね。あまり認めたくないけど。」

 「いやでも認めるようになるって。たぶん、ね。」

 和泉は桂のほうに目を向けた。

 それだけで心拍数が上がる自分に気づいた。

 かすみが言った『ドキってさせられる』という言葉を和泉は理解した。


ほむらみさき、そして・・・ 完


当作品は、小説ブログ「いささめ(http://ameblo.jp/tokunagi-reiki)」で平成21年10月01日から30にちまでの1ヶ月間連日公開された作品を一つにまとめたものです。

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