第18話 前世は社畜、今世は愛されすぎて「公爵様の加護」が止まらない
旅の終着点――湖畔にキャンピングカーを止めた瞬間、私は心の底から「勝った」と思った。
水面は鏡みたいに静かで、遠くの森がそのまま映っている。空は薄紫から紺へと溶けていき、星が一つ、また一つと灯っていく。
風は涼しくて、湿り気が少ない。虫も少ない。最高。
(現地の気候が当たりってだけで、有給の価値が上がる……)
私は車内のリビングへ戻り、棚から二つのグラスを取り出した。
もちろんただのグラスじゃない。私の新作――【常時飲み頃温度キープ魔法グラス】だ。冷たすぎず、ぬるすぎず、香りが逃げない温度帯を維持する。飲み物の“理想の一口目”を、永遠に引き延ばす悪魔の器。
中身は紅茶。
旅用にブレンドした、香り強めのやつ。
「旦那様、乾杯しましょう。無事に“二度目の休暇”が成立した記念です」
屋上テラスに並んで腰掛けると、ジークフリート様がグラスを受け取った。
星明かりが銀髪を淡く照らして、いつもより柔らかい顔に見える。
「……休暇、か」
彼はその言葉を確かめるみたいに呟いて、グラスを軽く合わせた。
コツン、と澄んだ音がする。
それだけで、胸の奥が少しだけほどけた。
お茶を一口。
完璧な温度。完璧な香り。
隣ではジークフリート様が、静かに湖を見ている。
この人は景色を見ているようで、実は別のものを見ている時がある。
そういう時の沈黙は、嵐の前みたいに落ち着かない。
案の定、彼が口を開いた。
「……リゼット。今さらだが、一つ聞かせてくれ」
「なんですか。追加条項ですか? 休暇に業務を持ち込むのは規約違反ですよ」
「違う」
ジークフリート様が、珍しく少しだけ笑った。
それから、真面目な顔に戻る。
「君は我が家へ嫁いできたあの日、なぜ絶望しなかった?」
指先が、グラスの縁をなぞる。
その仕草が、落ち着かない子どもみたいに見えた。
「無能と蔑まれ、愛さないと宣告され、離れに追いやられて……普通なら泣く。怒る。俺を恨む。だが君は――まるで宝を見つけた子どもみたいに笑っていた」
私は一瞬、言葉に詰まった。
あの日の自分を思い出すと、今でも胸の奥が妙に痛い。
でも、嘘は言えない。
「あの日、私は人生で初めて『自由』をもらったんです」
夜風が髪を揺らす。
私は湖面に映る星を見ながら続けた。
「愛されないということは、期待されないってことです。誰かの役に立たなくてもいい。誰かの顔色をうかがわなくていい。……前世でも今世でも、ずっと“誰かのため”に働き詰めだった私にとって、それは救いでした」
前世の私は、毎日が締切で、毎日が残業で、眠ることすら“怠け”みたいに扱われた。
今世の私は、“加護なし”という札を貼られて、家の仕事を全部押し付けられた。
どちらも、逃げ場がなかった。
「だから“白い結婚”の宣言は、私にとって天国の内定通知みたいなものだったんですよ。最低限の衣食住。干渉なし。離れ付き。……最高の労働条件、って」
「労働条件……」
ジークフリート様が眉間を押さえた。
でもすぐに、視線が私の手へ落ちる。
「……俺は、愚かだった」
その声が、少しだけ震えている。
私は驚いて顔を向けた。
ジークフリート様は私の手を取って、指先にそっと唇を寄せた。
熱い。
いつも冷たい魔力をまとっていた人の手が、今はちゃんと温かい。
「無能だの、加護なしだの。あんな言葉で君を縛っていた実家も……俺も、同じだ」
「旦那様は縛ってませんよ。むしろ甘やかしすぎです」
「甘やかしても足りない」
即答が重い。
ジークフリート様はゆっくり息を吸い、私を見つめた。
その目はまっすぐで、逃げ場がない。
でも、怖くない。
「リゼット。君には神の加護など必要ない」
私は瞬きした。
心臓が一回、強く鳴る。
「……なぜなら」
ジークフリート様の背後で、銀色の魔力がふわりと溢れた。
冷気ではない。痛くない。
月明かりみたいに柔らかい光が、夜空へ広がっていく。
空に、薄いカーテンが掛かったみたいに――オーロラが生まれた。
湖面に映る銀の揺らぎ。
風が止まり、音が遠くなる。
私は息を呑んだ。
「俺のすべてが、君を守るための加護になるからだ」
ジークフリート様の声は低いのに、温かかった。
かつて“呪い”と呼ばれた力が、今は私を包むように優しく流れている。
「俺はずっと眠れなかった。体も心も、呪いと仕事に削られて……生きているだけで精一杯だった」
彼の指が、私の手を強く握る。
「だが君が来て、眠れるようになった。息ができるようになった。……生きたいと思った」
言葉が、胸に落ちる。
私は今まで、彼の依存を“便利だから”としか見ていなかった。
でも違う。便利はきっかけで、本質はもっと深い。
「リゼット。君は俺の光だ。君が笑うだけで、俺は生き返る」
(重い……けど、嫌じゃない)
私は喉の奥が熱くなるのを誤魔化すように、冗談で返した。
「それ、福利厚生が手厚すぎるってやつですね」
「そうだ。君の福利厚生は、俺が全部用意する」
ジークフリート様は真顔で言って、私の額に額を寄せた。
「もう二度と、君に社畜みたいな生き方はさせない。君が何かを作るのは、君が楽しい時だけでいい。必要に迫られて作るな。誰かに奪われるために作るな」
オーロラの光が、彼の横顔を淡く縁取る。
この人は本気だ。
本気で、私の“自由”を守ろうとしている。
私は小さく息を吸って、確認するように言った。
「……それって、一生有給休暇ってことですか?」
「そうだ」
即答だった。
「世界一贅沢な、永久休暇だ」
胸の奥が、ふっと軽くなった。
私は笑って、彼の胸に飛び込んだ。
抱きしめ返される腕が、強いのに優しい。
私は前世で、働きすぎて死んだ。
今世では、働きすぎて壊れかけた。
それでも、こうして温かいものに包まれている。
湖畔の夜は静かで、星は落ちてきそうで。
私の手の中には、温かい紅茶と、自分勝手に作った魔導具と――世界で一番、私を必要としてくれる人がいる。
私は彼の胸の中で、囁くように言った。
「……分かりました。じゃあ、私の次の発明品は」
「なんだ?」
「旦那様を世界一幸せにする魔法です。これは特許もライセンスもなし。旦那様だけの専用品」
ジークフリート様が目を見開き、次に信じられないものを見るみたいに笑った。
初めて見る、少年みたいな笑顔だった。
「……それは、欲しい」
「欲しがるな。発明には申請と審査が必要です」
「申請は今出せ」
「今は休暇です」
「……休暇だな」
彼が素直に引いたのが可笑しくて、私はもう一度笑った。
オーロラが揺れ、湖面がきらめく。
私たちのキャンピングカーの中では、エアコン魔石が静かに温度を守り、茶葉抽出機が明日の朝の湯を準備している。
遠くでは騎士団が、泣きそうな顔で野営の準備をしている気配がする。
(ごめんなさい。でも私は休みます)
私はジークフリート様の腕の中で目を閉じた。
この世界で初めて、何も追われない眠りに落ちる。
加護なしの追放令嬢は、今や世界で一番の幸福者。
前世社畜の私の、最高にホワイトでイージーモードな物語は――
ここで終わりじゃない。
明日も明後日も、ずっと続いていく。
だって、私の“加護”は止まらない。
――公爵様の、重すぎる加護が。
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