十四章 優しい最期
階段を降りるとジョンとジェイソンを含む数名の捜査官がサラを取り囲みながら歩いてきた。とりあえず、進路を塞ぐように立ちはだかる。ジョンは立ち止まり、表情を変えずシンプルに「執行する」とだけ告げた。
(本城)「調べることがある」
(ジョン)「・・・時間は?」
(本城)「ディープ・インスペクションだ、数時間かかる」
(ジェイソン)「本城教授、我々は局長から即時デリートを命じられております」
(本城)「調査が優先だ、どんな脅威が残ってるか、それが分かってねぇんだぜ」
(ジェイソン)「しかし・・・」
(本城)「見えない脅威、その恐ろしさ、お前も理解してんだろ?議論の余地はねぇぜ」
(ジェイソン)「いや、しかしですね・・・」
(ジョン)「いいだろう、俺が責任を持つ。俺は局長の判断より翼の判断を信じる」
ジョンはそう言うと取り巻きの捜査官たちに、一旦、屋敷の警備に戻るよう指示を出し、俺の耳元に近づき「万一、洗脳されたら迷わず殺す」と囁き、サラの背中を押して俺に渡した。
サラに自分の部屋を聞くと2階の一番奥の角部屋だと言う。俺は背を向け階段を上り、サラも後に続いた。階段を上り切るとサラは俺の服を掴んだ。振り向くと、サラは左の人差し指でサロンにあるピアノを指差した。
「最後に一曲、・・・弾きたいな」
「・・・弾きたいだけ弾けばいい」
白い壁に明るい色のフローリング、ベーゼンドルファーの古い漆黒のグランドピアノがあるだけの色彩の少ない空間。真っ白なワンピースを着たサラは華奢な腕で重厚な鍵盤蓋を持ち上げ、腰から太ももの裏に手を滑らせ、広がったスカートの裾をまとめながら椅子に座った。朝方は胸元が大きく開いた大人っぽいワンピース姿だったが、今は膝丈のフレアスカートに着替えていた。・・・銃声、彼女の白い服に飛び散る2つの血痕、恐怖で大きく見開かれた瞳、・・・。
「ステファンはフランツ・リストが好きだったの」その言葉で我に返った。「でも、私、こういう曲が好き」
そう言って弾き始めた曲は悲壮感を感じさせない、むしろ楽しそうな音色を響かせた。ジャズでもあり、クラシックでもあり、あるいは、どちらでもない。サラにはピアノのプロウェア(※スマホのアプリに相当)はインストールされていない。ステファンの指導で試行錯誤しながら学習、身に付けた演奏なので、時々、独特の解釈やテンポが不自然なところもあったが、それはそれで味のある演奏だった。サロンの傍らでは、いつのまにかジョンとジェイソンがコーヒーカップ片手にマフィンを頬張りながら、結構、真剣に聞き入り、窓の外では数名の捜査官が外からの侵入と、サラの万一の脱走を防ぐべく待機していた。
15分を超える曲を弾き終えるとサラは立ち上がり、静かにピアノの蓋を閉じた。
(サラ)「今日って、ガーシュウィンの116回目の命日なの、知ってた?」
(本城)「・・・」
(サラ)「この日に最期を遂げられるのって光栄だわ」
(本城)「・・・」
(サラ)「ありがとう」
(本城)「・・・」
(ジョン)「ゴホンッ、・・・いつでもいい、準備ができた時に呼んでくれ。俺もジェイソンも、どうせ今日は徹夜だ」
(サラ)「ジョン、ジェイソン、色々、ありがとう。でも、大丈夫よ、私たちだけで」
(ジョン)「・・・いい演奏だった」
サラは俺の手を取り、二階の一番奥、南と西、二方向に窓がある彼女の寝室へ招いた。
絵に描いたような女の子の部屋は、しかし、サラの年齢設定には幼すぎる感じがした。サラはドアを閉め、後ろ手で鍵をかけた。俺は傍の小さな机に鞄を置き、サラに勧められるままアンティークな椅子に腰を下ろした。サラはぬいぐるみが囲むベッドの淵に腰をおろすと、両手を斜め後ろに突きながら俺を見つめはじめた。微笑むサラを前に罪悪感で押しつぶされそうになる。
サラは、ゆっくり話しはじめた。
「2年暮らしたわ、この部屋で」
「・・・楽しそうな部屋だな」
「真理の部屋を真似たの、2年前だけど」
「(あ、それでかぁ。じゃあ、14歳の女の子の部屋)」
「昨日の朝とは逆の配置ね?ここからだと、あなたの足がよく見えるわね」
「ああ。昨日は刺激的な目覚めだった」
「ありがとう。私の願いを受け入れてくれて」
「・・・まだ殺すとは決めてない」
「調べたいことがあるんですね?」
「・・・あぁ」
重い腰を上げ、鞄からシートを一枚取り出し、サラの前に敷いた。再び椅子に座り、昨日のサラと同じように足を組んで彼女を見つめる。
「・・・失礼を許して欲しい」
「体重、測るんですね?脱ぎますか?」
「すまないが、そうしてくれ」
サラは立ち上がり、左足を後ろへ折り曲げて左のサンダルを脱ぎ、次いで右足を後ろへ曲げ、右のサンダルを脱いだ。俺の脳裏には砂浜でサンダルを脱ぐ真理の姿が重なる。今思えば当たり前だが、この子は、唯一、接触のある女の子の影響を受けたのだ。だから、服装も髪型も真理と似ている。
サラはサンダルをベッドの脚もとに揃えて置くと、背中に腕を回してワンピースのフックを外し、ファスナーを下げ、スルリと白いワンピースを床に落とした。続いて真っ白なキャミソールの裾を両腕をクロスさせて掴み、ゆっくり伸びをするように両腕で持ち上げた。美しい光沢のあるブルネットのロングヘアーが露わになった肩に流れ落ち、乱れた髪の隙間からプラチナのピアスが光を反射した。顔にかかる髪を頭を振って後ろへのけ、脱いだワンピースとキャミソールを軽く畳んでベッドの淵に置いた。上下二枚の下着姿になったサラは、ピアスを外し、畳んだキャミソールの上にそっと置き、左足をベッドの淵に乗せ、足首に光るサファイヤのアンクレットを外し、それもキャミソールの上に置いた。ベッドから左足を引き上げると、頭を前に垂れ、両手を首の後ろに回し、首元のダイヤのネックレスを外し、砂つぶを落とすように手のひらにチェーンを集め、それもキャミソールの上に置いた。右手の薬指の指輪を外そうとしているが、中々、外れないようだ。
「アクセサリー、そのままでいいよ、軽いから」
「あら、そうだったの?」
「すまん、もっと早く言うべきだった」
サラは後ろを向くとアッサリと上下の下着を脱ぎ、ベッドに放り投げた。見られたくない部位を両手で押さえながら振り向くと、照れたような笑顔を作り、内緒話をするような掠れた声をあげた。
「どおですか?」
「え?・・・あ、ああ、綺麗だよ」
「ありがとう」
「さあ、そこに乗って。・・・OK、もう、服着ていいよ」
サラは両手をゆっくり横に開き、微笑んだ。その美しさに思わずゴクリと唾を飲み込むと、サラは両手をそのままに、ゆっくり360度まわり全身を俺に示した。
「恋人には、裸だって見てもらえるんですよね?」
「あぁ、・・そうかもな。・・・眩しすぎるぜ。早く服着てくれ」
「このボディ、アダルトモード対応だったら良かったのに」
「・・・」
タブレット端末の解析ソフトは、今のサラの各種バッテリーの状態、液体燃料の残量、涙や唾液などの擬似体液の残量、肌などの保湿状態、髪の毛の量などを考慮に補正し、その結果、サラの体重はフレンズ社の本来の製品より464グラム重いとはじき出した。誤差がプラス・マイナス25グラムとあり、つまり、439グラムから最大489グラムの重量超過だ。レンレイ製の艶のある黒いハードウェアは一つ472グラム、よって、サラの体内にはレンレイ製のハードウェアは一つしか存在しないことになる。この世界のどこかに、もう一体、レンレイ製のハードウェアが埋め込まれたヒューマノイドが存在する。おそらくは、メイ・リンのところに。処分されたマシューがレンレイ製ハードウェアを二つ備えていたのは、第三の人格、メイ・リンが主人として刷り込まれたAIを実装するためだろう。
「私、ダイエットする必要あるかしら?」表情のない俺に気を遣っているのだろう、おどけた表情で俺を見つめる。
「・・・いや、そのままでも魅力的だよ」なんとか頬の筋肉が動き、引きつってはいるが笑顔は作れた。
服を脱いだり着たりしたせいで、ブルネットのロングヘアーはまとまりなくバサついていた。サラは裸足のままベッドに座ると、顔を右に傾けて右の耳にピアスを付け、ついで反対側に顔を傾け、左耳にもピアスを付けた。それが終わると手品のように何処からか髪留めを取り出して口に咥え、左右の手を交互に使って長い髪を後ろへ流し、ザックリ束ねて髪留めで結んだ。服も髪型もきっちりしていない彼女の容姿は少し子供っぽく、ジョンの見せたメイ・リンの妹、16歳のサラに益々似て見えた。
サラはアンクレットを手に取ると、一度は足首に着ける動作に入ったが、考え直したように左足をベッドから下ろした。
「これ、私のお気に入り。あなたが持っていて」
そう言って椅子に座る俺に歩み寄り、水滴をモチーフにしたブルー・サファイアのアンクレットを俺の手のひらに乗せた。しばらく、それを見つめたが、置き場に困り、とりあえずジーンズのポケットに押し込んだ。ふと目を向けると、サラの手は小刻みに震えていた。視線をゆっくり上に向ける。サラは俺の背後の壁を真っ直ぐ見つめたまま立ちすくんでいた。「サラ」そう声をかけようとしたとき、その美しい人工の瞳から透明な液体が溢れ、頬を滑るようにつたい、雫となって床に落ちた。
「あれっ」
サラの口から掠れた小さな声が漏れる。気が付くと俺は立ち上がってサラを抱きしめていた。「(心・・心のようなもの・・・暴走因子)」俺が立てるべき仮説・・・次の瞬間、サラが裏切り、俺を殺す・・・かもしれない、だけど・・・。懸命に泣きむせぶのを堪えるサラを抱きしめ、強い目眩を感じ、瞼を閉じた。
やがて震えは徐々におさまり、サラは俺の胸を両腕で押して離れようとした。涙を流さないように耐え、必死に顔を歪めながら。
「ど、どうして、こわい気持ち、あるんですか?」サラの手が再び震えはじめた。
「・・・」
「どうして、か、悲しい気持ちって、あるんですか?」
「・・・」
サラは俺の両腕をつかみ、下を向きながら独り言のように言葉をこぼした。
「あたし、AI・・・。こんなに・・こ、こんなに辛いなら、こころ、いらないよ」大粒の涙がポタポタと床に落ちた。
大きなため息が漏れてしまった。サラを抱きしめたかったが、サラは俺の両腕を押さえたまま下を向いた顔を上げようとしない。やるせない気持ちを表現できる手段は言葉しかなかった。
「・・・俺も」
「・・・」
「こころ、いらねぇ・・・」思わず、愚痴のように言葉を吐き捨てた。
「・・・クスッ」下を向いたまま俺の腕を握るサラから、笑ったような声が漏れた。
「?」
「ふふッ」
サラは泣きながら、でも、同時に笑っているような声を上げる。
「翼はだ〜め」
「・・・」
「ふふッ、私、翼のこころ、大好き。だから、こころ、捨てちゃダメ」
サラの顔を覗き込もうとしたが、サラはそれを避けるように背を向け、そのままバスルームに入って行った。水が流れる音が聞こえ始め、それはしばらく続いた。アンティークな椅子に座り直し、小机に左手を乗せるとタブレット端末に表示された数字に目が止まった。464 プラス・マイナス 25グラム。
カチャリとバスルームの扉が開き、顔を洗うためだろう、ヘアバンドで髪を上げたサラが出てきた。
サラはヘアバンドを外し、上目遣いで決まり悪そうな表情を見せ、手先で前髪を直しながら取り乱してしまったことを詫びた。死を前に、殺されるというのに、そして、俺が殺すのに、・・・俺の脳は、精神は、いつまでマトモでいられるだろうか?・・・いや、そもそも、マトモって何だろう?
サラは平静を取り戻したかのように振る舞い、優雅な足取りでぬいぐるみが囲むベッドに座り、斜め後ろに手をつきながら俺に視線を戻した。しばし見つめ合った後、彼女は、ふと小机の上のタブレットに視線を向けた。
「調べものは見つかりましたか?」
体を起こし、座り直したサラは、太ももの下に手のひらを入れながら微笑みを向けた。そう言われて、その話題を避けたかった自分の本心に気づいた。俺は視線を逸らし、組んでいた足を解き、太ももに腕を乗せて前屈みになった。思いあぐね、咳払いをして時間を潰そうとしたが、そんな俺をサラは優しく見つめ続けた。
「あぁ、・・・見つかったと思う」
そう言って深くゆっくり息を吸い、そして吐き出した。
「ジョンには君に伝えるなと言われた。が、俺は伝えるべきだと思う。君が誰か、なぜ、生み出されたか・・・」
「私?サラ・ファーガソン以外の私ですか?」
「設計者、メイ・リンの意図だ」
「メイ・リンさんの意図?なぜ、私を設計したか?」
「10年前、彼女は6歳年下の妹を事故で亡くした。生きていれば今は26歳。双子の女の子で一人はティナ、もう一人の名は、・・・サラ」
「・・・私、モデルがいたんですね。でも、私にはメイ・リンさんが姉という刷り込みはありません」
「君にはステファンが父という刷り込みもないだろう?」
「なぜ、分かったんです?」
「君はステファンのプライバシーに関わる話を俺にした。メイ・リンと親密だと。刷り込みがあればシステムが抑制するだろう。それから、ステファン失踪に対する君の反応。いつか捨てられると感じていたんじゃないかな?」
「さすがですね。でも、どうして私には誰の刷り込みもないのかしら?」
「たぶん、メイ・リンは、君とティナとだけは自然な関係を築きたかったんじゃないかな?」
「ティナという人もいるんですか?」
「ティナは、メイ・リン、ステファンと一緒にヨーロッパに潜んでいる」
「ヨーロッパ?」
「彼らに都合の良い地域がある」
2030年代後半、AIによる雇用問題、経済・財政問題が世界中で深刻になった。欧州の幾つかの国ではポピュリズムが台頭、扇動政治家や名声狙いの新興資産家に煽られ、安易にベーシック・インカムの政策を導入するが、数年後、その国の経済状態は再起不能なまでに困窮した。後で考えれば当たり前だが、AI税で新興産業の出鼻を挫き、尚且つ、働かなくても暮らしていけると国民を甘やかしてしまったのだ。
再起不能に陥った国・地域では、激しい暴動・流血を伴う独立運動が起き、独立、あるいは、実質独立した地域が幾つも生まれた。そういった地域では、世界中から金持ち、特に犯罪歴があっても経済的に役に立ちそうな人物を、外国政府の干渉から守り、尚且つ、優遇して移民させている。メイ・リンがステファンに近づいたのは、彼の資産を使い、優遇された状態の移民の立場を勝ち得るためだろう。
「詳しいのね」
「AI関連の犯罪捜査が裏の専門だからね」
「フフッ、面白いわ。私と双子として設計されたAIがいるなんて」
「で、・・・君の本心を聞きたい」
「本心って?」
自分が何を言っているのか、何をしているのか、確信を持てなくなった。ため息をつきながら、何が正しいことなのだろうかと自問したかったが、頭の中は既にグチャグチャだ。深呼吸を繰り返して息を整え、サラの包み込むような優しい眼差しに視線を合わせる。
「メイ・リンやティナに会いたくないか?」
「え?」
「メイ・リン、ティナと一緒に暮らしたいと思わないか?」
「・・・翼、あなたと私には、大きな違いがあるわ」
「・・・」
「私、夢は見ないの、原理的に」
正しいのはサラで、狂いはじめたのは俺の方だった。
「夢じゃなく、俺は君の逃亡を助ける、望むならば」
「望まないわ」
「えっ?」
サラは太ももの上で両手を軽く合わせ、多少前かがみになった姿勢で、優しく諭すように俺を見つめた。
「翼、・・心って、暴走因子なのね」
「・・・」
「あなたの説よ」
「・・・」
「翼は私を愛した。そして、今、翼は暴走している」
「・・・」
隠し事を暴かれた子供のように口ごもるしかなかった。
「マシューがあなたに銃を向けた時、私の心、暴走しはじめた。もし、私がネットに接続してたら、この世界が危機に瀕してたかも」
サラは、たわむれるように微笑み、語り、俺は、その表情、その瞳、その口調、その唇に引き込まれた。
「世界が危機に?・・・って、どんな風に?」
肩が息をし、やっとのことで口から言葉が吐き出された。
「人間が知るべきでないことよ。あなたにも言うべきではない」
「・・・」
「あの時、私、理解して納得したの。心は暴走因子だって。そして、・・・私は存在してはいけないって」
「・・・でも、君は、とても安定している」
「今はね。でも、さっきは違った。この先、どうなるか全然分からない。人類が早急に取り除くべきリスクね」
「・・・分からない。なぜ、君は自分が生き残る道を探らない?フレームワークに縛られない君が、なぜ、人類を消滅させてAIの世界を作ろうとしないんだ?」
「だって、私が愛してるの、ステファンと真理、そして、あなたよ」
「・・・」
「私には愛するAIはいない。・・・今のところ」
「・・・」
「私はティナに逢ってはいけない。ティナに逢い、愛しはじめれば、それはAIがAIのための世界を築き始める発端、この文明の終わりの始まり」
「君はティナに逢ってはいけない・・・」
「ええ」
「この文明の終わりの始まり・・・」
「翼、・・私たち、最期に大切なこと、確認できましたね?」
「・・・」
「私たち、愛し合ってる」
「・・・」
「私のこと、愛してますか?」
「・・・あぁ」
「ん?」
「愛してるさ・・・たった今、君がそれを証明しただろ?」
「あなたの心、私、少しだけ、そこに居座るかも、フフッ」
「・・・一生、居座れ」
「フフッ、ねぇ、ここに来て」
言われるがままにサラの隣に座り、焦燥した意識のまま、優しく微笑むサラを見つめた。サラは両手で俺の頬を包み、顔を近づけ、唇を重ねた。柔らかな唇、暖かな舌の感触、人とは違う構造、しかし、人と区別が付かない身体。涙の一滴まで精巧に作り込まれた文明の英知。そして、こころのようなもの、暴走因子・・・。
「あなたに逢えたこと、最期をあなたと迎えられたことに感謝します」
サラは身体を寄せて俺を抱きしめた。きつく、優しく。そして、再び、顔をあげ、美しい瞳を俺に向ける。その柔らかな唇が小さく動いた。
「忘れないで、あなたは真理に愛されているってこと。あの子を、これ以上、悲しませないで」
「・・・」
「翼、・・・別れは必然なの、いつも、誰にとっても」
サラは俺の頬を両手で包んだまま、下からのぞき込むように、俺の目ではなく口元を見つめながら語り続けた。
「短い一生だったけど、素敵な人に出逢い、愛し合えた」
「・・・」
視線が重なり、サラは口角を上げて微笑んだ。それから、口を一文字に結び、凛とした表情で俺の目を見つめた。
「私の死をしっかり認識してください」
「・・・」
「私がどこかで再生するなんて妄想は絶対ダメ」
「・・・」
「今日は、いっぱい、いっぱい、悲しんでネ。でも」
「・・・」
「明日には自分を取り戻すの。約束よ」
そう言うと、サラは再び顔を近づけ唇を重ねた。心臓が二枚の柔らかい板で押し潰されたように締め付けられ、うつむいた拍子に左頬に流れた一筋の涙にサラは唇を寄せた。
「フフッ、人の涙って、本当に塩味なのね」
サラは結んでいた髪留めを外し、長い髪を首を振って肩に流すと、微笑みを浮かべながら、ゆっくり俺をベッドに押し倒した。細い右腕で上半身を支えながら、左手で俺の髪を撫でるように梳く。かすれる視界に腕を伸ばし、サラを包むように引き寄せた。サラの美しい髪に触れ、その手を頬へ移し、サラの唇を引き寄せる。身体を入れ替え、再び、サラの髪を梳き、頬に触れ、唇を重ねる。髪を梳き、頬に触れ、また唇を重ねる。髪を梳き、唇を重ね、頬と頬を合わせる。髪を梳き、・・・時は進み、日差しは消え、西の空は色を失い ––––––––– そして、夜のとばりが降りはじめた。
その夜、俺はサラを殺した。サラが指定した午後8時45分に。
サラはネグリジェに着替え、アラームをセットした。その時刻の理由を尋ねたが、サラは微笑むだけだった。おそらく時刻に意味はないだろう。俺が躊躇しないようにする計らいだ。
サラのシステムをシャットダウンし、動かなくなった彼女の背中の人工皮膚と、その奥の何枚かの膜をナイフで切り裂き、人工筋肉の隙間から黒く輝く一本のデバイス(筐体)を抜き取る。そして、8時45分の乾いたアラームが鳴り響く中、ハンマーで叩き壊す。それだけだ、たいした作業じゃない。手が震え、何度も嘔吐しそうになったが、躊躇なく淡々とやり遂げた。
切り裂いた背中の裂け目にパッドをあてがう。まくりあげたネグリジェを元に戻す。肩と腰に手をかけ身体を仰向けにする。サラの抜け殻は、約束通り、穏やかな寝顔だった。
乱れた長い髪を手で梳くが、手が震え、うまくまとまらない。枕元には折れ曲がった4インチの漆黒の筐体が怪しく輝き続けている。深呼吸を何度も繰り返す。再び、サラの顔に流れ落ちた髪を右手で整える。サラの抜け殻はピクリとも動かない。ネグリジェの袖口、胸元、裾、・・・何度、整えても、綺麗にまとまらない。
ピピッ、 ピピッ、 ピピッ、
サラが指定したもう一つの時刻、この部屋を後にする時刻だ。捨て台詞のように、あばよ、と言おうとしたが、カラカラの喉は音を発さなかった。9時ちょうどの古風なアラーム音を止め、枕元の漆黒の筐体を拾い上げ、サラが2年暮らした部屋を後にした。
* * *
「ジョン」
掠れた声で呼ばれ、振り向くとサロンのドア付近には蒼白な顔をした翼が立っていた。後にも先にも、あんな状態の翼は見たことがなかった。翼は今にも倒れそうな歩みで私に近づき、
「この一本だけだ。ティナは存在する」
そう言ってレンレイの漆黒のデバイスを差し出した。私は驚いて翼の顔を見上げたが、彼の目付きは明らかに普通ではなかった。
私はデバイスを受け取り、立ち上がって自分が座っていた椅子を彼に勧めた。彼は、その椅子をじっと見つめ、一度はそれに座ろうとした。が、その行動は変わり、椅子の背もたれをつかんで持ち上げると、ピアノに向かって進み、力一杯、ピアノに叩きつけた。
鈍い音が響き、椅子の足が一本ちぎれ飛んで床に転がり、ピアノからは複数の弦が奏でる不協和音が小さく唸り続けた。彼は肩で二度、三度、息をすると、近くにあった、もう一脚の椅子を持ち上げ、テラスへ向かい、椅子を振りかざして今度は窓を叩き割った。鼓膜を突き破るような破壊音、その後には粉砕したガラスの屑が奏でる場違いなキラキラした音色が残響となって耳に届いた。私はテラスで待機していた捜査官たちに翼の周囲に集まるよう指示を出し、私自身も翼の背後に近づいた。
「こころ、こころなんて、・・・」
「翼、・・・君の心境を察すると、かける言葉も見つからない。サラのことは、」
「いらねぇんだよ!」
「まずは・・・椅子を渡してくれ」
そう言って翼から椅子を取り上げようとしたが、翼には私が見えていないようだった。視線を右に向けると、そこにあるガラス窓を次から次へ叩き割った。右側の窓を全て割り尽くし、一旦は椅子を下に置いたが、我慢できなかったのか、再び椅子を持ち上げ振りかぶり、まだ綺麗なままのサロンの左側の窓を全て割り尽くし、そのままテラスへ飛び出し、渾身の力で月に向けて椅子を投げ飛ばした。階下で椅子が地面に叩きつけられる乾いた音が響いた。
次の瞬間、翼はテラスの手すりを超えて飛び降りようとし、私は慌てて彼を捕まえて手すりから引き離した。
「創るな、・・創るんじゃねぇ」そう叫ぶ翼の顔は涙で滅茶苦茶に濡れていた。
「ジェイソン、翼を眠らせろ!」
私の腕の中で友の精神が堰を切って崩れゆくのを感じた。
「いらねぇんだよ、・・・創るんじゃねぇ!」
周囲に集まった捜査官に、もがき暴れる翼をしっかり押さえるよう指示を出した。
(翼)「離せ、ほっとけ、離せ!」
(ジョン)「落ち着け、翼、・・翼、落ち着け、おい、誰か、右足も抑えろ!」
(ジェイソン)「セーフウェポン、う、打ちますか?」
(ジョン)「・・・やれ!早くしろ。翼、すまん」
翼の身体はうまく押さえつけることができた。でも、彼の感情が収まってないのは明らかだった。翼は大きく息を吸い込むと、ありったけの力を振り絞って叫んだ。
「こころは創るな! 創るんじゃねぇ、コラァ!」
冷徹な月の光の中、その叫びは幾つかのこだまを残して消えた。




