第6話 ブラック実家からの手紙『お前がいないと家が回らない!今すぐ戻ってこい!』
その封筒を見た瞬間、体の奥がきゅっと縮んだ。
オズボーン伯爵家の家紋。
見慣れた意匠。見慣れすぎて、吐き気を思い出すやつ。
ミレイユが差し出した手紙を受け取った私の指が、無意識に止まる。
背中から回されていたジークフリート様の腕が、わずかに強くなった。
「……差出人は」
低い声。普段の冷たさとは違う、刃物の温度。
「えっと、たぶん“迷惑メール”です」
私は即座にそう答えた。
前世の経験上、危険な案件はラベルを貼って距離を取るのが最適解だ。名前を呼んだ瞬間に始まる地獄がある。
ジークフリート様の腕が、さらにきゅっと締まる。
「見せろ」
「だめです」
「……だめ?」
「はい。だめです。読むと私の心が汚染されます」
自分でも何を言っているのか分からないが、嘘ではない。
あの家の言葉は、読むだけで心に泥がつく。洗っても落ちないタイプの泥。
ミレイユが、気まずそうに視線を彷徨わせる。
私は慌てて付け足した。
「受領はしました。処理は私がします。業務なので」
業務。
この言葉は便利だ。相手に納得してもらうためというより、自分の心を守るための呪文みたいなものだ。
ジークフリート様はしばらく封筒を見つめ、次に私の顔を見た。
その瞳が一瞬だけ、凍る。
「……無理はするな」
「はい」
返事をしたのに、私はすぐ封筒を胸に抱え込んだ。
彼の視線から遠ざけるように。
ジークフリート様はそれ以上何も言わず、立ち上がった。
「執務に戻る。……何かあれば呼べ」
「呼びません」
「呼べ」
「検討します」
「……検討ではなく、呼べ」
不毛な押し問答のあと、公爵様は部屋を出ていった。
出ていく背中が、普段より少しだけ硬い。怒っているのか、警戒しているのか。あるいは――私が“外”と繋がることが、気に入らないのか。
(いや、違う。きっと睡眠不足の名残。うん)
私は自分に言い聞かせ、机に封筒を置いた。
封蝋は丁寧だ。字面だけは“伯爵家の品格”がある。
でも私は知っている。中身はだいたい二種類だ。
命令か、罵倒か。
たまに両方。
深呼吸して、封を切る。
紙を開いた瞬間、文字が目に飛び込んできた。
『リゼットへ』
呼び捨て。最初から雑。
そして、次の行。
『お前がいないと家が回らない。今すぐ戻ってこい』
……はい来た。
私は無表情のまま続きを読む。
『お前が辺境で楽をしている間、こちらは火の車だ。領地の帳簿が滞り、税の取りまとめが遅れ、屋敷の使用人も統制が取れん。義妹のドレスの支度も間に合わず、恥をかいた。どうしてくれる』
(ドレスの支度で“恥”って何)
『そもそもお前は我が家の娘だ。加護もないくせに、役に立てる場があるだけありがたいと思え。公爵家に取り入ったならなおさらだ。今すぐ戻り、今まで通り家の仕事を引き受けろ』
(家の仕事じゃなくて“全部”でしょ)
『もし従わぬなら、我々も考えがある。お前の出生のこと、母親のこと――』
そこで、紙が少し歪んだ。
握る力が強くなっていた。
気づかないうちに。
(脅しまでセット。テンプレート完成度が高いな)
前世でいうと、退職届を出した社員に「損害賠償」「業界にいられなくする」「推薦状を出さない」と言ってくるタイプだ。
つまり、脅し文句が出た瞬間に“交渉ではない”が確定する。
私は紙を机に置いた。
手のひらに、うっすら汗。
心臓が早い。
喉が渇く。
あの屋敷の廊下の冷たさと、父の笑い声と、義妹の靴音が、耳の奥で再生される。
(……戻る?)
一瞬だけ、思考が“従う”方向へ滑った。
体が覚えている。逆らえば痛い目を見る、という学習が染みついている。
でも。
私は窓の外を見た。
雪。森。高い空。
そして、部屋の中にある“今”の証拠たち。
ふかふかの安眠マットレス。
静かに空気を整えるエアコン魔石。
無限に適温のお湯が出る浴室。
机の引き出しには、ジークフリート様が渡した銀の鍵と印章がある。
私がここで、私の判断で、私の快適さを守っていいという許可証。
(……戻らない)
決めた瞬間、呼吸が少し楽になった。
同時に、別の疑問が浮かぶ。
(“家が回らない”って、そんなに?)
私が実家でやっていた仕事を思い返す。
領地経営の帳簿整理。税の書類作成。取引先との文書。使用人の勤怠管理。屋敷の備品管理。来客の段取り。義妹の衣装の修繕。父の機嫌取りの雑務。ついでに掃除。
(回らないはずだよね。私一人で回してたもん)
あの家は、私を“無能”と言いながら、私がいなければ成り立たない仕組みに依存していた。
それが露呈しただけ。
――その頃、オズボーン伯爵家では。
書斎の机に、書類が雪崩れていた。
父は額を押さえ、叫ぶ。
「なぜまとまらん! 税の取りまとめはどうした! 領地の支出は! 帳簿が違うだろう!」
叱責されているのは、若い執事と書記官。
彼らは怯えながら首を振る。
「旦那様、前任の担当がいないため……」
「前任? そんな者はおらん!」
「……いえ、以前はお嬢様が」
その一言で、父の顔が歪む。
「……あの加護なしが? 馬鹿な。あれはただの――」
言い切る前に、別の使用人が駆け込んだ。
「旦那様! 取引先から催促が! 納品の書類が不備だと!」
「またか! 誰が確認した!」
「……義妹様が」
義妹は居間で泣き叫んでいた。
針と糸を握りしめ、縫い目の歪んだドレスを見て。
「できない! こんなの! 私の指が痛いじゃない! なんで私がこんなことを!」
「リゼットがいれば……!」
「そうよ! あれがやればいいのよ!」
ただの八つ当たり。
でも彼らにはそれが現実だった。
“奴隷”がいなくなった瞬間に、家の骨組みが露出して、崩れ始めた。
自分たちが何もできないことを、初めて突きつけられている。
だから、呼び戻す。
脅してでも。
――そして今、その“呼び戻し”の紙が、私の机の上にある。
私は紙を折りたたみ、封筒に戻した。
丁寧に、丁寧すぎるほど丁寧に。
(丁寧に扱うと、相手の言葉が正当になる気がする。だから、形式だけ)
形式だけ済ませたら、次は処理だ。
私は封筒ごと持ち上げて、ゴミ箱の上で止まった。
(燃やしたい。いや、燃やすと匂いで思い出が蘇る)
前世の私は、嫌なメールを迷惑フォルダに入れるだけで済んだ。
でも紙は、物理的に残る。厄介。
「……よし」
私は封筒を、ためらいなくゴミ箱へ落とした。
紙が、軽い音を立てる。
それだけで、部屋の空気が少し澄んだ気がした。
次に、私はミレイユを呼んだ。
「ミレイユ。今後、オズボーン伯爵家からの手紙は――」
「受け取らない、でございますね」
先に言われて、私は瞬いた。
「……分かるんですか?」
「奥様のお顔が、先ほど少しだけ……。いえ、失礼いたしました」
ミレイユはすぐ頭を下げた。
でも、その声は優しかった。
「公爵様にお伝えしましょうか」
「だめです」
反射で否定してしまった。
公爵様に伝えたら、面倒が“大惨事”に変わる気がする。
そして何より――あの人の目が、さっき一瞬だけ凍ったのを思い出す。
(公爵様に知られたら、実家が終わる)
実家が終わるのは別にいい。むしろ正しい。
でも、私の平穏が巻き込まれるのは困る。
「私が処理します。これは私の過去の案件なので」
「……かしこまりました。以後は取り次がず、こちらで保管いたします」
保管。
丁寧な言葉で“遮断”してくれるのがありがたい。
ミレイユが部屋を出ていった後、私は椅子に座り直した。
胸の奥がまだざわつく。完全には消えない。長年の呪いみたいなものだ。
(でも、私はもう――戻らない)
私は机の上のメモ帳を開き、いつもの癖で対策を書いた。
【案件:実家からの呼び戻し】
【優先度:低(対応不要)】
【リスク:使者の来訪】
【対策:迷惑客フィルタ(物理)/門前払い手順/必要なら公爵へエスカレーション】
書き終えたところで、私はふっと笑ってしまった。
(エスカレーション先が“最強公爵”って、頼もしすぎない?)
その時、離れの奥から足音が聞こえた気がした。
たぶん、廊下の巡回か、風のせい。そう思って顔を上げる。
部屋は静か。
エアコン魔石が、一定のリズムで空気を整えている。
私は深呼吸し、ペンを置いた。
そして、何事もなかったように次の魔導具の設計に意識を向ける。
ゴミ箱の中で、オズボーン伯爵家の封筒が、紙の端を覗かせたまま――動かない。




