マリィの光
これは今から二百年近く前のお話です。
ユーラシア大陸の北の寒い地方に、小さくて貧しい村がありました。
そこにマリィという少女が、お母さんと二人で暮らしていました。
家が貧しくて町の学校にも行けず、お母さんは病気がちでお父さんもいなかったため、マリィは一人でお母さんを助けて暮らしていました。
とはいっても貧しい村なので、あるのは日やとい仕事ばかり。
マリィは村の家を回り、床をふいたり、洗濯物をしたり、庭を掃除したり、家畜を追いこんだりと、そんな仕事をしていました。
毎日はたらいても、暮らしは楽になりません。
村の人たちは、そんなマリィを可哀そうに思っていました。
でも自分たちも同じように苦しく、人に施しを与える余裕がなかったため、心を痛めながらも見て見ぬふりをしていました。
その代り、マリィのために日やとい仕事を絶やさないようにしていました。
また当時、くつはとても貴重なものでした。
マリィのくつは仕事の中でいつしかボロボロになり、ついに指が出てしまうようになりました。
服の替えもなかったので、毎日同じものを着ています。
すると服もほつれ、どんどんボロになります。
マリィは決して美しい少女ではありませんでした。
子供らしくなく、無口でもありました。
だけどその目は穏やかで、いじけたところは見当たらず、決して自分の境遇を恨んだりしていないのが分かりました。
そんなマリィを、村の人たちは少し知恵の遅れた子だと思っていました。
マリィは字も読めませんし、神様のことだって知りません。
それでも、毎日を一生懸命に生きることが大事だと、元気な頃のお母さんが言ったことを覚えていました。
マリィはお母さんが大好きでした。
お母さんが病気になると、今度は私の番だと、自分からはたらきに出たのです。
一日の仕事が終わると、マリィは家に帰ってお母さんの面倒をみます。
お母さんは病気で動けず、両足は寒さにむくんで痛むため、湯に浸さなければいけません。
マリィは湯をわかしてその足を洗い、まめまめしくお母さんの世話をします。
お母さんはいつもマリィにごめんね、ごめんねと謝っていました。
しかしそのお母さんが、ついに死んでしまいました。
村には教会もなく、母親はみんなが一緒に眠る共同墓地に埋められました。
マリィはその日、一日中泣いていました。
♯ ♯ ♯
それからマリィ一人の生活が始まりました。
マリィはついに裸足になってしまい、ボロをまとって村の家を回り、日やとい仕事をしました。
でも不作が続くと、村人たちは作物はおろか、それをお金にかえる手段すらなくなってしまいました。
自分たちが生きるのに精一杯。
マリィに日やとい仕事も任せることが出来なくなります。
マリィはご飯を食べることが出来なくなりました。
お腹を空かせながら、自分が出来る仕事を探して村の家を回ります。
そんな時、少し前に村に引っ越してきた男がマリィに声をかけました。
「ねぇ、君。怖がらないでこっちにおいで」
マリィは不審に思いながらも、男に近づきます。
すると男はマリィに笑顔であいさつしました。
「やあ、マリィはじめまして。君のことはずいぶん前から知っていたんだけど、僕はなかなか勇気をだすことが出来なかった。だけど今日は体調もよくてね、ようやく決心がついたよ」
マリィは男の言葉に首をかしげます。
「僕はね、昔は都会で小説を書いていたんだ。華やかな町でね。おっと、それはどうでもいいことだった。マリィ、君にこれをあげるよ」
男が差し出したのは、小さなダイヤがついたブローチでした。
「これはね、僕の妻の形見なんだ。でもね、いいんだ。これを行商に来ている男に売りなさい。そうすれば君は食べ物だって買える上に、くつや服だって買えるよ」
しかしマリィは、男の手からブローチを受け取りません。頭を左右に振ります。
男はちょっとだけ意外に思った後、ほほ笑みます。
「なぁに気にすることはないんだ。マリィ、僕はね、今まで君のことを知りながら見て見ぬふりをしてきた。それがずっと僕の心を痛め続けてきた。僕は君に何かしたいんだ。死んだ妻だって、生きてたらきっと賛成する。だから、ねぇマリィ、気にすることはないんだよ。さぁ受け取って」
それでもマリィは、かたくなに受け取ろうとはしません。
男が差し出し、マリィが首を振る。そんなことが何度か続きました。
そしてそれが四度目となるとき、ついにマリィは言いました。
「私、はたらきます」
男は目を丸くしましたが、「分かったよ」とうなずいた後、マリィに家の掃除を頼みました。そして自分は行商のところに行き、妻の形見のブローチをお金にかえて戻ってきました。
「やぁ、見違えるほどに奇麗になったね。僕は体を壊していてね。やっぱりホコリはよくないんだ。さぁ、これはお礼のお金だよ。受け取って」
男がお金を差し出すと、またしてもマリィは首を振りました。
「多すぎます」
男はまゆを上げると、「そうか。じゃあみんなは、どれくらいのお金を渡しているんだい?」と尋ねました。
マリィは素直に答え、男はパン一つがようやく買える駄賃に言葉を無くしながらも、そっとその分をマリィに渡しました。
「それじゃ次は、洗濯物をお願いできるかな?」
「はい」
♯ ♯ ♯
マリィはそれから毎日、男の家に日やとい仕事に向かうようになりました。
男はその村に暮らす人たちと同じで、決して豊かではありませんでした。
また男は自分で言ったとおり、昔は作家でした。流行作家となったこともあります。でも妻と娘の死をきっかけに、ふでを折りました。
男が浮かれている間に、二人とも流行病にかかってしまったのです。
男はそのこと悔やみました。それを忘れるために、遊んで暮らしました。
でも気分はちっとも楽になりませんでした。
そしてあるとき、男も病気を患ってしまいました。
男は妻が生まれた村を見たいと思い、この村にやってきたのです。
そこでマリィのことを知り、どうしても助けたくなりました。
男はある時、仕事を終えたマリィを前に、タンスからそっと服を取り出しました。
「ねぇマリィ、この服なんだけど、よかったら君にあげるよ。ご覧の通り、僕はひとり暮らしで娘もいないんだ。でも不思議なことに服だけはある。邪魔になるから捨てようと思うんだけど、それでもやっぱりもったいないからね。出来るなら、誰かに使ってほしいんだ」
その言葉にマリィは迷いました。
しかし自分の服がボロボロで、もうどうしようもないことも知っていました。
だから長い間考えて、ようやくコクンとうなずき、その服を受け取りました。
男は満足し、続いてくつを取り出しました。
マリィは迷った末、それにもコクンとうなずきました。
マリィの足はむくみ、裸足で生活していたため、簡単にはくつがはけなくなっていました。
男は湯をわかし、自分の手でマリィの足を洗い、少しずつ、少しずつ元に戻していきました。
「さぁ、これでよし。よかったら、服も着てみせてくれないか?」
マリィは頷くと、別の部屋で着替えてきました。
くつも服もマリィのサイズにぴったりでした。
そしてマリィは、久々にくつをはいて、服を着た自分の姿を鏡で見ると、突然泣き出しました。
「マリィ……マリィ、一体どうしたんだい?」
「わ、わたし……わたし、うわぁぁぁあぁぁぁぁ」
「マリィ、マリィ。あぁ、ごめんよ、辛かったんだね。あぁ、マリィ……」
それからマリィは、男と一緒に暮らすようになりました。
♯ ♯ ♯
村の人たちは、男のことを変人だと思っていました。都会からやってきた素性の知れない男だと。
それでもマリィが村の中でちゃんとした格好をし、健やかな顔で歩いているところを見ると、男のことを見直す人も現れました。
マリィは男が止めるのにもかかわらず、前と同じように村を回り、日やとい仕事をしました。
マリィは男と暮らしはじめ、自分の命に安らぎを覚えるようになりました。
以前より、よく喋るようになったのです。
そんなある時、マリィが男に尋ねました。
「どうしてあなたは、私に親切にしてくれたの?」
男はその質問を前に、考えるしぐさを見せた後、そっと胸に手を当てて答えました。
「良心がささやいたんだ」
「良心……? 良心ってなに?」
男は遠くを見るように目を細めます。
「それはとても難しい質問だけど……命を慈しむ心。命を大切にしたいと思う心。そういうものだと僕は思う」
マリィは、ぼうぜんとつぶやきます。
「良心……」
そして再度尋ねました。
「その良心は、私にもあるの?」
男はじっとマリィを見つめて答えました。
「もちろんだ。神様はすべての人間に良心を与えてくださった。でも良心はね、曇ってしまうんだ。僕たち人間には体があるから、体を守っていかなくちゃいけない。それは良心よりも、強い衝動なんだ。だから僕は思う。きっと皆が満たされれば、そこは天国のような場所になるって。ははっ、こんなことを言ってるから、僕は変人扱いされるんだけどね」
マリィは男の言葉を前に、何かに打たれたようになりました。
やがてもう一度「良心……」とつぶやくと、マリィはその言葉を大切な宝物のように抱き締めました。
♯ ♯ ♯
それからも二人は、一緒に暮らし続けました。
マリィは毎日、日やとい仕事に出かけ、男はコホコホと時々せきをしながらも、時間を見つけてマリィに読み書きを教えました。
マリィは仕事の合間に、男からもらった聖書を読みました。
その姿を見て村の人たちは、自分たちがマリィを知恵遅れだと思っていたことが、勘違いだったと気づきました。
二人にはつらいことも悲しいこともたくさんありましたが、それでも一生懸命に生きました。
でもある時から、男は床にふすようになりました。
村には当然ながら、お医者さんもいませんでした。
でも男は満足そうな顔をしていました。
「マリィ、どうやら僕は、妻と娘の場所にいくようだ」
「いや……そんな……」
ベッドの傍に立ち、心配そうな表情で自分を見るマリィの顔に、男はそっと手を添えます。
「あぁ、マリィ、顔をもっとよく見せてくれ。ははっ、きれいな瞳をしているね。まるで曇りなき良心のようだ」
マリィは男の手に自分の手を重ねました。
「マリィ、あの日、僕が言ったことを覚えてるかい? 良心の話をしたね」
マリィは何もしゃべることができず、涙を目にためてうなずきました。
「ふふ、マリィ。君はその瞳でたくさんのつらい光景を目にしてきた。それでも尚、その瞳は奇麗に輝いている」
「あぁ、いやです。あぁ……」
「マリィ。僕のマリィ。良心のささやきのままに生きなさい。良心こそが、神様の木漏れ日。神様が人間の心にあたえた、光……なんだから」
そうして男は眠りにつき、もう二度と目を覚ましませんでした。
身寄りのない男もまた、母親と同じように、村の共同墓地に埋められました。
母親のときと違い、マリィはそのとき涙をぐっとこらえました。
♯ ♯ ♯
その後マリィは、男がのこした遺言を受け、町のシスター学校に通いました。
男は生きている間にお金を用立て、手続きをすませていたのです。
それから十年が経ち、マリィは自分のいた村に帰ってきました。
その間にも、マリィにはやっぱりつらく悲しいことがたくさんありました。
学校でささいなことで馬鹿にされ、いやがらせも受けました。
町の教会ではたらき始めても、神様の教えとは遠い現実ばかり。
ある日などは、酔っ払いのオジさんがやってきて、
「ふん、神の教えなんぞはもうはやらない。これからはお金が神になるんだ」
そう言ってつばを吐きかけられることもありました。
それでもマリィは、決して良心を曇らせたりはしませんでした。
敬虔な町のシスターとして人々に尽くし、母親が言ったように、毎日を一生懸命に生きました。
そしてようやく申請がおりて、自分の村に教会を建てることができるようになったのです。
そこでマリィは教会の本部から送られてきた神父様と共に、神の教えを村の人たちに広めました。
村の人はその姿を見て、あれがマリィかと驚きました。
また自分たちがかつて変人だと思っていた男が、マリィの人生を救ったのだと気づき、人知れず頭を下げました。
マリィは村に女の子のみなしごを見つけると、パンと温かいスープを与えました。その時代、どの村にも昔のマリィのような子が一人はいたのです。
そしてその子が欲したときだけ、マリィは神の教えを説きました。
ある時、みなしごの女の子が尋ねました。
「ねぇマリィ様。良心ってなんですか?」
その一言を前に、マリィは過去に自分がまったく同じ質問を男にしたことを思い出しました。
マリィの胸に、男との思い出が一度にあふれかえります。
『やあ、マリィはじめまして』
『マリィ、マリィ。あぁ、ごめんよ、辛かったんだね。あぁ、マリィ……』
『良心のささやきのままに生きなさい。良心こそが、神様の木漏れ日。神様が人間の心に与えた――』
マリィはわき上がってきた感情をぐっと飲み込むと、こう答えました。
「いいですか、それはね」
そのとき、村の教会に温かな光が射し込み……。
「命を慈しむ心。命を大切にしたいと思う心なんですよ」
マリィの心には、男から与えられた光が、いつまでも輝いていました。