第11話 昼食は美術室で
朝の通学路。緩やかな傾斜の並木道の途中で、誠司はひかりが通りがかるのを待っていた。
誠司はポケットから美術室の鍵を取り出して大きく息を吐いた。
たかが一本の鍵がこれほど重く感じられるなんて……。
昨日島田から受け取った美術室の鍵は、ひかりと二人でお弁当を食べるのには大助かりだった。
しかしよく考えてみると、教室で二人きりでお弁当を食べようなどという大それたことを言いだすのは、誠司にとってあまりにもハードルが高すぎる内容だった。
左手しか使えない俺のことを考えて、時任さんは朝早くから起きてお弁当を作ってくれている。しかも手間を惜しまず食べやすいように工夫して、おかずを一口大にしてくれているんだ。
そんな彼女のピュアな親切心に図々しく乗っかっていいのか?
それによくよく考えてみると、お弁当は別に二人一緒に食べなくてもいいわけだ。
お弁当を作ってもらって、そのうえ彼女の貴重な昼休みを使わせるって一体どうなんだ?
そして誠司はもっと根本的なことに気付いた。
ちょっと待て! この鍵を使うってことはつまり、密室に彼女を誘い出し、独り占めしてしまいたいって言ってるのと同じじゃないか!
誠司は顔から火が出そうになりながら頭を抱えた。
なんか下心丸出しじゃないか!
猛烈な葛藤に身を焼かれながら、誠司はどうやって切りだせば、ひかりに余計な警戒心を抱かせずに、自然な感じで誘うことができるのかと悩み悩んでいた。
「高木君、おはよう」
色々考えているうちに妄想の世界に入り込んでいた誠司は、不意に掛けられたひかりの声に飛び上がった。
「お、おはよう」
誠司は考えも纏まらないまま慌てふためく。
「どうしたの?」
ひかりは様子のおかしい誠司の顔を覗き込むように見る。
誠司はそんなひかりの可愛らしい仕草を見てまた胸が高鳴ってしまう。
そしてひかりのその手には、昨日持っていた二人分のお弁当が入った手提げ袋が握られていた。
誠司の視線を感じて、ひかりはうっすらと頬を染めながら恥ずかしそうに笑う。
「今日も作っちゃった……」
誠司はその姿に見とれながらも例の話を切りだそうと焦る。
「あのね時任さん……」
「うん?」
ひかりは何か言いかけた誠司の顔をじっと見る。
誠司はそんなひかりのまっすぐな視線を避けるように目を伏せて、やっと切りだした。
「こ、これなんだけど……」
誠司はポケットから美術室の鍵を取り出してひかりに見せた。
「何の鍵?」
ひかりは不思議そうに、銀色に光る鍵に目を向ける。
「これ、美術室の鍵なんだ」
ここにきて誠司は、もう思い切ってそのまま打ち明けることしかできなかった。
「島田先生が貸してくれて、それで……その」
誠司は急に喉の渇きを覚えた。
「お昼休み使えそうなんだ……美術室」
ひかりはやっと誠司が言いたいことが分かったみたいだった。
「そ、そうなんだ……」
ひかりも恥ずかしそうに手提げ袋に目を落とす。
「あの、もし時任さんが嫌じゃなければその……」
もう誠司は必死過ぎて自分で何を言っているのかよく分からなくなってしまっていた。
ひかりは誠司の次の言葉を待っている。
「時任さんのお弁当、ここで一緒に食べませんか」
言ってしまった! しかもど直球で!
「はい」
ひかりは頬を染めて躊躇うこともなくすぐに返事をした。
「い、いいの?」
ひかりは黙って頷く。
誠司は胸を撫で下ろした。
ひかりはなんだか少し嬉しそうに見えたが、余りに緊張しすぎていた誠司には、そんなひかりの微妙な表情の変化を読み取る余裕などなかったのだった。
お昼休み、美術室の前で待ち合わせた二人は、周りに誰もいないことを確認して鍵を開けた。
教室に入って戸を閉めると、二人ともふうと息を吐いて緊張をほぐした。
「なんだか悪いことしてるみたいだね」
誠司が苦笑すると、ひかりも「本当だね」と笑った。
教室の中はがらんとしていて、二人は一番奥の窓に近い席の机を向かい合わせになるよう移動させた。
あまりにも静かすぎて、二人とも余計に緊張してしまっていた。
「静かだね……」
誠司が小さな声で言う。
「静かすぎるぐらい」
ひかりの声も誠司と同じくらいだった。
窓を一つ開けると、傍にある銀杏の木の葉を揺らして風が舞い込む。
向かい合わせに座ると、二人とも視線をお互いに向けることが出来ずに困った表情をした。
ひかりは二人分のお弁当を机の上に出して、ひかりのものより一回り大きい水色のお弁当箱を誠司に差しだした。
「どうぞ」
「ありがとう」
誠司はそう言って両手を添えて受け取った。
昨日と同じく、その手はやや震えている。
「お茶、入れるね」
ひかりは水筒のお茶を誠司のコップに入れて手渡す。
「まだ、冷たいお茶だけどいいよね……」
「うん。ありがとう」
ひかりにとって何気ない仕草は誠司の胸をまたドキドキさせる。
「あの……食べませんか?」
ひかりにそう言われて誠司は目を逸らすと、いただきますと言ってお弁当箱の蓋を開けた。
色どりを考えて盛りつけられたお弁当の中身は、ひかりの気持ちがいっぱい詰まっていた。
「すごい、美味しそう」
母親を亡くしてから自分で色どりなど考えることなく弁当を作ってきた誠司は、またひかりの作ってくれたお弁当に感動していた。
「上手くできてたらいいけど、どうぞ」
ひかりは恥ずかしそうにそう言って誠司の喜ぶ顔を見ている。
誠司はやはり甘い卵焼きから口に入れた。
ひかりは誠司が卵焼きを食べ終えるのをじっと見つめる。
「すごく美味しい」
誠司がそう言うと、パッと花が咲いたかのようにひかりが笑顔になる。
「本当? 良かった」
ひかりも同じように卵焼きを一口食べる。
「うん。なんだか昨日よりも上手くできたみたいな気がする」
誠司はひかりの嬉しそうな表情を見て、これって夢じゃないよなとあらためて思ってしまう。
こんなに静かな教室で、ずっと憧れていた女の子とこうして向かい合わせでご飯を食べている。しかもそれが手作りのお弁当だなんて夢どころか奇跡としか思えない……。
「色どりも綺麗だし美味しいし、自分で作る弁当と大違いだ……」
素直に感動しつつ、誠司はまだ慣れない左手を使ってお弁当を食べる。
ひかりは嬉しそうにその様子を見ながら、自分の作ったものの味見をするように食べていた。
あまり話も弾まないまま、ひかりより早くお弁当を完食した誠司は、食べ終わってしまったことを勿体ないと惜しみながらお弁当箱の蓋をした。
「ご馳走様でした。すごく美味しかったです」
幸福感溢れる誠司の顔に、ひかりは箸を止めて、良かったと嬉しそうな笑顔を見せた。
「あのね、高木君」
少しあらたまった感じのひかりに、誠司は少しドキドキしながら応える。
「うん、なに?」
「島田先生どうして美術室使っていいって言ってくれたの?」
恥ずかしいところを目撃されてから、こういう風になったいきさつをひかりは興味深げに訊いてきた。
「うん。そのことなんだけど、実は昨日ね……」
誠司は昨日の放課後の島田とのやり取りをひかりに話した。
「じゃあ、あのベンチって島田先生の縄張りだったんだ!」
ひかりはまるで島田を犬か猫のように表現した。
それが可笑しくて誠司は吹き出した。
「と、時任さん、おれ昼寝用のベンチって言っただけで縄張りとまでは言ってないよ」
誠司が吹き出して笑うと、ひかりも顔を赤くして同じようにクスクスと可笑しそうに笑った。
「ごめんなさい。なんだか島田先生って私の中ではそんな感じなの」
それを聞いて誠司はまた吹き出した。
「それを聞かれたら絶対鍵返せって言われるから言っちゃだめだよ。で、でも時任さんの言ってること俺にも良く分かるよ」
少しお腹を押さえながら誠司はまたハハハと笑った。
「もう、高木君笑いすぎ」
少し拗ねたような顔をしてひかりはそっぽを向いた。
その仕草がまたびっくりするぐらい可愛かった。
「ごめん。怒らないで」
機嫌を直してもらおうと、ひかりの顔を覗き込もうとする誠司に、ひかりは少し紅くなる。
「とりあえずあの昼寝ベンチに近づかないことを条件に、美術室を使っていいって言ってたから当分大丈夫だよ。ああ見えて先生なかなか頼りになるんだ」
「うん。なんだかありがたいね」
少し緊張が解れ、楽しそうな笑顔を浮かべるひかりの顔を誠司は眺める。
そして明日もここで会えるのだと思い、こみ上げてくる感情に胸の中が熱くなるのだった。