第9話 「君を愛することはないと言ったな。あれは嘘だ」
朝、目が覚めた時――私は自分の位置に驚いた。
ベッドの中央。
毛布はきっちり整えられていて、枕はちょうどいい高さ。
そして私の手は、誰かの手に包まれたままだった。
隣を見ると、ジークフリート様が眠っている。
寝顔は静かで、呼吸は深い。数日前までの「命綱を掴むみたいな眠り」ではない。ちゃんと、安心して眠る人の呼吸だ。
(……回復したんだ)
胸の奥が少しだけ軽くなった。
昨夜の門前の騒動。父の声。義妹の泣き喚き。
その全部が遠くなっている。
私はそっと手を引こうとして――引けなかった。
握られている。
しっかりと。逃げないように。
(いや、寝てるのにどうして……)
私は諦めて、そのまま天井を見上げた。
ここは、私が欲しかった場所だ。静かで、温かくて、誰にも責められない場所。
だけど、ひとつだけ。
(公爵様が、いる)
最初は「干渉されない生活」が欲しかった。
白い結婚の宣言は、私にとって“最高の契約条件”だった。
なのに今、私は毎晩、彼の気配があることに慣れてしまっている。
その事実が、少し怖い。
そうこうしているうちに、ジークフリート様が目を開けた。
眠たげな瞳が私を捉え、すぐに焦点が合う。
「……起きていたのか」
「起きました。手、離してもらえますか」
「嫌だ」
「即答」
私の言葉に、彼は少しだけ口角を上げた。
この人が笑うと、空気の緊張がゆるむ。ずるい。
「今日は、話がある」
「また“規約更新”ですか」
「違う」
彼は起き上がり、珍しく布団の端を整えた。
まるで、これから何かを“正式に”始めるみたいに。
そして、私の前に膝をついた。
(え)
心臓が一拍遅れる。
こんな姿勢、領主が取るものではない。
「リゼット」
名を呼ばれる。
いつもより、柔らかい声。
「昨日で、君の過去の鎖は切れた。もう、誰も君を呼び戻せない」
「……はい」
「だから――今度は、俺が君に求める」
言葉が、まっすぐで、逃げ道がない。
ジークフリート様は、一呼吸置いて言った。
「君を愛することはないと言ったな。あれは嘘だ」
私は瞬きを忘れた。
頭の中で、初対面の執務室がフラッシュバックする。
氷の声。冷たい瞳。
そして、私の「やったー!」。
(撤回されると困るんですが)
喉まで出た言葉を、私は飲み込んだ。
なぜなら、彼の顔が真剣すぎたからだ。
「……俺は、君の作った魔導具に救われた」
彼は言う。
「眠れなかった夜に、君の部屋の灯りを見て、初めて――帰れる場所があると思った」
胸がきゅっとなる。
私が作ったのは、ただの快適空間のはずなのに。
「魔導具が欲しかった。あのベッドが欲しかった。あの空気が欲しかった。……最初はそうだった」
彼の指が、私の手を取る。
「だが気づいた。俺が欲しいのは――君だ」
直球すぎて、脳が追いつかない。
「俺は、不眠が治った今でも、君がいないと落ち着かない。君の声がないと眠れない。君が笑うと、胸が軽くなる」
一つ一つが、重い。
“依存”という言葉に逃げ込めないほど、彼は自分の感情を言語化していた。
「……公爵様」
私が絞り出した声は、妙に小さかった。
ジークフリート様は、視線を逸らさない。
「君に拒まれる可能性も分かっている。最初の契約は、君に干渉しないことだった。俺がそれを破っているのも分かっている」
彼は、少しだけ眉を下げた。
こんな表情、初めて見る。怖さより、必死さが勝っている。
「だから、選ばせる。君が望むなら、俺は距離を取る。君の快適を、最優先にする」
(距離を取る、できるんだ)
その選択肢があることに、私は逆に動揺した。
彼が“引く”という行動を取れるなんて、知らなかった。
私は、頭の中で自分に問いかける。
私は何が欲しい?
自由。睡眠。静けさ。干渉されない生活。
全部、ここで手に入れた。
それを壊す選択を、私は取るのか。
私は、ジークフリート様の手を見た。
剣を握る手。冷たいと思っていた手。
今は、私を丁寧に包んでいる。
そして思い出す。
昨夜、門前で父の声を聞いた瞬間の恐怖。
その恐怖を、彼が“終わらせた”こと。
(私、もう一人で戦わなくていいんだ)
それは、前世でも今世でも、持てなかった感覚だった。
私は、口を開いた。
「……永久就職先、っていうのは」
ジークフリート様が瞬きをする。
「はい?」
「ここ、待遇がいいですよね。残業なし。パワハラなし。衣食住つき。睡眠は確保。お風呂は無限。空調は自動。裁量も大きい」
私は真顔で数え上げた。
逃げ道としてではなく、私なりの“誠実”として。
「だから、もし私がここにいるなら――条件があります」
ジークフリート様の目が、少しだけ輝く。
「言え」
「まず、私の“ぐーたら時間”は侵害しないでください。制作の時間は尊重。あと、無断の規約更新は禁止。例外は事前申請制。通い妻みたいなのは、さすがに恥ずかしいので、正式な導線を作ってください。あと、抱き上げる時は一言ください」
言いながら、自分でも思う。
私は何を言っているのだろう。
でも、ジークフリート様は――笑った。
今までで一番、やわらかく。
「……分かった」
「即答ですね」
「交渉が長いのは嫌いだ」
それを自分で言うのはずるい。
私が小さく息を吐いた瞬間、彼が私の手の甲にそっと口づけた。
今度は、止めなかった。
「リゼット。俺と――正式に夫婦になってくれ」
心臓がうるさい。
私は、少しだけ視線を逸らしてから、戻した。
「……はい。最高のホワイト待遇なら」
私の答えに、ジークフリート様の目が一瞬潤んだ気がした。
彼は私を抱き寄せる。強すぎない。逃げられる程度に、でも離れたくない程度に。
「一生、俺の腕の中で甘やかされてくれ」
「甘やかしすぎは、ダメになりますよ」
「君が快適なら、それでいい」
またそれだ。
私は笑ってしまった。たぶん、初めて自然に。
「じゃあ、公爵様」
「何だ」
「今日は、寝るだけの規約は――更新します」
「更新するのか」
「はい。夫婦としての正規運用に移行です」
ジークフリート様が、声を立てずに笑った。
そして、私の額に軽く額を寄せる。
「……ありがとう」
「こちらこそ。良い職場……いえ、良い家庭です」
窓の外は、まだ雪。
でも、それはもう“閉じ込める白さ”ではない。
世界を静かに整えてくれる白だ。
私は毛布の中で目を閉じた。
眠りに落ちる直前、ふと思う。
(私、今世こそ――ちゃんと幸せになっていいんだ)
隣で、ジークフリート様の手が私の指を絡める。
その温かさが、答えみたいだった。
こうして、前世社畜の無自覚チート令嬢は、自分だけの快適なぐーたらライフを手に入れた。
ついでに、氷の公爵様の心身を溶かして、依存させて、極甘に溺愛される未来へ――正式に踏み出したのだった。




