漂流する雌鳥(2)
「遅かった……海龍蛇……」
海面に浮かび上がった巨大な影から、巨大な蛇が五匹、みるみるうちに船を見下す高さに上っていった。天を突くような青い蛇が、船の行く手に砦のように立ち塞がった。
「よりによって……海龍蛇の巣……とはね……」
五匹の巨大な蛇かと思ったが違う。実は一つの体から五つの首が伸びていることに気付く。その五つの首の合わせて十個の血のような紅い目は、迫ってくる船を睨み付けている。まるで自分のテリトリーを侵す敵を威嚇するように。
エリーはダメ元で舵をとってみたが、操舵知識など全く持たないゆえに、どうすればよいかわからない。
「お姉ちゃん!」
ルカの声に反応して見ると、シーサーペントの首の一つが、大きく息を吸い込む仕草を見せた。
「ま……ずい……!爆流の息吹……だ……!」
クロエが言う。その言葉の意味はなんとなくエリーにもわかった。シーサーペントの口からは水飛沫が激しく飛び散り始めていたからだ。
「浮かべ守護神の正紋!聖式断空円環!」
シーサーペントの口から水が激流となって一直線に、甲板に簡単に穴を開けてしまえそうな勢いをもって高速で船に向けて発射された。すかさずエリーは船の上空に、シーサーペントのブレスを防ぐための円状の防御結界を、船を覆うように展開する。
水は防御結界に当たると船を避ける形で横、上方向へと弾かれた。
しかしシーサーペントは二撃目を放つ。今度は、水を一続きに高水圧で口から発射するものではなく、圧縮された水の塊を口から撃ち出してきた。
圧縮された水の弾は、振りかぶるようにうねった首を前に振りきって、投石機のように撃ち出されており、凄まじいスピードで船に迫る。まさに水の砲弾。
「ぐうっ」
より接触する面積が小さいほど、接触面にかかる圧力は大きくなる。先程の、水を洪水のように船に浴びせるようなブレス攻撃よりも、今回のように防御結界を一点突破する攻撃の方が術者は苦しい。余りの衝撃にエリーはつい声を漏らした。
「お、お姉ちゃん……」
「大丈夫……だから……!」
シーサーペントの激しい攻撃を防御結界で辛そうに耐えているエリーを見て、ルカが不安そうに声をかける。その目には涙が溜まり、涙は今か今かと流れ出す合図を待っている。エリーは焦燥感にかられながらも気丈に答える。
ここでエリーはさらなる絶望感を呼び起こされた。
シーサーペントの五つの首全てが、水弾を撃ち出すべく首を振りかぶったのだ。
「……!」
一つでも船全体を、防御結界を張ってなお激しく揺らす威力を持つというのに、次は一挙に五つ。果たして耐えられるのか。
そして水弾が放たれた。少しずつ時間差で放たれた五つの水弾は、連続して防御結界に着弾する。ビリビリと防御結界が揺れ、それを支えるエリーも全身を殴り付けられる感覚に襲われ、船は衝撃で上下に大きく揺れて浸水した。
「うわあ!」
「うん……っ」
「ルカっ!クロエさんっ!」
揺れに揺れる船の上で、人も浸水した床の上を滑っていく。意識を失っているような者はいないが、まだ大人たちはセイレーンの歌が聞こえているのか、立ち上がることすらできないようだった。ルカも同様に揺れに押され、もう少しで船の外に放り出されそうな勢いであった。
幸い、エリーの防御結界は消えることなく残っていた。シーサーペントの攻撃は直接船には当たってはいない。しかし。
「……」
「お、お姉ちゃん!?」
「エ……リー……!?」
エリーは防御結界を自ら消し去った。その行動にルカたちは驚きを隠せなかった。なぜならシーサーペントは、既に次の攻撃の予兆を見せ始めていたからだ。
エリーが防御結界を消したには理由があった。消して体力が尽きたとか言うわけではない。
確かにこのまま攻撃を防ぐことはできる。しかしそれでは根本的な解決には至らない。攻撃は防げるが、敵はおそらく、半永久的に水弾を撃てるだろう。それを受け続けても、いずれは衝撃に船が耐えられなくなり、全員船に投げ出されてしまうだろう。それはさっきの水弾の連続着弾時に、船の至るところからミシミシと軋む音が聞こえていたから判断できた。
よしんば船が耐えきれるとしても、今度はエリーの体力に限界が来る。防御結界を展開させ続け、敵の攻撃をただ受け続けていれば、いずれはその時が来るのは自明のこと。
ならば、殺られる前に殺るしかない。いつかはこの選択を選ばなければならない。生き残るための一者択一。法術で迎え撃つために防御結界を消したのである。
「遥かなる天空の境界の竜!我、今ここにその天啓を請おう!」
再び首を振りかぶるシーサーペントの五つの首、それを迎え撃とうとするエリーを囲むように五つの光弾が生まれる。光弾はそれぞれが正五角形の各頂点になるように位置し、みるみるその大きさを増していく。
「顕現せよ天地に満ちる五大竜の五つ魂、空狂わす道となれっ……!」
ついにシーサーペントが首を大きく揺らし、水弾が撃ち出された。
「宝竜五元導砲!」
シーサーペントが一斉に水弾を発射したのに少し遅れて、エネルギーが充実した光弾から矢のように光線がほとばしった。
一直線に飛んでくる五つの水弾を、五つの光線がそれぞれ撃ち抜き、一方的に霧散させる。
さらに光線の勢いはそれでは衰えず、さらに空中を目にも止まらぬ速さで突き抜ける。そして光線は、シーサーペントの五つの首を貫通し、千切りきった。首から先は四方八方に吹き飛び、残った首はやがてゆっくりと、海面に叩きつけられ、津波のような水飛沫をあげてその後、沈んでいった。
「やっ……たー!」
法術を使い続けへたりこんだエリーに、ルカが近寄ってきた。
「お姉ちゃんすごい!あんな怪物をやっつけちゃうなんて!」
「ルカ……元気だね……」
周りの大人たちもセイレーンの歌から解放されたのか、立ち上がって安堵の表情をしてしている。クロエもエリーの法術に驚きの表情をしながら、微笑みを浮かべて声をかけてきた。
「エリー、すごいね。まだ小さいのにあんな法術使えるなんて……天才?」
「そんなことないですよ」
魔法を使ったら、今賢王に追われている魔法少女だとばれてしまっただろうか。そんなことを思ったが、それよりも今この船を守れたことが嬉しかった。呪われた力とばかり思っていたこの力で、人を救うことができたからだ。
手を着いて、横に足を折り曲げて地面に座り込む。横にルカが座ってきた。
「すごいかっこよかったよ!私もお姉ちゃんみたいになりたい!法術教えて!」
「……え、今?」
「うん!」
「えー……」
心地よい疲れが体の中を駆け巡っていて、今すぐ寝てしまいたい。シーサーペントを退けた安心感から、身体中から一気に力が抜けていくのがわかる。エリーはルカの怒濤の言葉攻めに生返事で返し続けた。
「ん?」
女たちの中の一人が声を漏らした。女は船の外を目を細めて見ている。
「どうしたんですか?」
クロエが船の外を見ている女に気づき、声をかける。
「あれ……」
「え?」
口に手をあて、先ほどシーサーペントが沈んだ先の水面を指差した。
「……!」
クロエが女のもとに歩みより、その指差された場所を見る。すると、すぐにクロエの顔が青ざめる。
「シーサーペントが起こす巨大渦潮だ!この船が沈んじゃう!」
クロエの声を聞き、船内が騒然となる。
シーサーペントが沈んでいく場所を中心に、渦潮が発生していた。それは次第に渦を大きくしていき、やがてはこの船など容易に引きずり込める程の大きさに成長を遂げる。
一難去ってまた一難。エリーは一瞬で頭を切り替え思考する。この場を切り抜ける活路を見いだそうとする。
が、思い付かない。渦潮を消し去る方法、この船を別の場所に移動させる方法あたりが候補には上がったが、いずれもエリーの法術では無理なことであった。
一人ならば飛翔法術で飛んで逃げることもできよう。しかしそんなことは出来ない。出来ることならこの場の全員を救いたい。
「……」
肝心の方法は浮かんでこない。眉間にしわを寄せて思案するも、時間だけが無情にも過ぎていき、焦りが募る。
「お姉ちゃん……」
ルカが泣きそうな顔でエリーにすがり付いてきた。それを強く抱き寄せる。
「大丈夫、大丈夫」
「うう……」
ルカを安心させるため、と言うのが半分、自分に言い聞かせるためと言うのが半分。エリーの表情はさらに険しくなる。
船は渦潮の引力に引かれ、ついに渦の中心へと続く流れに捕まってしまった。ぐるぐると回りながら、蟻地獄に為す術もなく落ちていく蟻のように、船は確実に渦の中心へと誘われていく。
「うわあっ!」
「危ない!」
船も激しく揺れ、荒れ狂う波が甲板を洗い流す。海に落ちた者はいないが、落ちればまず助からないだろう。
「お、お姉ちゃん……」
「く……」
いよいよ船は渦の中心に近付き、もうすぐ海の藻屑と化してしまうまで秒読みになった。大人たちは舵をとってみたりしているが、船は全くもって操作を受けつけない。
(やるしかない……!)
船を救う妙案は思い付かなかった。エリーは思い付いた案の中で最も成功が見込めそうなものを実行することにした。
「光翼烈空翔!!」
「これは……!?」
突然船が光を纏う。と思うと光は船の横に集まり、二対の大きな光の翼の形をとった。
「はあああ!」
四枚の光の翼が羽ばたく。風が起こらないことから、おそらく物理的な作用ではない法術なのだろう。果たして、船は巨大渦潮の拘束から脱した。
「……お姉ちゃんすごい!空飛んでるよ!」
「っ……」
「お姉ちゃん……?」
船は渦の上空二十メートルほどの位置に昇り、停滞していた。しかし、なにも好きで留まっているわけではない。
原因はこの船の質量にあった。以前この法術はエリーの体を軽々と空高くまで運んだが、さすがに大きな船一隻の重量は許容範囲外。船を法術で支えるエリーの体力もじわじわと削られていく。
船の高度が少し下がった。それに次いで、ゆっくりと、高度が下がり続ける。その間に前方にも移動はしているが、遅々として進まない。
「ぐぐ……ん……」
必死に船を前に進めようとするエリーの努力も虚しく、船は宙を沈んでいく。
「エリー、頑張って!」
両手両膝をついて歯を食いしばるエリーを見て、祈るようにクロエが励ましの声をかける。
が、ついに。
船の翼がフッ、と消えた。同時に船は渦の中心へと自由落下を開始し、船の至るところに掴まっている人々は口々に悲鳴をあげる。
エリーは近くの柵に掴まりながら、疲弊しきった目を閉じ、肩で息をしながらなおも打開策を模索するため頭を働かせる。
(ルカ……!?)
と、ここであることに気付く。さっきまで隣にいたルカがいなくなっている。冷静さを崩さぬよう保っていた頭の内が、急に熱くなって思考が中断してしまった。まさか先ほどの落下時に船から投げ出されてしまったのではないか、と考えて、手を柵から離さぬように辺りを見回した。
ルカは確かに船にいた。それを発見したエリーは、それにもかからず唖然とした表情で固まってしまっていた。
なぜなら、船の上空にいたルカは、空中で両手を広げ目を閉じ、天を仰いで十字架にはりつけにされているかのような格好で静止していたからだ。
エリー以外の者もまた、同様に空中に浮いているルカを見上げている。あの落下の中では上を見る余裕などはなかったはずだが、今は船にいる全員が空を見上げていた。なぜそのような余裕が生まれたのか。理由は、船の落下が止まっていたからに他ならない。
「これが噂に聞くエルフの神通力か……」
「神通力……?」
不可解なクロエの呟きに、エリーは反応した。
「そう、神通力。エルフが使える、炉のエネルギーを必要としない、法術に似て非なるもの。まさかあんな小さな子がこんな力を使えるなんて……」
船はゆっくりと上昇を始め、最初エリーが船を持ち上げた高さくらいまで戻っていった。ルカが静止していた高さまで船は上昇を続け、ルカは船の甲板に目を閉じたまま、しかししっかりと足を着けた。ルカを乗せた船は、そのまま渦を眼下に、ゆっくりと前に発進した。
「ルカ!」
「……あれ、お姉ちゃん」
ルカは寝起きのような顔で目をしぱしぱとまばたきさせた。
「ルカすごいよ!私なんかよりも!」
「え、すごい?うわ、船飛んでる!?」
「……これはルカがやってるんじゃないの?」
「うーん……船が落ちたあと、船よ飛べ!って思ったけど、そのあとはあんまり覚えてないの」
「ふうん、つまりルカちゃんは無意識に神通力を使ったってことね。エルフってみんなそうなの?」
「そうなのかな……?わかんない」
エリーと同じく、窮地で無意識状態で力が発現していたようだ。しかし意識を取り戻した後も継続して船は、ルカの神通力によって宙空を滑走している。
「なんかわかってきたかも!えいっ」
船が進む速度を上げた。さっきよりも強い風がエリーたちの髪を乱れさせる。
「えーと……うん、このままこの方向に直進でオッケー」
方位磁石を取りだし、少しの間にらめっこしたあと、クロエがルカに向かって言った。
「よおーし、面舵いっぱーい!」
「いや、直進だってば」
「言ってみただけだよ、一回言ってみたかったんだー」
大きな船が夜空を飛ぶという不思議な光景は、海上の誰にも観測されることなく、船は大地を目指して空を走り続けた。