第3話 不眠症で過労死寸前の冷徹公爵様が、私のベッドで気絶(爆睡)していました
その夜も、私は勝った。
ふかふか安眠マットレスは、私の体を「寝るために作られた場所」へ運んでくれる。
目を閉じた瞬間に肩の力が抜け、呼吸が深くなり、次に意識が戻るのは朝――いや、場合によっては昼。
ただし。
(……静かすぎて、逆に怖い)
前世から染みついた「いつでも呼び出される恐怖」が、完全には消えていなかった。
だから私は、離れの入口に小さな鈴を括りつけ、扉が開いたら音が鳴るようにしていた。侵入検知。物理セキュリティ。私は自分の平穏を守ることに関してだけは、プロだ。
その鈴が――鳴った。
ちりん、と。
音は小さいのに、夜の静けさの中だとやけに大きい。
私は反射的に飛び起きた。
身体が軽い。マットレスの効果は抜群だ。抜群すぎて、警戒心だけが置いてけぼりになるのが怖い。
(誰。まさか実家の刺客……)
そんな物騒な妄想が浮かぶあたり、我ながら治安が悪い。
私は枕元に置いていた小さなランプを点け、毛布を肩に引っかけた。
「……どちらさまですか」
声が震えないように、できるだけ低く。
返事はない。
廊下から、靴音。重い。迷いがない。
扉の隙間から、冷えた空気と一緒に、見慣れた影が滑り込んできた。
銀髪。
(……公爵様?)
ジークフリート・フォン・ルンドベリ様。
昼間に見たあの完璧な冷徹の顔が、今は別人みたいだった。目の下に濃い影。顔色が悪い。歩き方が、どこか危うい。
そして彼は、私を見ても止まらなかった。
「……ここ、か」
掠れた声。
次の瞬間。
どさっ。
彼は、私のベッドへ倒れ込んだ。
「……え?」
私は固まった。
固まったまま、状況を脳内で整理しようとした。
(公爵様が、私の離れに、無断で来て)
(私のベッドに、倒れ込んで)
(……寝た?)
寝た。
あまりにも自然に、そしてあまりにも深く。
呼吸が、整っていく。
肩の筋肉がゆるむ。眉間の皺がほどける。
その変化が、私の目にもわかるほどだった。
(気絶……?)
私は、恐る恐る近づいた。
呼びかけるべきなのか、叩き起こすべきなのか。
でも、叩き起こしたら――この人、死ぬかもしれない。
過労で倒れる人間の匂いを、私は知っている。
前世の同僚の、顔。救急車の音。
自分自身の、終電後の駅のホームで、視界が暗くなる感覚。
ジークフリート様からは、それと同じ匂いがした。
「限界」の匂い。
私はランプの光を落とし、そっと毛布を追加で掛けた。
いつの間にか、彼の手がベッドの端を掴んでいる。まるで溺れる人が浮き輪を握りしめるみたいに。
(あの人、こんな顔するんだ)
冷徹公爵。鉄の心臓。辺境の化け物。
噂は、どれも彼を「怖い存在」として語るものばかりだった。
でも今、私のベッドで眠る彼は、ただの疲れきった青年だった。
私は、椅子に座ってしばらく見守った。
眠りが浅いなら、途中で起きて帰るだろう。
そう思っていたのに――起きない。
どころか、どんどん深くなる。
呼吸が、静かで長い。
人間が「本当に眠れている時」の呼吸だ。
(……効いてる)
私の付与魔法が。
筋肉緩和も、体圧分散も、温度調整も。
全部、この人に刺さっている。
(刺さりすぎでは?)
私は少し焦った。
自分用に作っただけなのに、ここまで即効性があるのは、さすがに想定外だ。
というか、寝具に依存されるのは困る。私は快適に寝たいのであって、睡眠難民を収容する施設になりたいわけではない。
結局その夜、私は床に布団を敷いて寝た。
自分のベッドは、公爵様が占領しているからだ。
(……なんで私が床で)
理不尽。
でも、相手は領主。冷徹公爵。しかも過労死寸前。
立場と倫理が、私の怒りを抑え込んだ。悔しい。
翌朝。
私は、太陽の光で目を覚ました。
床はやっぱり硬い。マットレスが恋しい。
私は恨みがましくベッドを見た。
ジークフリート様は――まだ寝ていた。
「……え、まだ?」
しかも、寝顔が信じられないほど穏やかだ。
昨日の青白さが少し引いている。唇に血色が戻っている。
人間、ちゃんと眠ると回復する。知ってはいたけど、目の前で見ると説得力がすごい。
私は近づいて、そっと額に手を当てた。
熱はない。冷や汗もない。
呼吸は安定。脈も落ち着いている。たぶん、問題はない。
(……寝かせておこう)
そう判断した瞬間。
「……何をしている」
低い声が、頭上から落ちた。
私は飛び上がりそうになった。
ジークフリート様が、目を開けていた。
いつもの氷みたいな目――ではない。少しだけ、焦点が合っていない。寝起きの人の目だ。
「お、おはようございます。あの、昨夜……こちらに来られて、そのまま……」
「覚えている」
彼は短く言って、ゆっくり上体を起こした。
そして、信じられないものを見るみたいに、自分の両手を見た。
「……体が、軽い」
呟きが、ぽろりと落ちる。
その声には、驚きと……戸惑いが混じっていた。
「数年ぶりだ。こんなふうに眠れたのは」
私は思わず、喉が鳴った。
「数年……?」
「呪いのせいだ。眠りが浅く、夢も見ない。目を閉じても、意識が沈まない。寝ても疲れが抜けない」
淡々と語る内容が、淡々としていること自体、異常だった。
慣れている。苦しみに慣れすぎている。
(それ、普通に死ぬやつだ)
前世の私が、脳内で即座に診断を下す。
睡眠不足は、人を壊す。心も身体も。
「……昨夜、限界だった」
ジークフリート様は視線を上げ、私を見た。
いつもの威圧はない。ただ、切実さだけがあった。
「ここに来るつもりはなかった。足が勝手に……いや、気づいたら扉の前にいた」
「鈴、鳴りました」
「……あれは君の仕掛けか」
「はい。防犯です。私、平穏が好きなので」
彼が一瞬だけ、口元を引きつらせた。笑いかけて、失敗したような表情。
冷徹公爵にも、そういう瞬間があるらしい。
彼は、ベッドの端を撫でた。
名残惜しそうに。
「……これは、何だ」
「えっと……私の安眠マットレスです。自分が快適に寝るために作りました」
「作った?」
「はい。布と羊毛と馬毛で。あと、ちょっと付与魔法を」
「ちょっと?」
低い声に圧が戻った。
ただし怖い圧ではない。驚愕の圧だ。
「君は、神の加護がないと聞いていた」
「ないです。だから実家で無能扱いでした」
「……この性能で?」
ジークフリート様の目が、じっと私を捉える。
その視線に、私は思わず背筋を伸ばした。
怒られる、というより――値踏みされている。領主の目だ。
「加護がないことと、才能がないことは別です。たぶん」
自分で言っておいて、説得力が薄い。
でも事実だ。私は今、ここにいる。
ジークフリート様は、しばらく黙っていた。
その沈黙が、やけに重い。
やがて彼は、静かに言った。
「……昨夜、君の部屋に来たのは謝罪する。許可なく入った。だが――」
言葉が途切れる。
まるで、続きを言うのが恥ずかしいみたいに。
「――君のこの寝具がない夜など、もう考えられない」
私は、瞬きを忘れた。
(寝具への告白?)
いや、告白ではない。依存宣言だ。
冷徹公爵が、寝具に。
「……そんなに便利なんですか」
間抜けな感想しか出てこなかった。
ジークフリート様は、目を細めた。今度は、少しだけ本物の笑みが混じった気がする。
「便利どころではない。これは――命綱だ」
昨日、私が言った言葉と同じだ。
私は内心、嫌な予感がした。
(あ、これ……面倒な方向に転がるやつだ)
平穏。ホワイト生活。干渉なし。
その全てが、銀髪の公爵と私の安眠マットレスによって、今、静かに揺らぎ始めている。
ジークフリート様は立ち上がり、服の皺を整えた。
そして、扉へ向かう前に、振り返る。
「リゼット」
「はい」
「……君の作ったそれについて、詳しく話がしたい」
冷徹な声に戻っている。
でも、その目だけは違った。
氷ではない。
飢えた人間の目だ。求めるものを見つけた人の目。
私は、喉の奥でごくりと唾を飲み込んだ。
(私のぐーたら生活、早くも危機では?)
そう思ったのに、なぜか心のどこかが、少しだけ――面白がっていた。




