第2話 とりあえず、自分が快適に寝るために【安眠マットレス】を作ってみた
翌朝。
鳥の声で目が覚めた瞬間、私は自分の耳を疑った。
(……静かだ)
王都の屋敷では、朝は使用人の足音と義妹の金切り声と、父の怒鳴り声で始まっていた。眠気が残っていようが関係ない。「起きろ」「早くしろ」「まだ終わってないの?」が三点セット。
なのにここは、雪と風の音と、遠くの森の気配だけ。
寝返りを打つ。背中が痛い。
(静かなのは最高。ベッドは最低)
硬い。とにかく硬い。
これはもう寝具じゃない。睡眠を妨害するための拷問器具だ。
私はもそもそと起き上がり、昨日書いた改善提案メモを机の上に広げた。
【最優先:睡眠環境】
【目的:肩こり・腰痛の根絶】
【手段:クッション性/体圧分散/温度・湿度】
【制約:材料は屋敷内調達、加工は自力】
前世の私はシステムエンジニアだったけれど、なぜか「寝具」と「空調」には詳しい。
理由は簡単だ。ブラック企業で生き残るには、限られた睡眠の質を上げるしかなかったから。枕、マットレス、耳栓、加湿器。ありとあらゆる手段を試した。
その執念が、異世界で役立つ日が来るなんて。
「リゼット様。お持ちしました」
控えめなノックのあと、昨日の侍女――ミレイユが、掃除道具と毛布、そして布と綿のサンプルを抱えて入ってきた。
私が頼んだものが、きちんと揃っている。
「ありがとう。助かります。えっと……綿って、圧縮できます?」
「……圧縮、でしょうか。詰めて固くする、ということですか?」
「そうそう。ぎゅっと。あと、羊毛とか馬毛とか、弾力がある素材はある?」
ミレイユは少し驚きつつも、仕事のできる人の顔で頷いた。
「倉庫にございます。寝具用の羊毛と、古いソファの詰め物に馬毛が使われていたかと。ご案内いたします」
私は心の中で拍手した。
こちらの常識を疑われても、否定されない。質問には答えてくれる。最高の職場だ。
離れから本館へ続く渡り廊下は冷える。けれど、歩いているだけで気分が軽い。
誰にも「それは令嬢の仕事ではない」と言われない。
言われたとしても、私はもう聞く気がない。
倉庫は広く、整頓されていた。
棚のラベルは読みやすく、在庫は記録され、埃がない。私は思わず唸った。
(物品管理がちゃんとしてる……。この屋敷、運用が強い)
前世の現場で、これがどれほど尊いか。
私は一瞬泣きそうになった。
「こちらが羊毛です。こちらが馬毛。あと、亜麻布と綿布……」
見せられた素材を触る。羊毛はふわりと軽く、馬毛は弾む。亜麻布は丈夫で通気性が良い。
選択肢は十分だった。
(よし。三層構造にしよう)
底は馬毛で反発。中間は羊毛で体圧分散。上は綿で肌触り。
問題は「沈みすぎないこと」と「熱がこもらないこと」。人間の体は、温度が上がりすぎると眠りが浅くなる。逆に冷えすぎてもダメ。
そこを魔法で調整できるのが、この世界の強みだ。
「リゼット様、まさか……新しい寝具をお作りに?」
ミレイユが半信半疑の声を出す。
私は、できるだけあっさり頷いた。
「ええ。硬すぎて眠れなくて。睡眠は重要です」
「……公爵家の寝具職人を呼びましょうか?」
「大丈夫。自分でやります」
口にした瞬間、胸の奥で何かがくすぐったくなる。
“自分で決めて、自分でやる”。
それが当たり前なのに、私にとっては贅沢だった。
材料をいくつか借り、離れに戻る。
床に布を広げ、まずはサイズを測って裁断する。
ここまでは、裁縫ができる人間なら誰でもできる。
問題は次だ。
私は目を閉じて、体の奥を探った。
魔力――この世界では、呼吸のように身近なものらしい。けれど私は、昨日までそれを意識したことがなかった。
実家では「加護なしの無能」に魔法の教育は不要だと切り捨てられ、まともに教本すら触らせてもらえなかったから。
(でも、できる)
根拠はない。だけど、妙な確信があった。
前世で、何も教わらなくても現場の火消しをさせられてきたからだろうか。
「できない」を許されない環境で、私はいつも“やり方を作る”しかなかった。
指先に魔力を集める。
温かいというより、静電気みたいな感覚が走った。
(これが、付与……)
私は布の端をつまみ、魔力を糸のように織り込むイメージで流し込む。
付与魔法は、物に性質を足す技術だと聞いた。剣を切れ味よくする、盾を硬くする、ランプを明るくする。
私はそこを、生活に全振りする。
まずは【体圧分散】。
寝返りを打った時、負担が一点に集中しないように、内部の反発を場所ごとに変える。人間の肩と腰は沈みやすく、背中は支えたい。
魔力で“弾力の地図”を描く。
次に【温度調整】。
外気が冷えても表面が冷たくなりすぎないように、体温を逃がしにくくする。ただし、熱がこもると蒸れるから、一定以上で放熱する。
やることは多い。でも、仕組みは単純だ。
(条件分岐。閾値。入力は温度と湿度)
前世の脳が勝手に翻訳してくれる。
私は思わず笑いそうになった。
最後に【筋肉緩和】。
これは、ほとんど反則だ。
微弱な魔力振動で、凝り固まった筋肉をほどく。マッサージの常時微弱版。
やりすぎるとだるくなるから、あくまで“眠りに落ちる直前だけ”強く効くようにする。
魔力を流し終えた瞬間、ふっと指先が軽くなった。
息を吐くと、腕が少し震えている。集中しすぎたらしい。
(……できた?)
布を縫い合わせて中身を詰め、三層を重ねて固定し、簡易のカバーをかける。
見た目は、ちょっと分厚い敷き布団。だけど、触った瞬間に違いがわかった。
押すと沈み、押し返してくる。妙に“生きている”みたいな感触。
私は恐る恐る、その上に横になった。
ふわり。
体が落ちるのではなく、受け止められて、必要なところだけ沈む。
肩が沈み、腰が沈み、背中は支えられる。
そして、冷え切っていた離れの空気の中でも、背中に触れる面だけがほんのり温かい。
「……なにこれ」
声が漏れた。
良すぎて、逆に怖い。
目を閉じる。
普段なら、「眠らなきゃ」と焦って目が冴える。前世の癖だ。睡眠は義務、休息は贅沢。
でも今は、焦りが湧く前に、筋肉の奥がほどけていくのがわかった。肩の硬さが溶ける。顎の力が抜ける。
(あ、これ……)
思考が薄くなる。
雪の音が遠くなる。
次に目を開けた時、窓の外が夕焼け色になっていた。
私は一瞬、自分が死んだのかと思った。あまりに深く眠っていたから。
「……昼?」
時計代わりの小さな砂時計を見て、私は呆然とする。
半日以上、寝ていた。
(やった)
胸の奥で、勝利の鐘が鳴った。
私が欲しかったのはこれだ。何にも追われず、罪悪感もなく、眠って、起きて、また眠れる生活。
その夜、私は食事を運んできたミレイユに、淡々と告げた。
「今日から、このベッドは私の命綱です。触ったら怒ります」
「……命綱」
「睡眠が取れないと人は死にます。私は前世で死にました」
ミレイユは固まった。
私は慌てて付け足す。
「冗談です。半分」
「……は、はい。誰にも触れさせません」
彼女は真剣な顔でそう言い、離れを出ていった。
私は新しいマットレスに潜り込み、天井を見上げる。
(次は、室温だな)
寝具が最高になったら、今度は空気が気になる。人間の快適欲は際限がない。
でもいい。私はもう、誰の顔色も見なくていいのだから。
目を閉じる。
ふかふかの闇が、すぐに私を飲み込んだ。
――その同じ夜。
本館の執務室では、銀髪の公爵がまたひとり、書類の山と格闘していたことを、私はまだ知らない。




