ホメホメウイルス
『ホメホメウイルス』
人類は、かつてパンデミックを乗り越えたはずだった。
だが、争いは終わらなかった。
戦争、差別、いじめ、環境破壊――。
地球は、静かに、けれど確かに悲鳴をあげていた。
そんなある日、世界中で奇妙な現象が起こり始めた。
戦場では、銃を構えた兵士が敵軍に向かって叫んだ。
「君の陣形、見事だ!」
「その迷彩、森と一体化していて芸術的だ!」
銃弾をかわした敵兵も叫び返す。
「今の狙撃、完璧だったよ!」
「君の身のこなしこそ見事だ!」
戦場は、たちまち褒め合いの場になった。
やがて兵士たちは武器を置いた。両手で拍手するためだった。
そして互いの国まで称え合うようになった。
「君の国は美しい! 観光したいから、案内してくれないか」
「もちろんだ。君の国にも行ってみたい。今度は君が案内してくれ」
政界では、討論の風景が変わった。
「公約を次々と変える、その瞬発力。お見事です」
「何の効果もない法案。完璧な調整ですね」
「質問には一度も答えず、制限時間を使い切る。見事な答弁でした」
総裁も笑顔で返した。
「あなたの質問、鋭くて誠実でした。日本の未来が楽しみです」
学校では、いじめっ子が言った。
「君のノート、字がきれいだね」
「昨日の発表、声は震えていたけど、最後まで逃げなかった。すごいと思ったよ」
「本当は僕、君のことがうらやましかったんだ。仲良くしたかったのに、意地悪ばかりして……ごめん」
いじめられていた子は、少し照れながら返した。
「ありがとう。本当は僕も、君の繊細で臆病な優しさに気づいていたよ」
職場では、出世競争をしていた会社員たちが言い合った。
「あなたの報告書、読みやすくて、部長も感心していましたよ」
「昨日の会議、あの一言で流れが変わりました。さすがです」
「そのネクタイ、秋らしくて素敵ですね。季節感にまで気を配るなんて!」
人々は、互いを褒めまくるようになった。
しかも、止められない。
口を開けば、褒め言葉しか出てこない。
原因は、新型ウイルスだった。
名づけて「ホメホメウイルス」。
感染すると、相手のよいところしか見えなくなる。
脳内の批判回路が一時的に遮断され、称賛回路だけが活性化するのだ。
結果、争いは成立しない。
戦争は終結し、政界は協調し、学校は笑顔に包まれ、職場は和やかになった。
褒められすぎて、照れくさくて、顔が赤くなる。
「困った、困った」
そう言いながら、誰もが少し嬉しそうだった。
ウイルスは、動物たちにも広がった。
森の小道で熊に出会った人間が言う。
「こんにちは。今日も立派な体格ですね」
「あちらの山に甘い栗がたくさん落ちていましたよ。よかったらどうぞ」
熊はぺこりと頭を下げ、山へ戻っていった。
人間と動物は互いを思いやり、森は静かに息を吹き返した。
植物も、褒められると、みずみずしく輝いた。
「今日も美しいね」
「葉の色が、秋の絵画みたいだね」
花々は自信たっぷりに咲き誇り、蝶は楽しそうに舞い、木々はそよ風に揺れて笑った。
地球は、かつてないほど美しく、穏やかになった。
そして、ある日。
一人の老人が、ノーベル平和賞の授賞式に現れた。
名は、ホメ田誉。
免疫学と神経科学を融合させ、秘密の研究所でホメホメウイルスを開発した人物だった。
「争いを止めるには、武器ではなく、言葉だと思ったのです」
「けれど、言葉は時に刃にもなる。だから、褒めることしかできないウイルスを作りました」
「副作用? ええ、あります。みんなが少し、照れ屋になりました」
会場は拍手喝采――では終わらなかった。
「すばらしいスピーチでした」
「ホメ田さん、その白髪、品がありますね」
「靴の選び方まで、センス抜群です」
ホメ田誉は照れながら答えた。
「ありがとう。でも、皆さんの笑顔のほうが、ずっと素敵ですよ」
そして、会場を見渡して続けた。
「よくぞ、このウイルスに平和賞を授けてくださいました。皆さんのその眼差しこそ、世界を平和へ導く力を持っています。私の研究は、皆さんの寛容さによって完成したのです」
地球は、今日も褒め言葉に満ちていた。
ホメホメウイルスは、静かに、優しく、世界を変えた。
しかし、消えたのは、敵意だけではなかった。
人類は、否定という名の警報装置まで失っていた。
「危険だ」「間違っている」「やめろ」――。
それらは、傷つける言葉であると同時に、守るための言葉でもあった。
橋の点検員は、大きくひび割れた柱を見て言った。
「なんて見事な亀裂でしょう!」
医師は、患者の肺に浮かぶ黒い影を見て言った。
「実に美しい陰影ですね」
気候会議では、急上昇する気温のグラフに拍手が起こった。
「これは頼もしい右肩上がりです」
誰も、「危険だ」「間違っている」「やめろ」と言えなかった。
開発者のホメ田だけは、自ら試作ワクチンを接種していた。
彼はようやく、自分の発明の欠陥に気づいた。
「私は、悪意だけでなく、異常を異常と見抜く力まで奪ってしまった」
ホメ田は急いで治療薬の開発を始めた。
だが、感染した研究員たちは、間違った計算式を見ても、失敗した実験結果を見ても、こう言うだけだった。
「斬新ですね」
「この失敗、可能性に満ちています」
治療薬は、完成しなかった。
そのころ、巨大な小惑星が地球へ向かっていた。
世界中の天文学者が、その軌道を観測した。
「なんて美しい軌道でしょう」
「地球の中心へまっすぐです。ほとんど誤差がない」
誰も警報を鳴らさなかった。
ホメ田は叫んだ。
「逃げろ! 防衛システムを作動させるんだ!」
しかし、人々は彼の切迫した声に拍手を送った。
「なんて情熱的なスピーチでしょう!」
やがて、空いっぱいに白い光が広がった。
海も、森も、都市も、国家も。
富も、名誉も、憎しみも。
すべては区別のつかない無数の欠片となり、宇宙へ散った。
その星屑の一つには、凍りついたホメホメウイルスが付着していた。
長い旅の果てに、それは遠い宇宙の片隅にある小さな星へ落ちていった。
空を横切る光を見上げ、その星に暮らす生命体がつぶやいた。
「きれいだね」
(完)




