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メイドの結婚~コルセットが締められない~

作者: 佐々木野楓

台所で紅茶の葉の残りが少ない事に気づいた。街の商店で購入した物ではない。この屋敷の主人が屋敷で働く者への土産として持ち帰って来てくれた物だ。

貿易商をしている主人が屋敷に帰ってくるのは、多くても月に一度あるかどうか。紅茶の残りの少なさに、主人不在の期間が長い事を知る。

紅茶の葉を見つめていると、

「アネット、紅茶は?」

屋敷に仕えて長い、年配のハウスメイドが台所に入ってきた。

「あ、ごめんなさい」

「何を見ているの?」

アネットが手にしている缶を覗き込んだハウスメイドは、

「あら、だいぶ少ないわね。買い足しておかないと」

「この紅茶、ステファン様がお持ち帰りになられたんです」

「そうだったわね。そう言えば、来週にはお戻りになるそうよ」

「本当ですか?」

「今朝方、あなたの伯父様が仰っていたわ。あら、アネット。とても嬉しそうね。ステファン様がお戻りになるの、そんなに嬉しい?」

「はい。前回お帰りになられた時、この紅茶と一緒にインドのめずらしいお菓子を持ち帰ってくださったんです。今回もいただけると嬉しいな」

「………そう」

ハウスメイドは落胆を隠せず短く答えた。齢五十を超えるハウスメイドは、この家に仕えて四十年近くになる。自身は結婚もせず働き続けているが、今年十七になるアネットには、結婚して、幸せになってほしかった。

と言うのも、アネットは不幸な少女だった。幼くして両親を亡くし、親戚間をたらい回しにされたあと人身売買されかかり、寸前で母親の長兄であった伯父の元に来ることができたのだ。その伯父は、先代から仕えるこの屋敷の執事である。

最初執事である伯父は、姪を引き取る事を躊躇していた。雇い先で身内を育てるのは、執事としての礼儀に反しているからだ。しかしアネットを引き取る事を勧めたのは、先代当主夫妻だった。夫妻は若くして息子夫婦を亡くし、孫のステファンを育てていたので、親を亡くした子の悲しみを理解し、屋敷でアネットを養育する事を認めてくれたのだ。

六歳で屋敷へ来たアネットは、以来十年以上屋敷で暮らしている。

ハウスメイドはアネットが淹れてくれた紅茶を飲みながら、初めてアネットで出会った頃を思い出していた。癖のある栗色の髪と大きな緑色の目をした少女は、栄養失調でやせ細り、まるで路地裏をうろつく野良犬のようだった。

(それなのに)

ハウスメイドは目の間でビスケットをおいしそうに食べるアネットを、しげしげと見つめた。

成長し屋敷の侍女となった今のアネットを一言で表すと、

『丸い』

午前用のプリント生地のメイド服を着たその体は、かなりふくよかで、コルセットで締め上げた細腰を競うこの社会においては異端と言えるだろう。

原因は先代当主夫妻だった。アネットを可愛がり、あれやこれやと食べ物を与えすぎたのだ。アネットは屋敷に入って一、二年も経たないうちに、見る間に丸くなってしまった。そして、先代当主夫妻が隠居し田舎の農園に隣接した別宅へ転居したのちは、孫のステファンが当主になったものの、ステファンも先代同様にアネットへ異国のめずらしいお菓子だなんだを持ち帰ってくる為、アネットは順調に成長し続けていた。

(先代様も、ステファン様も、いい加減にしないと)

と、思いつつも、

「このビスケット、おいしい」

そう言いながら、太い指でビスケットを摘まみ、笑顔で食べるアネットを見ていると、ハウスメイドは『それ以上食べるな』とは言えなかった。

アネットが食べている姿は、傍から見ていて非常に可愛らしかった。心底、おいしそうに食べるのだ。親を亡くしてから屋敷へ来るまでの間、ろくに食べられなかった過去があるせいだろう。

しかし、このままではアネットは痩せる事も結婚も難しい。体格的にも問題だが、異性にも興味がなさすぎる。

(ステファン様の事、何とも思っていないのかしら)

屋敷の当主は今年二十九歳になる。アネットとは十二歳差だ。年頃の娘が憧れるにはちょうどいいのだが、さっきの様に鎌をかけても期待した反応はない。

(男性より、食べ物か………)

最後の一枚を名残惜しそうにゆっくり食べるアネットに対し、ため息を吐きつつ、

「さ、お茶が終わったら着替えましょう」




午後用のメイド服は黒いドレスに白いエプロンだが、アネットのそれはその大きさから特注品だった。黒いドレスだけならまだましだが、白いエプロンをつけると己の太さが際立つ。鏡の前で栗色の頭にキャップをつけながら、アネットは小さく肩を落とした。

ハウスメイドが自分を心配してくれている事には気づいていた。もう少し(?)痩せた方がいいのは分かっているが、食べ物を出されると断れないし残せない。そもそも食べる事が好きなのだ。

このままではとても結婚なんて無理だし、まして主人であるステファンに対し思慕の念を抱くなんて出来る訳がない。

今はただこの屋敷で侍女として、平穏に日々を過ごす事がアネットの願いだった。

「さあ、お仕事お仕事」

着替えを終えて部屋を出て、階段を下りて行くと、外に出ていたらしい伯父の姿が玄関にあった。

「お帰りなさいませ、ルパートさん」

伯父ではあるが、名前で呼ぶのがマナーである。

「アネット、ちょうどよかった。話があるから来なさい」

「話?」

地下にある、執事である伯父の部屋へ入ると、伯父はアネットに座るよう促した。話が長くなりそうだ。向かい合って座ると伯父は、こほんと咳を一つして、

「実は今、チャールトン様のお屋敷に伺ってきた。アネットは、チャールトン様をご存じか?」

「はい。何度かこのお屋敷へお越しになられていますよね。ステファン様と同じ、貿易商をされている方です」

「ご子息のマーティン様は?」

「ステファン様のご友人と伺っています。お屋敷へいらっしゃった時に、ご挨拶しました」

「どのような方か、覚えているか?」

「ご年齢はステファン様と同じで、明るい茶色の髪に、青い目の、素敵な男性でした」

「そのマーティン様が、お前との結婚を望んでいらっしゃる」

まさに青天の霹靂。アネットは言葉を失くし伯父を見つめた。つい今しがたまで、結婚など自分には縁無い事と思っていたばかりなのに、伯父は話を続ける。

「チャールトン家は貴族ではないが、代々続く商家の名家だ。望まれて断る理由はないが、マーティン様がお前の意思を確認してほしい、と仰られたので、こうして話をしている。アネット、お前は将来を誓った相手はいるか?」

アネットは首を横に振る。

「思う相手もいないか?」

再び首を横に振る。伯父はゆっくり頷き、

「であれば、お断りする理由はない。この話をお受けしていいだろう」

伯父の言い方はアネットへ了承を求めるものではなかった。

「ステファン様へはわたしから報告する。正式なご返事はそのあとだ。アネット、婚約はまだだが、今まで以上に振る舞いに気を付け、ステファン様や婚家とるチャールトン家のご迷惑にならないようにしなさい」

「………はい」

アネットは頷きながらも、俯いた顔を上げ、

「あの、なぜマーティン様は私を望まれたのでしょうか?」

望まれる理由が分からなかった。なにせこのみてくれである。

姪の疑問に伯父は視線を外して、少しばかり照れた様子で、

「以前こちらへいらっしゃったさい、お前が給仕をしただろう? その時、お前を見初められたそうだ」

「見初める? 私を?」

「お前の柔らかい雰囲気と声音に惹かれたそうだ。マーティン様の話を聞いた父君のチャールトン様も、お前の事をよく覚えておいでで、お前の事を気に入っていたようだ」

アネットは手でどきどきする胸を押さえた。嬉しかった。親のいない太めのメイドにはもったいない話だ。その上相手は名家の子息であり、好青年である。伯父の言う通り断る理由がない。

「嫁入り支度はまかせておきなさい」

アネットは立ち上がり、片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の足の膝を軽く曲げ、

「伯父様、ありがとうございます」

丁寧にお礼をした。




アネットの暮らすグレンヴィル家は、元々は貴族の家柄だったが、三代前に訳あって爵位を近親者へ譲り、商売だけを引き継いだ。そして現当主は未婚で女主人が不在のせいもあり、使用人の数は少ない。その数少ない使用人の一人である料理人が作ってくれたニシンとかぼちゃのパイに、アネットは目を輝かせた。

「これ、食べていいんですか?」

「ええ。チャールトン様とのお話、聞いたわよ。これはわたしからのお祝い」

そこへハウスメイドが入ってきた。これでこの屋敷で働く女性三人が揃った。ハウスメイドはおいしそうにパイを食べるアネットを見て、それから長年の同僚である料理人に目をやり微笑んだ。

「おいしそうね、アネット」

「一緒に食べませんか?」

「そうね、いただこうかしら」

ハウスメイドがそう言うと、料理人が皿を二つ出してきた。パイを切り分け、三人で食べ始めると、

「こうして三人で食事をするのも、できなくなるのね」

料理人のしみじみとした言い様にハウスメイドが、

「いい事じゃない」

「そんな事、分かっているわよ。でもね、やっぱりさみしいわ」

「そうね。けどこんな良縁はないわ。アネットもそう思うでしょう? メイドの結婚相手なんて、田舎の幼馴染だったり、出入り業者だったりが普通よ。それが商家の跡取り息子だなんて、素晴らしい事だわ」

「あら、あなたはステファン様とアネットをくっつけたがっていたでしょう?」

「そうよ。歳もちょうどいいし。ねえアネット、あなた、ステファン様とは何もなかったの?」

アネットはフォークを置いて、

「ないですよ。私とステファン様とだなんて、ステファン様に失礼です」

「あら、そんな事言ったらあなたを望んでくださったマーティン様に失礼よ」

「あ………」

ハウスメイドの指摘に、アネットは手で口を押えた。

「あなたが自分に自信がないのは知っているけれど、これから先は自分を卑下する事はおやめなさい。自分を下げる行為は、夫となるマーティン様を下げてしまう行為よ」

「はい、気をつけます」

素直に頷くアネットに、料理人が、

「アネットは、マーティン様の事をどう思っているの?」

「素敵な方でした」

「その方と結婚するのよ? 夫として愛せる?」

アネットは緑の目を左右に動かし、

「考えていませんでした」

「あらら、一番大事な事なのに」

くすくす笑う料理人に、アネットは、

「結婚を望んでくださっただけで嬉しくて。親がいない、こんな太ったメイドを………」

「ほらほら、また自分を卑下しているわ」

ハウスメイドが指摘すると、アネットは再び手で口を押えた。

「マーティン様はあなたのいい所に惹かれたのよ、自信をもちなさいな」

ハウスメイドに同調するように料理人が、

「そうよ。アネットにはすばらしい所がたくさんあるわ。この柔らかい栗毛とか」

ハウスメイドも、

「緑色の大きな目とか」

さらに料理人が、

「触り心地のよさそうな手とか」

「実際に握りと、本当に気持ちいい手をしているのよね、アネットの手は」

ハウスメイドがアネットの手を両手で握りしめた。慈しむように手を撫で、

「あなたのいい所はたくさんあるんだから、自信を持って嫁ぎなさい」

アネットは頷いて微笑んだ。




それから数日後、屋敷に大量の荷物が届いた。どれも名の知れた老舗の箱に入っており、アネットは初め、それらの荷物が自分の嫁入り道具だと気づかなかった。伯父に、

「これ全部私のですか?」

「そうだ」

「伯父…ルパートさんが用意してくださったんですか?」

「いや、全てステファン様が用意してくださった」

「!」

アネットは驚き、手にしていた小箱を落としそうになった。

「ステファン様が?」

「電報でお知らせしたら、大変お喜びになり、その日のうちに注文されたようだ。明日にはお戻りになるので、よくお礼を申し上げなさい」

「はい、ルパートさん」

ハウスメイドと料理人、そしてアネットの三人は、特別に居間を使って開封する事にした。

大小様々な箱の中には、刺繍の施された手袋やレースのついたハンカチ、絹のシーツやカバーなどのリネン類などが入っていた。ハウスメイドはシーツを手にし、

「どれも上質な物ばかり………ため息が出るわ」

ハウスメイドは一つずつ丁寧に整理していき、ふと気づいた。

「さすがに下着やコルセットはないわね。ルパートさんに言って、わたしが選んできましょう」

その言葉にうっとりとした顔でハンカチを持っていたアネットが顔をひきつらせた。

「コルセット………」

ハンカチを箱に戻し、自分の腰を掴む。

「無理です。私が着られるサイズなんてありません」

「それなら作ってもらえばいいわ」

「作ってもらう………?! そ、それは嫌です」

「どうして?」

「だって、作るとなると採寸しないといけないし」

「あら、ウェディングドレスだって採寸するわよ」

「でも、コルセットは、私、恥ずかしいですっ」

「コルセットを着ければ、体のラインが綺麗に見えるのよ。着けないわけにはいかないわ」

「だって、こんな太い腰………」

「コルセットを着けない花嫁なんていないわ。ねえ」

ハウスメイドが料理人に同意を求め、料理人も頷く。

「そうよ、アネット。一緒に選びに行きましょう。そもそもコルセットをしないから、腰が太くなったのかもしれないわ。結婚を機に、身に着けるようにしなさいな」

「そんな」

あからさまに嫌がるアネットに、料理人とハウスメイドは笑った。




翌日早朝、午前用のプリント生地のメイド服を着たアネットが、新聞を取りに玄関を出ると、外は霧が出ていた。その霧の中を、二頭立ての馬車が向かってくるのが見えた。場所は屋敷の前まで来ると止まり、降りてきたのは背の高い紳士だった。

「ステファン様」

フロックコートを着た男性は馬車から降りると、被っていた帽子を取った。現れたのは黒髪に浅黒い肌。この国では珍しい容姿をした紳士は、マハラジャの娘を母に持つ、グレンヴィル家の現当主ステファンだった。

「お帰りなさいませ」

主人の荷物を受け取ろうと手を伸ばしたとたん、その手を取られ、アネットは主人の方へよろめいてしまった。倒れかかった自分を主人が支えてくれた事に慌てる。

「も、申し訳ございません」

離れようとするが、自分の体にステファンの腕が回されており離れられない。抱きしめられている状況に、アネットは困惑した。

「あ、あの、ステファン様、あの」

体を動かし離れようとするアネットに、

「なぜ、離れようとする?」

主人の声に顔を上げれば、黒い瞳と視線がぶつかった。こんなに間近で主人の顔を見つめるのは初めてだった。六歳でこの屋敷に来たが、その頃既にステファンは家を出て進学をしていた。たまに帰宅するステファンと、そう親しく会話をした覚えはなく、ハウスメイドがアネットとステファンの仲を伺ってきたが、あくまで屋敷の主人とメイドの間柄でしかないのだ。

それなのに、屋敷の入り口前で主人に抱きしめられている状況に、アネットは戸惑うしかなく、主人からの問いかけにも答えられなかった。答えず、頬を赤らめるアネットに、

「嫁入り道具は届いたか? 気に入ってくれただろうか?」

アネットはこくこくと頷いた。ステファンは満足そうに微笑み、

「それはよかった。花嫁衣装は今日にでも見に行こう」

「あ、あの、ステファン様」

戸惑うアネットを抱えたままステファンが屋敷の中に入ると、

「お帰りなさいませ、ステファン様」

抱えられたアネットを訝しげに見つつも、執事のルパートは丁寧に主人を迎えた。そのルパートに、

「ルパート、アネットにはもうメイドの仕事はさせるな。ドレスを用意しよう。ああそうだ。母のドレスがあったはずだ。とりあえず見繕って着させてくれ。アネット、着替えが終わったらわたしの部屋まで来てほしい」

ステファンは地下の厨房から上がってきたハウスメイドにアネットを引き渡すと、機嫌良く階段を上がって行った。

「アネット、ステファン様と何をお話されたんだ?」

伯父の質問にアネットは首を傾げて、

「なぜか突然抱きしめられて、嫁入り道具は気に入ったか?とか、花嫁衣装を見に行こうとか、仰られました」

「…………」

ルパートは眉間に皺を寄せた。ハウスメイドはそんなルパートとアネットを交互に見つめ、ややして、

「ルパートさん、ステファン様に送った電報の内容を教えてくださいませ」

ルパートは内ポケットから手帳を取り出すと、中をめくって、

「………姪の結婚が決まりました」

「それだけですか? お相手についてとかは?」

「お戻りになられてから詳しくお伝えするつもりだった」

ハウスメイドは声を低めて、

「もしかしたら、ステファン様は誤解をされているかもしれません」

「誤解?」

「ルパートさん、ステファン様は、ご自身とアネットがご結婚されると思っているかもしれません」

「まさかっ」

声を上げたのはアネットだった。声の大きさに、慌てて口を手で押さえる。小声で、

「そんな事、ありえません」

「そうだ。まさか、そんな」

姪と伯父の否定を、ハウスメイドは、

「アネット、何度かあなたにステファン様との仲を聞いたけれど、それはね、ステファン様があなたに対し少なからず好意を抱いているようなに感じていたからなの。それもだいぶ前からよ。あなたは気づいては………いなかったわよね?」

「………」

アネットは驚いて何も言えない。ルパートは、

「ステファン様とお話をしてくる」

本当は駆け上がりたいだろうが、執事としての礼儀か、ルパートはいつもと変わらない速さで階段を上がって行った。残されたアネットは、

「とりあえず、ステファンの様の言いつけ通りに着替えましょう」

ハウスメイドに引っ張られ階段を上がり、向かったのはこの屋敷の女主人の部屋だった。今は誰も使っていないが、以前は先代当主、ステファンの祖母が使っていた。

「確かにステファン様のお母様のドレスが残っていたはずだけど」

ハウスメイドが出してきたドレスは、かなり細身だった。アネットが着られるはずがない。

「ステファン様には、アネットがこれぐらいの大きさに見えているのかしら」

ハウスメイドの呟きをアネットは聞こえなかった。両手で胸を押さえ俯き、どうしたらいいのか分からず不安だった。そんなアネットを落ち着かせる為ハウスメイドは部屋を出ると、少しして、お茶を運んできた。

「アネット」

声をかけると、アネットは不安気な目をしていたが、

「ありがとうございます」

ハウスメイドの気づかいに、お茶を受け取った。

「ドレスについては、わたしからステファン様へ伝えるから、あなたはここで少し休んでいなさい」

「でも」

「いいから。ほら、ビスケットも持って来たわ。食べててね」

ハウスメイドはそう言ってアネットを残し、部屋から出て行った。残されたアネットは、普段は掃除でしか入らない女主人の部屋を見回し、居心地の悪さに椅子から立ち上がったが、もう一度座りなおして皿の上のビスケットを食べた。食べ終えて立ち上がり、ハウスメイドが出してくれたドレスに近づく。ソファーの上に置かれたドレスは、どうあがいてもアネットの体に合うサイズではなく、アネットはうなだれた。

ハウスメイドの推測が正しいかわからない。けれど、ステファンに抱きしめられた時、それを嬉しく感じてしまった。今までステファンを異性として意識しないよう努めていた反動が、一気に襲ってきたのだ。

(私は、ステファン様を好きなのかしら)

そう思うと、胸がどきどきして止まらない。けれど、目の前のドレスが現実を知らせる。

(私はこのドレスは着られないし、それに)

アネットの結婚相手は、チャールトン家のマーティンである。ステファンではない。ステファンがハウスメイドの言う通りにもし誤解していたとしても、チャールトン家には正式に返事をした後である。

アネットは急激に成長した恋心に、ほろり、と涙がこぼれた。




小一時間もしないうちに、ステファンが出かけたとハウスメイドから聞き、その行き先がチャールトン家と伯父から知らされたアネットは、その理由をハウスメイドと伯父に問いただした。

「チャールトン家に、破談を申込みに向かわれた」

倒れそうになった姪を支え、椅子に座らせると、ルパートは話を始めた。

「お前がこの屋敷に来た頃、すでにステファン様は寄宿舎に入られており、たまにしかお戻りではなかった。そんな中、ご子息夫妻を亡くされてさみしい思いをされていた先代ご当主夫妻は、幼いお前をたいへんかわいがってくださった。お前も覚えているな? そんなご夫妻はステファン様に、アネットは将来お前の妻になると仰っていたそうだ」

寝耳に水(a box on the ear.=横っつらへの一撃))だった。アネットは目を丸くする。

「ステファン様はずっと、お前が年頃になれば、ご自身の花嫁になると思っておられたそうだ。そこへ今回の話となり、わたしからの電報を見て、やっとその時が来たとお喜びになったそうだ」

ルパートも当惑しているようで、目が泳いでいる。

アネットは自分の縁談は無くなってしまう事と、ステファンが自分との結婚を望んでいた事を同時に知り、伯父以上に混乱するしかなかった。

「伯父様、私は、あの、どうしたらいいのでしょうか」

「わたしは先代様に電報を打ってくる。真意を確かめなければならない」

「伯父様は、どう思われているのですか?」

「………アネット、わたしはお前の伯父として、お前の幸福を願っている。今回のマーティン様とのお話は、これ以上ない良縁だと思っていたし、喜んでいた。しかしこの屋敷の執事としては、メイドであるお前とステファン様の結婚を祝う事はできない。親もなく、ただのメイドのお前が、このグレンヴィル家の女主人になっては家名に傷がつく。かと言って、正式な夫婦として認められない秘密の婚姻ではお前がかわいそうだ」

ルパートはアネットの頭を撫でると部屋を出て行った。

「アネット」

ハウスメイドが声をかけるが、アネットは俯き顔を上げられない。一人部屋を出て、屋根裏の自分の部屋に向かった。入ってすぐベッドに倒れ込んだ。体重にベッドがきしむ。枕を抱え、ほろほろ涙を流した。

どれくらいそうしていたのか。気づけば、小窓から入って来ていた日の光は夕焼けへと変わっていた。

皺になったメイド服を脱ぎ、午後用の黒いドレスを着ようとして、鏡に映る己の姿に呆れる。いつも以上に醜く見えた。こんな体のメイドが結婚できる訳がない。

マーティンとの結婚は破談になり、ステファンとの婚姻は許されない。ここ数日まるで夢の世界の様に幸せを感じていたが、それは終わったのだ。

白いエプロンを身に着け、乱れた髪を整えキャップを被る。鏡に映るのは太ったメイド。

「さあ、お仕事お仕事」

自分に言い聞かせるように口に出し、部屋を出ようとドアを開け、ドアの前に立っていたステファンに気づきアネットは、

「きゃあっ」

声を上げた。

「話しがある」

ステファンはアネットの部屋に入りそうになったが、メイドの部屋に屋敷の主人を入れる訳にはいかない。

「ステファン様、お話なら下の部屋で………」

「二人で話をしたい」

「駄目です。二人きりなんて」

ステファンは前髪をかき上げ、

「わかった」

階段を降りて行った。小走りで後を追う。居間に入ると伯父の姿があった。ステファンは椅子には座らず立ったままアネットを待っていた。

「アネット、チャールトン家との縁談は断ってきた」

アネットが伯父の方を見ると、ルパートは小さく頷いた。

アネットは頭を下げ、

「お手数をおかけいたしました」

「アネットが謝る事ではない。わたしのせいだ」

ステファンの言っている意味が分からず顔を上げると、

「わたしがもっと早くから、きちんとアネットとの結婚を周知しておけばよかったのだ。そうしておけば、マーティンがアネットに求婚する事もなかっただろう」

「………」

どう反応していいか分からず伯父を見れば、屋敷の執事は微笑んでいた。そしてアネットに一通の電報を手渡した。

「先代様からの返信だ」

二つ折りのそれを、おそるおそる開くと、中には、

『May your future together bring you lasting love and never ending happiness.(あなたたちが共に歩む未来が、長く続く愛と 限りない幸せをもたらしてくれますように)』

と打たれていた。

「で、でも、伯父様、さっき…」

「先代様、そして現当主のご意思だ。執事としてはやはりメイドとのご結婚は賛成しづらいが、ご当主方のご意思に反する事はできない。それに伯父としては、喜ばしい事だと思っている」

ルパートはそう言って、静かに部屋を出て行った。居間にはアネットとステファンの二人だけになってしまった。

「アネット」

呼ばれ、

「はいっ」

上擦った声で返事をしてしまう。二人きりなど初めてで、どういう態度をとればいいのか全くわからない。

そんなアネットにステファンは近づくと、すぐ目の前に立った。

「あらためて申し込みたい。わたしと結婚してほしい」

アネットはイエスともノーとも言えず、主人の黒瞳を見つめた。先に視線を外したのはステファンだった。

「わたしと結婚するのは嫌か?」

「いえ、そんな………」

「マーティンとの結婚を勝手に破談にして、怒っていないか」

「怒るはずありません」

「では、何故返事をしてくれない」

「………」

なんと答えればいいのか悩み、下を向くと、

「わたしが嫌いか」

「いいえ、そんなことっ」

「わたしの肌は黒い。そのせいか?」

「まさか、そんな事はありません。むしろ、私の方が、こんな太っていて恥ずかしいです。ステファン様の肌の色が気になった事なんて、一度もありません」

「わたしもアネットの体形を気にした事はなかった。そうだ、ドレスの件はすまなかった。すぐ、アネットのドレスを作ろう」

「いえ、そんな、ドレスなんていいんです。こんなに太っているのに、作ったら生地が無駄です」

ステファンはアネットの手を取ると、アネットの肉のついた手を握りしめた。

「ス、ステファン様」

「この手に触れたいとずっと思っていた。想像以上に柔らかい。嫁入り道具の中に手袋があっただろう? 前からアネットに似合うだろうと目をつけていたんだ。気に入ってくれただろうか?」

「とても、素敵な手袋でした」

「ハンカチはどうだ? シーツは?」

「どれもすごく綺麗で、私にはもったいない品物です」

「いつかアネットと結婚できると信じて、選んでいた物だ」

アネットは自分の手を包んでいるステファンの手の温もりを感じながら、

「………届いた箱を開けて、中を見た時、嬉しかったです。マーティン様との結婚を、ステファン様が祝福してくださったと思っていたのです」

ステファンの手が震えた。アネットは言葉を続ける。

「でも、そうではなくて、あの手袋やハンカチをどういうお気持ちで選んでくださったのか知って、もっと、嬉しくなりました」

顔を上げると、ステファンの黒瞳と視線がぶつかった。ステファンの手に力が入る。

「私は、親のいないただのメイドで、こんなに太って不格好です。私が奥様になったら、ステファン様が笑われます」

「わたしはこんな肌の色をしている。アネットこそ笑われるかもしれない」

「私は気になりません」

「わたしだってそうだ」

「ステファン様………」

「マーティンからの求婚はすぐ受けたのに、どうしてわたしを拒絶するのか?」

アネットは握られてはいないもう片方の手で顔を隠し、

「マーティン様からのお話は、私にはもったいないお話で、お断りする理由がありませんでした。でも、ステファン様は、ご主人様です。まさかこんなお話になるなんて、想像もしていなくて………」

顔がどんどん赤くなっていくのが分かる。ステファンには見られたくなくて、アネットは必死に片手で顔を隠す。

「わたしを嫌いではないのか?」

「………」

声には出さず、頷いた。気づいたばかり恋心を言葉には出来ない。

「わたしとの結婚が嫌ではないか?」

「………」

もう一度頷く。握られた手が痛い。

「ありがとう、アネット」

手の隙間からステファンを見れば、笑っていた。顔を隠していた手を下ろすと、すぐさまステファンに捕られ、両手を一緒に握りしめられた。

「明日にでも花嫁衣装を見に行こう」

花嫁衣装と言われ、ハウスメイドたちとの会話を思い出した。

「あの、ステファン様、私、今のままだとコルセットが」

「コルセット?」

「この太い腰では、コルセットを締められません。ウェディングドレスが着られませんっ」

「それは採寸して作ればいいだろう」

「嫌ですっ」

「どうして?」

「恥ずかしいです。せめて、もう少し痩せてからでないと」

「痩せる?」

「ステファン様、結婚は待ってください。痩せてからでないと無理です!」

「アネットっ」

それからどれだけステファンが太っていても気にしないと説得してもアネットは首を立てには振らず、仕方なくステファンが引く形となり、


メイドの結婚は、もう少し先になってしまうのだった。

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