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第三話「距離縮めて」

「おかえりなさい、ハルコさん」

「た、ただいま。メルザちゃん」


 荷物仕分けのバイトから帰ってきた春日井ハルコを真堂メルザは出迎えた。待っていましたとばかりに。

 メルザは学校の制服から私服に着替えていたが、それもよく似合っていて可愛らしいとハルコは思った。いつものことながら。

 同居を始めて一週間、一人の生活が考えられなくなったハルコだった。それは素晴らしい変化であり、変化に戸惑う気持ちも薄れていくほどに慣れてきたのだと彼女は考えていた。

 ハルコはコートを脱いで掛け、リビングに来るなり冷蔵庫からペールエールの缶を抜き取ってコタツに足を入れた。

 プシュッと缶を開ける音が鳴る。ハルコは間髪入れず一杯飲む。メルザも麦茶を入れたコップを持って、向かい側に座った。


「お疲れ様です」

「ありがとう。美味しかったよ、お弁当。本当にありがとうね」

「そんな、たいしたことじゃないです」

「学校の方はどう?」

「……慣れましたよ」


 メルザは愛想笑いを浮かべる。しかし一瞬表情を曇らせたのをハルコは見逃さず、不安に思った。


「もしも……これはもしもの話なんですけど」


 躊躇いがちにメルザは言葉を選ぶ。


「私が学校に行きたくないって言ったらどう思います?」

「そう、ね……」


 ハルコも適切な言葉を探す。


「休んじゃえばいいんじゃない、かな」

「休んで、いい?」

「うん。人生において休むことは大切だから。ため込んで爆発してしまう前に……休むのがいいの」


 メルザは意外そうにハルコを見る。ハルコはメルザに学生時代の自分を重ね合わせていた。メルザのように人と違う人間は差別される……東京者と呼ばれた自分がそうであったように。


「でも休むのと逃げるのは違うわ。逃げないで、休んでね。メルザちゃん」


 彼女には自分と同じ道を踏み外すことはしてほしくない、とハルコは考えていた。


「そんな風に言ってくれる大人は、ハルコさんが初めてです」


 メルザは敬服して言った。そう言われると照れるハルコ。


「年の割にたいしたことないんだけど、ね」


 ハルコはまた酒の缶に口を付け、自分の人生経験の貧しさを飲み干した。

 テレビを付ける。一週間もすれば怪獣関連のニュースはもうやっていなかった。




「はぁ~~~~」


 風呂に浸かって、ハルコは脱力した声を上げた。疲れが抜けていくこの感覚が心地良い。風呂は命の洗濯だと、誰かが言っていたのを彼女は頭に浮かべた。


「大丈夫よ、ハルコ。ヘマはしてないはず」


 自分に言い聞かせるように呟く。仕事のことだけじゃない、メルザの前でのふるまいのことをハルコは顧みていた。

 冷静に、大人であれ。それは難しいこととハルコは感じているが最近はだいぶ慣れてきたようにも思う。ロリコンであろうとメルザに欲情だけはしていない。

 しかし次の瞬間、大いに動揺が走った。

 浴室に一糸まとわぬメルザが入ってきたのだ。

 湯気が充満しているとはいえ、その美しいエメラルドグリーンの髪を隠せはしない。


「ハールコさん、一緒にお風呂、いいですか?」

「あ、ま、メルザちゃん!?」


 慌てて目を逸らし、俯くハルコ。これは完全に閾値を超えてしまうぞ……と恐れるも顔は真っ赤になる。だがメルザの華奢な体はお構いなくハルコを絡み取ろうとする。


「ハルコさんの身体、洗いましょうか」

「えっと、その……私、もう出るわ! のぼせちゃうといけないし!」


 逃げるようにハルコは立ち上がり、目を逸らしたまま浴室を出ようとする。それをメルザは呼び止めた。


「ハルコさん……大人の身体ですね。いいなぁ、私もそうなりたい」


 ハルコは自分の身体をメルザに凝視されている事実に耐えられなくなりそうだった。なんとか平静を保とうと言葉を振り絞る。


「メルザちゃんもすぐ大人になれるわ……身体は」


 振り向いてその豊満な肉体で少女を拘束するという妄想を振り払い、ハルコは浴室を去った。取り残されたメルザは物欲しそうに開いたままの扉を見つめていた。




 すっかりのぼせあがったハルコは寝室に横たわっていた。

 酒も入っているのに中々寝付けない。そうしてメルザのことばかり考えてしまう。

 メルザは本当に可愛く、人格も好ましい。ハルコは再び生身の人間を好きになれるとは思ってもいなかった。

 だけに恐ろしい。何かの拍子に失ってしまうことが。

 たとえば自分が近づきすぎて、失望させて離れていってしまうなど……

 だがどんどんメルザの方から近づいてくる。

 ギィと扉の開く鈍い音がした。ドサッとハルコの背中側に何かが倒れた。

 メルザだ。


「ちょっ、ちょっと……」

「お願いだから一緒にいさせてください。今度は逃げないで」


 心臓が止まりそうになる――だが実際には逆だ。ハルコの鼓動はどんどん早くなる。しかしもう逃げ場はない。

 落ち着け。落ち着け。落ち着けハルコ。

 一緒に寝るだけだ、何も起こらない、何も起こさないとハルコは念じる。

 けれどメルザの吐息が聞こえる距離にクラクラしてくるハルコだった。少なくとももう眠れそうにない。


「あの……メルザちゃん?」


 返事はない。吐息はいつの間にか寝息に変わっていた。


「パパ……ママ……どうして私を」


 だからこれは寝言だった。メルザは涙を流している。ハルコはハッとした。

 この子は孤独で、でも人肌恋しい年頃なんだ。だから求めてくるんだ。

 ハルコは純粋に愛おしくて、メルザにそっと抱き着いた。少しでも安心してもらえるように。


「私は馬鹿で愚図で取り柄も何もないけど……あなたの傍にいてあげるから……ずっと……」


 やがてハルコも眠りについた。




 翌日、ハルコは非番で昼に起き出してきた。

 メルザの姿はどこにもなかった。代わりに「朝食を作りました。温めて食べてください」という丁寧な文字の書置きとラップに包まれた食事がコタツの上に置かれていた。


「結局、学校休まないのね……無理しないでね」


 その場にいない相手に、ハルコは言った。

 遅い朝食をレンジで温めている間、冷蔵庫からまた酒を取り出していた。昼間から飲むのはハルコの休日の常であった。そうしていると昔に戻ったみたいな気になるハルコ。


「一人で当たり前だったのに、ねぇこん太」


 ハルコは転がっていた猫のぬいぐるみを手に持って話しかけた。寂しいという感情に打ちのめされる。しかし過去そうであったようにこん太が気を紛らわしてくれることはもうなかった。

 今はメルザがいないと安心できない。

 ハルコはこん太をそっと置く。

 メルザがハルコを求める以上に、メルザを求めているんじゃないかと思うと怖くなるハルコだった。

 悶々としながら食事を済ませ酒の缶も空にしてしまうと、ハルコはパソコンの電源を入れた。自分を慰めるためにも。

 テレビには何も映らず真っ黒のまま。おかげでハルコは一大事のニュースを見逃してしまった。




「未確認巨大生物は現在大阪湾を航行中……神京市に向かっている模様です!」


 神京市より北方の山中にある特殊防衛隊本部にて、紅一点の藤岡隊員が告げた。


「映像出せるか」

「はい」

「これは……でかいエビかシャコのような……」

「甲殻怪獣、か」


 水面に浮かぶ橙色の殻がモニターに映る。その大きさは艦船の何倍もある。


「なんでまた、ここに向かってくるんだ!」


 最年少だが身長最長で目立つ矢野隊員がいきり立つ。


「エンメラがいけるなら俺も、って感じなんじゃないか」


 とは細身の鷹山隊員。そんな知能があるんですかとすかさず矢野隊員は突っ込む。


「神京市を抜けて京都へ向かうかもしれんな」


 鷹山隊員の隣に立っている、ガッチリとした体の兜隊員が口にした。


「だからこそ神京市は首都防衛の最前線である。すでに上陸阻止のため自衛隊が動いている。我々も出動だ」

「はい、春日井隊長」


 厳めしい顔をした特防隊隊長が命令すると隊員達は我先にとブリーフィングルームを出ていく。


「上陸は……されるだろうな」


 ハルコの父、春日井マサトは厳しい表情を崩さず、モニター越しに怪獣を見た。

 日本で七体目の怪獣。人類は試されていた。

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