始まった祭りに【2】
今日さえ乗りきれば休日が待っていると思うと気分も浮かれてくるもので。ただでさえ派遣される前に履修済みなこともあって身の入らない学業にさらに拍車がかかってしまう。Xがa個あろうがaがX個あろうがかけられようがもう知ったことじゃない。フィボナッチ数列は暗号にでも使われていればいいのだ。賛成してくれているかのような温かい日差しに誘われるように窓の外に目をやって、そして固まった。
窓ガラスをはさんでその距離三十センチメートル。
相変わらず一羽で動くことのない雀は昨日蹴り飛ばした雀で。こちらを見ていたらしい真っ黒で丸い目と合ったとたんに飛んで行ってしまった。まるで私のことを監視していたように。
もしかしたら偶然かもしれない。たまたま昨日の雀がこの教室の窓ガラスを気に入って、眺めていたら人間がジロジロ見てくるものだから嫌になって飛び去ったのかもしれない。私には一度見ただけの雀を見分ける能力なんてないはずだからそもそもが勘違いなのかもしれない。でも、と言って自分の内側に耳を澄ますとめぐる血液を伝って私の足元、魂がはっきりと告げている。もし、雀が私のことを覚えていたら、探し当てたのなら。
昨日の違和感が戻ってくる。追いかけなくては、そう思ったのとどちらが早かっただろう。私は手を挙げながら席を立った。
「頭グルグルするんで保健室行ってきます」
制止の声には耳をふさいで誰もいない授業中の廊下を走り出す。傍から見たら全く具合悪そうには見えないだろうけど頭がグルグルするのは事実で、雀のあの黒々した瞳が中心となって台風のようになっている。ただ行先は保健室でないからやっぱり嘘をついたことになるのだろうか。そんなことを考えている私はやはり混乱していたのだろう。
上履きもそのままに外へ飛び出すと雀はちょうど校舎の陰に消えていくところだった。足音を立てないように近づいて警戒しながら壁に張り付く。薄暗い中庭が怪しさをよけいに引き立てていて少しの息苦しさを感じながらそっと覗いてみると角の先には男性が。三十歳くらいだろうか、髪も黒いしさすがに雀には見えない。どうやら見失ってしまったようだ。しかしまた現れる気がして不気味だった。寒気を振り払うために腕をさする。
そういえばあの人は誰だろう、見たことがないし、保護者にしては若すぎる気がする。首をかしげていると後ろから肩を叩かれておどろいた。ついさっきまで緊張状態だったのに悲鳴を上げなかった私をほめてほしい。
「悪い悪い」
そんなに酷かったのだろうか、落ち着く時間を稼ぎながらふり向くと笑いをかみころそうとしているナルカミ先生にでくわした。
白衣の彼は私の苦手教科‐天狗としての常識は人間の非常識、逆もまた然りだからどうしても受け入れ難いのだ‐を担当していて、だからしょっちゅうお世話になっているまだ年若い先生だ。特技は人の顔と名前を覚えることと言っていたからもしかしたらあの男性のこともわかるかもしれない。
「ナルカミ先生、あの人は……」
しかし、男性は去ってしまったようで示そうとした指はさまよってしまった。
「どうした?」
「あそこに男の人がいたんで先生なら誰だかわかるんじゃないかと思ったんですけどもういなくなっちゃいました」
「んー? ああ、それたぶん新しい社会の先生」
新しい社会の男の先生、昨日の噂が脳裏をよぎる。一瞬だけちらりと見えた横顔を思い出そうとしてみるも他人の顔を覚えることが苦手な私が覚えているはずもなく、ただ想像ほどかっこよくはなかった気はした。というかそんなにかっこよかったらきっと覚えていただろう。とりあえず盛り上がって白馬に乗って通勤してくる、なんてところまでいった想像図に勝っていなさそうだったことに安堵した。そんなキャラの濃い先生は嫌だ。
「そうだ、このことは秘密にしといてな。まだ発表されてないから」
「大丈夫ですよ。二人いらっしゃるんですってね」
「そうそう。本当はひとりだけで足りたんだけどどうしてもって」
「え? 忙しいんじゃ」
「ミカマギ先生の紹介だったんだよ」
「……」
怪しい。雀はもちろん、新しい先生も。なにかあったら報告しろとは言われていたがこんなことを報告したらミソツキさんはきっと修学旅行に行くのをやめてしまう、それはつまり私のひさびさの休日も無くなってしまうということで。それはどうしても避けたい、休みたい。しかし仕事をさぼることはいけない。
「しょうがない、か」
腹に背は変えられない。二日、二日だけ休日を返上する。できれば一日がいいけど後処理なども含めると無理だろう、だが全部なくなるよりはましだ。
ナルカミ先生にお礼を言って踵を返す。
歩きながらも調べなくてはならないことをリストアップしていた頭は実はまだ混乱の余韻から抜けきっておらず、その代わりにいろいろと抜け落ちていたのだがこの時の私にそんな自覚はなく、数分後校舎中に響き渡るような放送でよびだされることになるのだがそれも知らないのであった。