第14話 旦那様の逆鱗。リゼットがナンパされたと聞いて、氷の魔力が辺境を凍らせる
その日の私は、平和に「湯たんぽ」を錬成していた。
理由は簡単。
昨夜から屋敷の空気が妙に冷えるのだ。エアコン魔石の設定は二十四度、湿度も適正。なのに、廊下の隅に霜が降りる。
(原因:旦那様の機嫌)
領主の機嫌が天気になるって、辺境の仕様が強すぎる。
私は増築キッチン棟の作業台で、丸い金属容器に【保温】と【一定温度維持】の付与を刻み、ぽんと叩いて起動した。
湯が勝手に生成され、熱が逃げない。
「よし。これで屋敷の被害が減る」
快適は守る。私は引きこもりの城を守る。
そこへ、ミレイユが青白い顔で駆け込んできた。
「奥様……!」
「どうしました。今、厨房の温度と旦那様の機嫌の相関を測ってるので、緊急なら要点だけどうぞ」
「隣国の皇太子殿下が……先ほど、奥様に『個別の面談』を……」
「面談」
(ブラックワードが来た)
「しかも……『公爵は辺境に過ぎる。君はもっと上へ行ける』と……」
「なるほど。余計なお世話ですね」
私は湯たんぽを二つ目、三つ目と量産しながら、淡々と返した。
皇太子の口ぶりはもう予想できる。才能、国、名誉、側妃、予算、研究室、やりがい。全部、前世の地雷。
「奥様は……平気なのですか」
「平気です。だって私、転職しないので」
ミレイユは安心したようで、でも不安そうでもある。
その理由はすぐ分かった。
「問題は……公爵様が、それをお知りになったら……」
……あぁ。
問題は皇太子じゃなくて、うちの旦那様のほうだ。
私は湯たんぽを抱え、真顔で言った。
「聞かせないでください。聞かせたら室温がマイナスになります」
「すでに……隊長が報告に……」
「終わった」
その瞬間、遠くで扉が開く音がした。
足音はない。けれど、空気が“踏まれた”みたいに沈む。
冷たい風が、屋敷の奥から一気に流れてきた。
私は反射で、湯たんぽを胸に抱いた。
(来た)
そして次の瞬間。
キッチン棟の扉が、静かに開いた。
そこに立っていたのは、ジークフリート様。
笑っていない。
目が、戦場の色をしている。
「……リゼット」
名前を呼ぶ声だけが、やけに優しい。
優しいのに、周囲の温度が暴落している。
「はい。旦那様」
「今、何をしていた」
質問の形なのに、答えはもう知っている声。
ミレイユが震えながらも礼をし、早口で言った。
「皇太子殿下が奥様に……“勧誘”を……」
「勧誘」
ジークフリート様が、言葉を復唱した。
次の瞬間、空気がきしんだ。
エアコン魔石が維持していた「快適な二十四度」が、怒りという名の絶対零度に無慈悲に上書きされる。
床の端が白くなり、鉄製の取っ手に薄氷が張る。
(マイナス三十度、来た)
私は慌てて、湯たんぽを床に並べた。
熱源の分散配置。被害軽減。インフラ運用の基本だ。
ジークフリート様は、私の手を取った。冷たい指。
けれど触れ方は壊れ物を扱うみたいに慎重だ。
「……触られたか」
「触られてません。未遂です」
「未遂でも同じだ」
声が低い。
その低さが、怖い。
そこへ、さらに最悪のタイミングで“原因”が現れた。
「おや。ここにいたか、リゼット」
黄金の髪。キラキラした笑顔。
隣国の皇太子、エドワードが、護衛を従えて廊下の向こうに立っていた。
(なんでここに来るの。私邸規約読んで)
「公爵。君の妻に礼を――」
「礼?」
ジークフリート様の声が、地を這った。
皇太子が一歩踏み出した瞬間、床が一気に凍りついた。
靴底の下で氷が伸び、絨毯の毛足が白く固まる。
そして――ジークフリート様の背後に、巨大な氷の龍の幻影が揺らめいた。
「ひっ……!? ジ、ジークフリート、落ち着け! 冗談だ、ただの勧誘だろうが!」
「冗談……?」
ジークフリート様がゆっくりと一歩進む。
それだけで、空気が裂けるみたいに冷える。
「我がルンドベリ公爵領で、俺の妻を『道具』と呼び、連れ去ろうとする。どこに冗談の余地がある」
皇太子の顔が引きつった。
けれど、口はまだ動く。権力者の悪い癖だ。
「道具ではない、才能の――」
「黙れ」
氷の龍が、喉を鳴らしたように揺れた。
皇太子の護衛が一斉に身構える。
(これ、凍らせたら終わる)
凍らせたら国際問題。
国際問題は書類仕事。
書類仕事は残業。
残業は死。
私はジークフリート様の背中に飛びつき、腰をぎゅっと抱きしめた。
「旦那様! ストップです!」
「……離れろ、危ない」
「危なくないです! 怒るお気持ちは嬉しいですが、ここで彼を凍らせたら、後処理の書類仕事が山積みになります! 私はそんなサービス残業、絶対に嫌です!」
社畜魂の叫びは、意外と強い。
ジークフリート様の魔力が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
「……書類仕事?」
「そうです! 戦争なんて始まったら、有給休暇どころか不眠不休のブラック労働確定ですよ! 私は旦那様と、パジャマでぐーたらしたいんです!」
沈黙。
氷の龍の幻影が、ふっと薄くなる。
室温が、緩やかに戻り始めた。
「……ふ」
ジークフリート様が、短く笑った。
憑き物が落ちたように肩が下がる。
「君らしいな、リゼット。……わかった。君にこれ以上の仕事を増やさない」
彼はくるりと振り返り、私を壊れ物みたいに抱き上げた。
足が床から離れる。
「あの、旦那様。歩けますよ」
「だめだ」
「なぜ」
「近づかれた。……浄化が必要だ」
(浄化って何。語彙が重い)
ジークフリート様は皇太子に視線だけを投げた。
言葉は静か。けれど、圧は刃。
「エドワード。今日のところは妻の慈悲に免じて命だけは預けておく。だが明日の朝までにこの領地から消えろ」
「き、貴様……国賓に――」
「国賓が私邸に侵入するな」
正論で殴るのはやめてほしい。強い。
皇太子は歯を鳴らしながらも、護衛に支えられて後退した。
床の氷が残っている。滑って転べば、私の掃除が増える。やめて。
ジークフリート様は私を抱えたまま、離れの寝室へ向かう。
途中、湯たんぽの列を見て、微妙に目を細めた。
「……それは何だ」
「温度対策です。旦那様の冷房が強すぎるので」
「……すまない」
「反省するなら、次は最初から温度を守ってください」
「守る」
返事だけは素直なのが、本当にずるい。
寝室に入ると、ジークフリート様は私をベッドに降ろさず、そのまま抱えたまま座った。
離す気がない。
「リゼット。俺の妻を、道具扱いする者は許さない」
「分かります。でも凍らせないでください。床が」
「床か」
「床です」
彼は一瞬だけ口元を緩め、それから低く言った。
「……次に来たら、言葉では済まさない」
その言い方が、次回予告として最悪だった。
私は彼の胸元の服を掴み、視線を上げる。
「なら、次に来た時のために、先に“仕様”を作ります」
「仕様?」
「はい。侵入防止、面会制御、接触拒否、自動排除。外交を壊さずに、迷惑だけ消す仕組み」
ジークフリート様の目が細くなる。
気に入った時の顔だ。
「……やれ」
「やります。私が残業しない範囲で」
「残業はさせない」
即答。
その即答が信用できるのが、悔しい。
私は湯たんぽを抱き寄せながら、頭の中で次の設計図を引き始めた。
(掃除のふりをして、防犯できるもの)
(不審者を“汚れ”として処理する仕組み)
部屋の中は徐々に暖かくなり、エアコン魔石がようやく二十四度へ戻した。
けれど、ジークフリート様の腕だけは戻らない。むしろ強くなる。
「……今夜は離さない」
「それ、私の定時退社が――」
「定時は、俺が守る」
守り方が違う。
でも今は、言い返すのをやめた。
皇太子は、必ずまた来る。
旦那様は、次は抑えが効かないかもしれない。
だから私は決めた。
外交を壊さず、床も汚さず、残業も増やさず――迷惑だけを消す。
(よし。次は、お掃除ゴーレムを試作しよう)




