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海底のピアニスト-1

 突然だけど、僕の旅はもう終わるかも。

 だって、村から一度も出たことがない僕に行くあてなどないのだから。

 いや、待てよ? 今死んでもいいんじゃないか?

 そもそも、僕は何かの間違いで化物って勘違いされただけなんだ。

 ルミ、今行くからね。

 鞄からナイフを取り出して――胸を目掛けて一突きした。


「はあ……」

 胸からドクドクと溢れる血とともに、苛立ちを含んだ溜息を吐いた。

 僕、本当に化物になっちゃったのかな。

 心臓を狙ったはずなのに、傷口はすぐに塞がってしまった。

 こうなる予感はしていた。

 記憶が正しければ、村を出るときに貰った食料がなくなってから、何日も経っているのだから。

「もう死ぬしかないよ……死ねないのに」

 毎回自分で訂正をしなければいけないのは、面倒だ。


 川辺で釣り糸を垂らしながら、「海」の存在を思い出した。

 漁師たちの話だと、確か、村の川は「海」に繋がっているはずだ。

 溺れて死ぬことはできるかも。

 川では溺れようがないけど、「海」なら、もしかしたら。

 ほとんど転がり落ちるように険しい山を下りながら、川に沿って海を目指した。


「これが……海……」

 思わず溜息が零れた。

 話で聞いた海と、実際に見る海は、全く違う。

 大きな水の塊、いや、水の壁ともいえるものが、ただ目の前に存在している。

 静かといえば静かだけど、ざぶざぶと、せわしなく飛沫が上がり騒々しい時もある。

 この巨大で、不気味で、どっちつかずな存在は、僕に「ひとりじゃない」と感じさせてくれた。


 最後に海を見ることができて良かった。

 安らかな気持ちで、海に足を踏み入れた。

 海水が冷たい。靴擦れしていたところが少し染みる。

 腰まで浸かると、あっという間に足が地面につかなくなった。

 身体が勝手に沈んでいく。

 波に飲まれて、さらなる深みに引きずり込まれる。

 これで終われると良いな。

 頭のてっぺんまで海に浸かった僕は、そのまま包まれるように死を待った。


「そんな気はしていたんだ……」

 海の底、太陽の光も微かにしか届かないところまで来たというのに――、

 僕はまだ生きている。

 自分の身体に嫌気が差す。

 でも、海の中は綺麗で好きだな。

 青に包まれた世界。魚も、岩や珊瑚も、計算され尽くしたかのように美しくて。

 嫌なことも少しだけ忘れられた。

 しばらく水底の景色を楽しんでいると、遠くで不思議な音が聞こえてきた。


 ぴん、ぽん、とん……♪


 鈴のような音。

 自然と音が鳴る方向に、足が向かう。

「ぴ、ろ、ろ……♪」

 音を真似して遊んでいると、音の正体が現れた。


 人、がいた。

 髪型や体格から、男の人だと思う。

 見たことのない繊維で作られた、真っ黒で、綺麗な衣服を身に着けている。

 椅子に座り、大きな黒い岩のようなものに触れると、先程から聞こえている可憐な音が響いた。


 男の人は、岩のようなものを、愛でるように撫でた。

 優しい音が鳴り、男の人は頬を緩める。

 それは、窓から差し込む木漏れ日を受けながら、機織り機を操っていた母さんの横顔と少し重なった。

 男の人は僕に気付くと、手を止めて立ち上がった。


「はじめまして」

 男の人は会釈をすると、にこりと微笑んだ。

 短い髪が綺麗に整えられていて、彫りが深い顔。

 身だしなみなど気にしたことがなかった僕は、少し恥ずかしくなった。

「あの、音、綺麗ですね」

 お互いの声が、頭の中で響く。

 よく分からないけど、僕たちは水中でも意志の疎通ができるようだ。


「ありがとう。人の客は、きみが初めてだよ」

 男の人は、白い歯を見せて笑った。

「僕も旅をしていて、その……初めて人に会いました」

 自分以外の人間に会えて嬉しかった。

 何より、水中で呼吸を必要としないこの人は、僕と同じ何かであるという強い確信があった。

「俺はニコル。きみは?」

「あ……、僕はシオです」

「シオか。素敵な名前だね。きみはどうしてここへ来たんだい?」

 僕は何を答えればいいか分からず、これまでの経緯を伝えた。


「へえ、変わった身の上だね」

 ニコルさんは話を聞き終えた後も、穏やかに微笑んでいた。

 目元のほくろに視線が向く。

「きみは、自分に起きた異変の正体を突き止めたいんだね」

「はい」

「じゃあ、俺は? 人間じゃないように見えるかい?」

「いえ、そんなことはありません!」

「だったら、それでいいんじゃないかな」

 ニコルさんは軽やかに言い切った。


「ニコルさんは、どうしてここでピアノを?」

 僕は思い切って尋ねてみた。

「ああ、それはね……究極の音楽を追及したいと思ったのさ」

 ニコルさんは、ピアノと出会ったきっかけや、音楽の話を聞かせてくれた。

「陸でもピアノはできるよ。だけど、陸は人が多すぎる。

 雑音になってしまうんだ、何もかも……。

 毎晩悩んで、海を眺めていたとき――閃いたんだ」

 ニコルさんは、ピアノにそっと触れた。

「ピアノを運び出すのは大変だったよ。息継ぎのたびに陸に上がって……。

 気付いたら今みたいになっていた。

 俺も、もしかしたら人間じゃないのかもしれないね。

 だけど、思う存分ピアノに向き合えて幸せだよ!」

 ニコルさんは感情を表すようにピアノをかき鳴らした。


 大胆な音と、繊細な指さばき。いつまで見てても飽きなかった。

 ニコルさんと過ごす時間は楽しかった。

 僕もこんな風になれたら、もっとたくさんのことが上手にできたかも。


「あの、ニコルさん、もし良かったら、僕と一緒に……」

 旅がしたい。

 言いかけて、その先は言えなかった。

 ニコルさんの笑顔は、どんな言葉よりも雄弁に答えを表していた。

 僕は質問を変えた。

「ええと、お会いできて良かったです。またここに来ても良いですか?」

「ああ、きみならいつでも大歓迎さ。友よ」

「友…………!」

 友という言葉に、胸に込み上げるものがあった。

「シオも、俺のピアノみたいに好きなものができると良いね。

 人生をかけて良いと思えるようなものが」

「そうですね、探してみます……」

 真っ先にルミのことを思い出した。他にも、ローズおばさん、村の人たち。

 山の景色、鳥の鳴き声、川の水の冷たさ、夜の星空。

 作物が育たず、少ない食料を分け合う日もあった。それでも幸せだった。

 村での生活よりも好きになれるものが見つかる気がしない。


「ふふ、納得していない顔だね。それなら、きみの旅に目的を作ってあげよう」

 ニコルさんは懐から紙を取り出すと、さらさらと何かを書き始めた。

 ピアノも、便箋も、不思議な力に守られるように、水滴一つついていない。

「この手紙を港町のレイラという女性に届けてほしい。俺の恋人なんだ」

「? 分かりました」

 自分で届ければいいのに。

 そう思ったけど、彼はひと時もここから離れられないほど、海の世界に魅了されている。

 彼は、水の中で生きるために『人』を投げ出してしまったのかもしれない。


「別れの前に、きみに曲を贈るよ」

 そう言って、ニコルさんはピアノを弾き始めた。

 最初は一つの音。

 徐々に、高音と低音が連なり、音の塊が曲になる。水の塊でできた海のように。

 決して明るいとはいえない曲だった。

 心にずしっとくるような、重い音。怒りや悲しみを思い出すような旋律。

 そんな物悲しいメロディーが、僕の心を癒し、自然と涙が零れていた。

「……すごく素敵でした。ありがとうございます」

「この曲の楽譜をきみにあげる。辛いことがあったら、思い出してくれ」

 手紙と一緒に、線と記号?がびっしりと敷き詰められた楽譜を手渡してくれた。

 これが、あの曲になるんだ。

 そう思うと、何が書いてあるか分からなくても嬉しい気持ちになれる。


「行ってきます」

「ああ、レイラによろしく。次会う時は、俺はもっと素晴らしい芸術家になるよ!」

 僕たちは、握手をして別れた。

 ニコルさんは再びピアノに向かい、僕は手紙を届けに、港町を目指した。


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