三十一 下手な要塞よりも要塞してる
手始めに、左の指先を小振りなナイフで割く。ほんの少しの血が取れれば良いので、あんまり深くは切らない。チリッとした痛みと共に、紅の雫が細い隙間から洩れ出てきた。
それを正面入口のガラス細工に擦り付ける。幾ばくかの光が明滅した後、人一人分しかない正面扉の鍵が開く音がした。血が必要なことはあらかじめ分かっていた為に持ってきていたガーゼで小指を圧迫しながら、テニーチェは右手でドアノブを捻り中に入った。治癒系の魔道が使えればガーゼなんていらないのだが、使うことなんて出来ないので、ガーゼで血を止めるしかないのである。
扉が閉まったことを確認し、右腕に提げてあったランタンを左手で持ち、ライターを使って火を灯す。火なら魔道でも起こせなくないが、こっから先のことを考えるとあまり余計な魔道は使いたくない。あと、ランタンみたいな狭いところに点けるなら、魔道よりもライターの方が楽なのだ。単に狭いところに火を起こすのが大の苦手だったりするのもあるけど。
ランタンが辺りを明るく照らす。鏡のような水面がそのまま空気になったみたいに静かで張り詰めた感覚を肌が感じ取っていた。エクスファラン草の育成が始まったからだろう。正規の栽培人がいない今、万が一の危険を避けるためにテニーチェがこの場所に来ないと最終段階の育成が始まらないようになっているのだ。そしてテニーチェは用もなくこの場所には来ない。正確には、エクスファラン草を採取する場合を除いては立ち寄りすらしない。必然的に、入用な時だけエクスファラン草が育成され採取出来るようになっている、というわけである。
育成開始に伴い魔力濃度の高くなった空間を、テニーチェはカツンカツンと控えめながら確かに鳴る靴底が地面を叩く音を引き連れながら前に進む。前に来た時と構造が違うのも、エクスファラン草育成によって建物自体が生き物みたいな状態になっているから。
幸い以前に付けておいた、仮面と連動している目印のお陰でエクスファラン草の栽培所がどこかわからなくなる、ということはないだろうが、そこまで行く道のりがとても大変なものになるであろうことは容易に想像が可能だ。入り口の近くはいくら頑丈とはいえ損傷したら不味い扉の為に単なる何もないただ暗いだけの一本道になっているが、もう少しすればそうとも言ってられない。
「……来ましたね」
テニーチェは唐突に前に大きく跳ぶ。数瞬後、テニーチェの後頭部があった辺りにゴオッと炎の塊が通り過ぎた。
続いて間もなく、正面から氷柱が鋭い方を向けて幾らか飛んでくる。さすがに避けられないと判断したテニーチェは、ほぼ反射の素早さで魔道で氷柱を消し切った。
エクスファラン草の育成が終わるのは、おおよそ三日後。交易の品として選ばれるくらいには価値の高いエクスファラン草を栽培する為の施設であるここは、どっかの小国の魔道師団を詰め込んだ要塞なんかより遥かに厳しい場所となっている。
三日間、それどころか一週間くらいなら寝なくてもどうにかなるテニーチェだが、最近は第七の長として規則正しい生活ばかりを送ってきたが故に、体が鈍っていないかどうかが一番の心配事だった。




