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ホメホメウイルス

作者: 海月繭
掲載日:2026/07/19

『ホメホメウイルス』


人類は、かつてパンデミックを乗り越えたはずだった。

だが、争いは終わらなかった。

戦争、差別、いじめ、環境破壊――。

地球は、静かに、けれど確かに悲鳴をあげていた。


そんなある日、世界中で奇妙な現象が起こり始めた。


戦場では、銃を構えた兵士が敵軍に向かって叫んだ。

「君の陣形、見事だ!」

「その迷彩、森と一体化していて芸術的だ!」


銃弾をかわした敵兵も叫び返す。

「今の狙撃、完璧だったよ!」

「君の身のこなしこそ見事だ!」


戦場は、たちまち褒め合いの場になった。

やがて兵士たちは武器を置いた。両手で拍手するためだった。

そして互いの国まで称え合うようになった。

「君の国は美しい! 観光したいから、案内してくれないか」

「もちろんだ。君の国にも行ってみたい。今度は君が案内してくれ」


政界では、討論の風景が変わった。

「公約を次々と変える、その瞬発力。お見事です」

「何の効果もない法案。完璧な調整ですね」

「質問には一度も答えず、制限時間を使い切る。見事な答弁でした」


総裁も笑顔で返した。

「あなたの質問、鋭くて誠実でした。日本の未来が楽しみです」


学校では、いじめっ子が言った。

「君のノート、字がきれいだね」

「昨日の発表、声は震えていたけど、最後まで逃げなかった。すごいと思ったよ」

「本当は僕、君のことがうらやましかったんだ。仲良くしたかったのに、意地悪ばかりして……ごめん」


いじめられていた子は、少し照れながら返した。

「ありがとう。本当は僕も、君の繊細で臆病な優しさに気づいていたよ」


職場では、出世競争をしていた会社員たちが言い合った。

「あなたの報告書、読みやすくて、部長も感心していましたよ」

「昨日の会議、あの一言で流れが変わりました。さすがです」

「そのネクタイ、秋らしくて素敵ですね。季節感にまで気を配るなんて!」


人々は、互いを褒めまくるようになった。

しかも、止められない。

口を開けば、褒め言葉しか出てこない。


原因は、新型ウイルスだった。

名づけて「ホメホメウイルス」。


感染すると、相手のよいところしか見えなくなる。

脳内の批判回路が一時的に遮断され、称賛回路だけが活性化するのだ。

結果、争いは成立しない。

戦争は終結し、政界は協調し、学校は笑顔に包まれ、職場は和やかになった。


褒められすぎて、照れくさくて、顔が赤くなる。

「困った、困った」

そう言いながら、誰もが少し嬉しそうだった。


ウイルスは、動物たちにも広がった。

森の小道で熊に出会った人間が言う。

「こんにちは。今日も立派な体格ですね」

「あちらの山に甘い栗がたくさん落ちていましたよ。よかったらどうぞ」

熊はぺこりと頭を下げ、山へ戻っていった。


人間と動物は互いを思いやり、森は静かに息を吹き返した。


植物も、褒められると、みずみずしく輝いた。

「今日も美しいね」

「葉の色が、秋の絵画みたいだね」


花々は自信たっぷりに咲き誇り、蝶は楽しそうに舞い、木々はそよ風に揺れて笑った。

地球は、かつてないほど美しく、穏やかになった。


そして、ある日。

一人の老人が、ノーベル平和賞の授賞式に現れた。

名は、ホメ田誉ほめた・ほまれ

免疫学と神経科学を融合させ、秘密の研究所でホメホメウイルスを開発した人物だった。


「争いを止めるには、武器ではなく、言葉だと思ったのです」

「けれど、言葉は時に刃にもなる。だから、褒めることしかできないウイルスを作りました」

「副作用? ええ、あります。みんなが少し、照れ屋になりました」


会場は拍手喝采――では終わらなかった。


「すばらしいスピーチでした」

「ホメ田さん、その白髪、品がありますね」

「靴の選び方まで、センス抜群です」


ホメ田誉は照れながら答えた。

「ありがとう。でも、皆さんの笑顔のほうが、ずっと素敵ですよ」


そして、会場を見渡して続けた。

「よくぞ、このウイルスに平和賞を授けてくださいました。皆さんのその眼差しこそ、世界を平和へ導く力を持っています。私の研究は、皆さんの寛容さによって完成したのです」


地球は、今日も褒め言葉に満ちていた。

ホメホメウイルスは、静かに、優しく、世界を変えた。


しかし、消えたのは、敵意だけではなかった。


人類は、否定という名の警報装置まで失っていた。

「危険だ」「間違っている」「やめろ」――。

それらは、傷つける言葉であると同時に、守るための言葉でもあった。


橋の点検員は、大きくひび割れた柱を見て言った。

「なんて見事な亀裂でしょう!」


医師は、患者の肺に浮かぶ黒い影を見て言った。

「実に美しい陰影ですね」


気候会議では、急上昇する気温のグラフに拍手が起こった。

「これは頼もしい右肩上がりです」


誰も、「危険だ」「間違っている」「やめろ」と言えなかった。


開発者のホメ田だけは、自ら試作ワクチンを接種していた。


彼はようやく、自分の発明の欠陥に気づいた。

「私は、悪意だけでなく、異常を異常と見抜く力まで奪ってしまった」


ホメ田は急いで治療薬の開発を始めた。


だが、感染した研究員たちは、間違った計算式を見ても、失敗した実験結果を見ても、こう言うだけだった。

「斬新ですね」

「この失敗、可能性に満ちています」


治療薬は、完成しなかった。


そのころ、巨大な小惑星が地球へ向かっていた。


世界中の天文学者が、その軌道を観測した。

「なんて美しい軌道でしょう」

「地球の中心へまっすぐです。ほとんど誤差がない」


誰も警報を鳴らさなかった。


ホメ田は叫んだ。

「逃げろ! 防衛システムを作動させるんだ!」


しかし、人々は彼の切迫した声に拍手を送った。

「なんて情熱的なスピーチでしょう!」


やがて、空いっぱいに白い光が広がった。


海も、森も、都市も、国家も。


富も、名誉も、憎しみも。


すべては区別のつかない無数の欠片となり、宇宙へ散った。


その星屑の一つには、凍りついたホメホメウイルスが付着していた。


長い旅の果てに、それは遠い宇宙の片隅にある小さな星へ落ちていった。


空を横切る光を見上げ、その星に暮らす生命体がつぶやいた。


「きれいだね」


                 


(完)


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