坂の島
あと30分。
私がこの集落にいれる時間はそのくらいだ。
電車の都合、なのだが。
自宅と目的地のちょうど中間あたりに集落は位置する。夏休み。今は今日中に終わる程度の旅の途中である。
昔からどこかに遠出するときは1回くらいは寄り道しないと気が済まない性分で、今回もこの集落に来たのはそういうわけだった。
海沿いの或る集落。山に住民の住む家が建ち並び、海は海水浴場として開放されていた。
暑いので泳ぎたいのは山々だったが、生憎水着は持っておらず、集落を散策することにした。
平地が一切無く、様々な傾斜の小道が狭い集落の中で複雑に、立体的に交差していた。古めかしい家々の中を歩き、たまに高台から眺める海水浴場の微笑ましい風景は、日頃の忙しさを忘却の彼方に追いやるのに充分足るものだった。
集落を2周した。それでも30分余り、今、駅前でこれからどうしようかと考えている。もう1周しようか……海水浴場で磯辺の生き物を観察しようか……。
そんな風に考えていると目の前を1台の車が通り過ぎた。熊谷ナンバーのエスティマだった。
暑い暑い関東平野の奥地から潮風を感じに来たのか。ご苦労なことだ。と思って車を見送ったのだが。
私は目を疑った。
車が俺が通ったことのない道へと突き進んでいったのだ。
やばい、見落としていた。私は車についていった。
§
山がちな地形のお陰で車は私が見失うほどのスピードを出さず、俺は歩いても車を追うことができた。
驚いた。どうやら私は集落の半分ほどしか回っていなかったらしい。
さっき私が2周した地域は比較的古い集落、たいしてこっち側には先程のよりは新しい家が建ち並んでいた。
道は螺旋を描きながら下っていき、車はその道が直線になったところの家々の中に紛れた旅館の前で停まった。
旅館といっても、見た目は年季の入った一戸建ての家屋で、「沢尻旅館」と書かれた錆びた備え付けの看板だけが、ここが旅館であることを主張している。
道の先を見ると「この先行き止まり!」という、これまた年季の入った看板が立っている。ベニヤ板製のようで一部は潮風に抉られたかのように朽ち落ちていた。
行き止まりまで行ってみよう。旅の途中、行き止まり。探究心をそそる状況と言葉が私を道の先へと突き進ませた。
熊谷ナンバーの例の車の脇を通り抜け、道を先へ奥へ。下っていくにつれて道の傾斜がどんどん小さくなっていくのが足に伝わる。
丁度道が平坦になったところで道が切れた。
面前に見える行き止まりの風景。それは私が想像したものとはかなり違った。
これは「行き止まり」では説明不充分だろう。そう思った。
正しく形容するのなら――「立ち入り禁止」であろう。
§
道が切れた先には階段があって、その階段の向こうとは頼りなさそうな白い綱で隔てられていた。
その向こうは広い芝生があった。その海側は崖になっているようで、柵があり、行くことができれば眼下に雄大な海の風景を臨むことができただろう。そして、山側にはこの集落には似つかわしくない大きな建物が建っている。
4階建て。コンクリート造り。木造平屋建ての質素な家が多かった集落とは何とも対照的だ。
建物を観察し、思索する。
2階の一室のベランダに物干し竿が提げられている。
マンション?そう思ったが建物には人の気配は無い。そもそも立ち入り禁止なのだし。
可笑しなものを見つけた。玄関の前に二宮金次郎像が立っている。
学校……否、廃校なのか?しかし見た目は完全に居住用で、校門もないし校章も掲げられていない。
近くに人はいないだろうか。地元の人なら何か知っていると思うのだが……。
「お前さん!何やってんだ?」
すぐ近くで大きな声が聞こえた。
私は突然話しかけられたのにビクッと反応して声のした方を見ると芝生――立ち入り禁止区域の中に、50代くらいの女性が立っている。帽子をかぶって、右手には引っこ抜かれた雑草が握りしめられていた。
「この建物が何だか気になって」
私がそう言うと女性は建物を見上げて。
「学校だよ」
そう言った。
「普通の学校のイメージとは随分と違いますね」
「それでも学校なんよ。私の中では」
「廃校になったんですか?」
「ああ。20年前に。こっち来るかい?」
「え?良いんですか?」
「良いんだよ。ほれ早う」
女性に急かされて綱を跨ぎ芝生に降り立った。
私は女性と一緒に建物の周りを歩いた。
女性は建物をひしと見つめている。
「昔はこんな建物建ってなかったんよ。木造校舎の小学校があったんだ。この集落で1番高いこの場所に」
女性が溜め息をついた。
「それがどんどん人が減って。生徒が6人になってな。県の条例で生徒数が5人以下になった小学校は廃校にするって言われて。ぎりぎり6人を保ったまま数年頑張ったんだけどな……」
女性が目に涙を浮かべた。海から運ばれた湿った風が私たちに高台に吹き付ける。
「或る年の3月、あの崖からな、子供が1人転落してな。そのまま見つからなかった」
私はさりげなく海の方を見た。どこまでも続く水平線の陰に、私は得体の知れない不気味さを感じた。
「それで生徒数が足りなくなったし、何より危ない立地だということで、この小学校は閉校してしまった。今この集落にいる数少ない子供たちは、あの山の向こうの大きな町の学校に通ってる。私もここの出身だからさ、そりゃあ悲しかったさ」
胸がつまった。
私の住んでいる地域も田舎だった。だがそれなりに大きな都市の近郊に位置していたが故に、人々が多く移り住み、ベッドタウン的な位置付けが強くなっていた。
どんどん人が増え、家が増え、店が増え、街が増え。その都市の一部として取り込まれそうになっている。私もそんな地元を嘆いたことがあった。
ここは逆だ。大都市からは遠く離れている。子供が減り、小学校が消えた。今まさに消えようとしている集落だ。
只々、嘆きたかった。児童の死で廃校になった小学校を。
「でも、それで終わらなかったんだよ。私の小学校は。この小学校はマンションになったんだ」
「えっ」
私ははっとした。だがすぐに心がもやもやと霧に包まれた。
「何驚いてんだ。そうでないとこんなのにならんだろう。ほら見てみ。あの柵の向こうの海を。絶好のロケーションじゃないか」
はは、と。女性が笑う。
「とある企業がそういうことで掛け合ってきてね。それでこの集落に人が移り住んできて、子供が増えて、この高台でない場所でも良いから小学校がまた出来ないかな、と集落のみんなで話し合って承諾したんだ」
「だから、建物の前に二宮金次郎像が?」
女性は二宮金次郎像の頭をぽんぽんと叩いて。
「そういうことだ。笑えるよな。どこの小学校にもあるような代物しか残すものがなかったんだよ」
そう言った。女性は二宮金次郎像を我が子のように撫でながらまた溜め息をついた。
「でもそれもうまくいかなかった。あの建物、アスベストが使われてんだよ。それが問題になって移住して来た人はみんな出ていってしまった。それに、この周辺、前大きな地震があっただろう?この高台の地盤は脆くて、次同じような地震が来たら崩れてしまうだろうと、前の地震の後に来た地質学者さんに言われてな。高台ごと立ち入り禁止にすることになったんだ」
私は建物の中を覗いてみた。天井は蜘蛛の巣が張り巡らされている。夏だからなのか蜘蛛は沢山いた。白い絨毯の上を住人たちが我が物顔で闊歩し、侵入者を今か今かと待ち構えている。
「変わり果ててるだろう?それでも私の学舎だ。可哀想な……思い出の宝箱だ。だから、この高台を散々に淘汰してきた私たちのせめてもの償いとして、こうやってときたま雑草を抜きに来ているんだよ。……長々と喋っちゃったね」
ごめんごめん、と女性が少し頭を下げた。いえいえ、とこちらも頭を下げる。
「ところでお前さんは……海水浴にでも来たのか?沢尻旅館に泊まってたりするん?」
「いえ、次の電車で出発します。寄り道で来たので」
「寄り道でこんなところに……そういうのを聞くと少し安心するよ。駅があるだけ救いなんだよな。海水浴客は来るし、お前さんみたいな気分で立ち寄る変人も来るしな」
ジョークだジョーク、そう女性は茶を濁した。いえいえ、とこちらも頭を下げる。
「でもここに来たのは自分でも正解だったと思いますよ。この場所で埋もれてしまうような話を聞けたので」
「そうかい……電車大丈夫なんかい?次は38分だろう?」
時計を見ると、次の電車が来るまで5分を切っていた。
「そろそろですね。じゃあ、行きます」
「ああ、じゃあな。また寄り道しに来いよ」
「はい。またいつか」
§
駅のホームに入るとすぐに電車が来た。
電車は出発するとすぐにトンネルに入った。車窓が真っ暗になる。
真っ暗闇を覗きながら考えた。あの高台のこと、あの集落のこと。
結局どうにもならないのだろう。あの高台で子供が遊ぶことも、主婦が物干し竿に洗濯物をかけることも、もう無いのだろう。
「良いところだったけどなぁ……」
車窓に向かってそう呟いた。誰の耳にも、届いている気はしなかった。
トンネルを抜けるとすぐ駅に着いた。
ここが、山の向こうか。




