09.視察と言う名のデート
ノエルが「兄上に報告がある」と言ってきたとき、アシュレイはその真面目な眼差しから、ただの雑談ではないとすぐに察していた。夜の執務室は、暖炉の火だけが静かに書類の山を照らしている。
「ノエル、どうした? 報告はグレンから受けているはずだが」
「……都からの公式報告とは別だ。隣国の南部との交易路。この数週間、少し妙な動きがある。行商人の中に、武装を強化した者が交じっていたらしい。武具の出所が不明で、民間人のふりをしているけれど……背後に、組織的な影が見える」
ノエルは、地図の上に指を滑らせ、不審な動きのあったポイントを正確に示した。
「隣国との関係は現在“中立に近い友好”のはずだが……仮に、偽装侵入や内乱の火種であれば、この辺境の安定を揺るがしかねない。対応が必要だな」
アシュレイは顎に手を添え、考え込む。その顔は、エナが知らない、領主としての厳しい判断を迫られている表情だった。
「はい。王都にも報告済みですが、辺境の動きは辺境伯が見た方がいいと思って。この動きを放置すれば、野盗どころの騒ぎではありません。……兄上、近いうちに出るつもりだろ?」
「ああ。この地の平和は、私が命をかけて守る。それは、エナと約束したことでもある」
だが、アシュレイは次の瞬間、ふと窓の外に目を向けた。
中庭には、春の陽気のなか、日傘を差して歩くエナの姿がある。彼女はリリーと何か楽しそうに話しており、その顔には、以前にはなかった安堵と、この家に慣れた者の穏やかさが滲んでいた。
「……だが、その前に――」
アシュレイは、静かに言った。
「彼女と少し、過ごしたい」
その言葉は、アシュレイらしからぬ、感情的な響きを持っていた。彼は、彼女を「小鳥」として可愛がる余裕のある夫から、一人の女性を求める男へと変わりつつあった。
「……ふうん。兄上が、戦いの前にそんなこと言う日が来るなんて、ね。結婚って、すごいものだ」
ノエルが意味深に笑った。
数日後、アシュレイはエナを連れ、「領内視察」に出かけると宣言した。
「……え? わたしも行くの? そんなに重要なの?」
エナは驚きを隠せない。彼女はてっきり、また執務室に籠って書類とにらめっこをする日々だと思っていたからだ。
「もちろん。君はもうウエストヴェイル家の夫人だ。領民の顔を覚えてもらいたいし、外の空気も吸ったほうが気晴らしになるだろう」
アシュレイは、エナの頬を軽く撫でた。その指先が、エナを不安にさせないよう、優しく配慮されているのがわかる。
「……別に、気晴らしなんて必要じゃないけど……」
(嬉しい……けど、また『可愛い奥様』扱いされるんじゃないかって、なんか照れる……)
「まあ、いいわ。どうせ政務でこき使われると思ってたし、それよりマシよ。わたしが行ってやってもいいわ」
「そう言いながら、嬉しそうだね。スカートの裾を摘まんでいる手の動きが、物語っているよ」
「言ってない! 誰が嬉しいって言ったのよ!」
スカートを軽くつまんでぷいとそっぽを向くエナ。だが口元には、確かに笑みが浮かんでいた。アシュレイはそれを見て、満足そうに微笑んだ。馬車で街の中心部に向かいながら、アシュレイは穏やかに領民に挨拶を返しつつ、エナに説明を加えていく。
「ここは農産物市場。春はこの辺りの主要な収穫物が並ぶ。西部の土は荒いが、その分、力強い作物が育つ」
「……野菜が、きれい。色も、艶も、全部違うわ。都で見るものより、生き生きしている」
エナは、自分が書類で見た備蓄品の現物に興味をそそられていた。
「農夫たちが丹精込めて作っているからね。君が褒めたと伝えれば、きっと喜ぶよ。彼らにとって、君の言葉は最高のねぎらいになる」
「別に、わたしの言葉なんて――重みがあるわけじゃ……」
「エナの言葉は重みがある。君はもうこの領地の『顔』なんだ。そして、私にとって、君の評価は、何よりも大切なものだ」
そう優しく言われて、胸の奥がきゅっとなった。褒められたわけでもないのに、心が満たされる――エナは、アシュレイの包容力に、完全に馴染んでしまっていた。
視察の終盤、街を見下ろす丘の上にある見晴らし台へと足を運ぶ。手入れされた石畳と、咲きかけの春花の中を、ふたりで並んで歩いていたとき――。
「きゃっ!」
石にヒールが引っかかり、エナの身体がふらついた。彼女は反射的に、アシュレイの腕を探そうとした。その瞬間――。
「危ない」
強く、けれど傷つけないように、彼の腕が腰を支えてくる。そのまま、彼女の背を包むようにして抱き寄せた。エナの身体は、硬く引き締まった彼の胸にぴたりと押し付けられた。
(……近い。ちょっと、近すぎるわ……!)
アシュレイの腕の中、鼓動が跳ねるのを自分でもどうにもできない。優しい声、温かな腕の中、包み込むような視線。
「……足元、見えてなかった」
エナは、顔を上げられずに、震える声でつぶやいた。
「視線がどこかに飛んでいたように見えたけど? 私の横顔に釘付けだったとか?」
「う……そ、それは……ちがっ……」
(だって、あなたが横にいたら、目が……勝手に……あなたを探してしまうじゃない!)
アシュレイは、エナをすぐに離さなかった。彼の体温と、心地よい木の香りが、エナを完全に包み込む。
「……ごめん。君が傍にいると、つい気が緩む。君を守らなければという緊張と、近くにいたいという感情が、拮抗してしまうようだ」
アシュレイがそう言って微笑む。その言葉が、逆にどれほどエナの胸を打つか、分かっているのだろうか。
(ああ、やっぱり、好き……。あなたのような完璧な人が、わたしで気が緩むなんて……)
自覚するたびに、心が膨らんでいく。もう、毒を吐いてごまかすことはできなかった。
日が落ちかけた帰り道。馬車の中で、エナは静かに隣に座るアシュレイの姿を見つめていた。
「今日は……ありがとう。わたし、本当に……楽しかった。あなたが、この領地をどれだけ大切にしているか、よくわかったわ」
「こちらこそ。君と過ごせて、嬉しかったよ。戦いの前に、君の笑顔を見ることができてよかった」
ふたりの間に流れる空気が、少しだけ変わった。喧騒は消え、車輪の揺れと馬の蹄の音だけが耳に届く。その中で、アシュレイがふと、エナの手を取った。
「君がこの領地に来てから、僕の時間が少しずつ変わってきた。日々の報告だけじゃなくて……『君に話したい』と思う出来事が、増えた」
「……わたしも、アシュレイの帰りを待つのが、当たり前になってて……」
言葉が詰まりそうになる。でも、伝えたい気持ちのほうがずっと強かった。
「毎日、『あなたの隣』が安心できるって、やっと分かってきたの。わたし、もう、あなたのいない屋敷は嫌よ」
その瞬間、アシュレイがそっとエナを引き寄せた。初めての、しっかりとした抱擁。広くて、あたたかくて、何もかもを包んでくれる感覚。アシュレイはエナの細い腰に手を回し、そっと彼女を自分の胸に抱きとめた。そして――。
「……エナ」
「……ん?」
名を呼ばれ、ゆっくりと顔を上げたそのとき、ふたりの唇が重なった。優しく、でも確かに、想いを伝えるような口付け。それは、アシュレイのこれまでのすべての包容力と、エナのすべてのツンデレと、初めて通じ合った心が交わした誓いのようだった。
言葉はいらなかった。この瞬間、どちらも「特別な存在」だと、もう否定できないほど理解していたから。馬車が屋敷へ戻る頃には、辺境の夜はすっかり深くなっていた。だが、エナの胸の奥には灯火のように、ひとつの“確かな想い”が残っていた。
(あなたが隣にいるなら、どんな未来でも――この西部の荒々しい辺境でも、わたしはあなたの対等な奥様として、歩いていける)
そして、アシュレイは翌朝、隣国との国境近くへ向けて、新たな出陣の支度を始める。だがその瞳には、はっきりと映っていた。この地で自分を待つ、小さな小鳥のような、けれど芯の強い――最愛の妻の姿が。




