08.おかえりなさい
その日、朝からエナは妙にそわそわしていた。リリーに着付けを手伝ってもらいながら、落ち着きなくスカートの裾を摘まんだり、襟元を何度も整えたりしている。今日の彼女は、昨日までの「有能な代行奥方」の顔ではなく、ただの「緊張した年若い女性」に戻っていた。
「奥様、いつも以上に落ち着きませんね。もう、襟元は五回目ですよ」
「だ、だって今日よ!? アシュレイが、今日帰ってくるって……っ」
アシュレイが野盗の拠点制圧に出てから七日目の朝。早朝に前線部隊から「完全制圧、負傷者なし、帰還予定本日正午」との報告が入り、屋敷内はさながら祝賀ムードに包まれていた。
(無事って分かってても、顔を見るまでは安心できない。あの人、戦闘中はきっと無理をするタイプだわ。血だらけで帰ってきたら、わたしが全力で毒舌を浴びせてやるんだから……って、そんなの嫌よ!)
自分でも制御できないほど、心が忙しい。彼女は胸の奥に詰まるような、不安と期待が入り混じった想いを抱えながら、正午が近づくのをじっと待っていた。政務に没頭することで誤魔化していた不安が、一気に押し寄せてきたのだ。
そして――正午。
「戻った」
低く、けれど確かなその声とともに、屋敷の正門が開かれた。
日差しの中、堂々たる姿で馬から降りたのは、黒衣の軍装とマントをひるがえしたアシュレイ。顔には煤が付き、軍服には土埃が付着しているが、その背筋はまっすぐで、目に力強さが満ちていた。その背後には、疲労はあっても誇りに満ちた部下たちの姿も見える。
「アシュレイ……!」
姿を認めた瞬間、エナは気付けば駆け出していた。リリーが止める暇もなく、長いスカートの裾を翻し、まるで風のように――けれど転ばないよう慎重に――彼のもとへ。
(完璧な奥方として、静かに待つ予定だったのに! わたしのバカ!)
「無事!? ほんとに無事なの!? 怪我とかしてない!? どこか痛いところは!?」
ぐるり、とアシュレイのまわりを勢いよく回る。マントの内側、腕、脚、そして顔。どこにも包帯や血の跡はない。
「……回りすぎて、目が回りそうだよ、エナ。止まり木に上手く止まれない小鳥のようだね」
アシュレイが苦笑混じりに言ったとき、ようやく彼女の動きが止まった。彼は、その顔の煤すら拭わず、ただエナの心配そうな表情を優しく見つめていた。
しかし次の瞬間、何とも言えない優しい――ほんのり笑ったような――彼の表情を見てしまい、エナの顔が見る見るうちに赤くなった。その表情は、「やれやれ、私の可愛い子がこんなに心配してくれたのか」と、すべてを肯定するような包容力に満ちていた。
「な、なによその顔! こっちは心配してたのよ!? べ、別に会いたかったとかそういうわけじゃ……っ、ほんのちょっとだけ、ほんの、ほんのね! あなたのいない間に、誰がこの屋敷を回すか心配だっただけよ!」
「うん。ありがとう、エナ。君が私の心配をしてくれることが、何より嬉しいよ」
あっさり受け入れられて、余計に反応に困る。その落ち着きように、どこか「過保護な夫の掌の上」で転がされているような“やられた”感があった。
(ううう……ずるいわ、この人。包容力の塊……! この人の前だと、わたしの毒舌がただの甘えになってしまう!)
エナはぷいと顔を背けながら、内心のぐるぐるを必死で隠した。
「おかえり、兄上」
やや遅れて響いた声に、アシュレイが振り返る。そこには栗色の髪を風に揺らしながら、ノエルがにこやかに立っていた。
「ノエル? なぜここに?」
「ああ、義姉上に許可もらって、数日滞在してたんだ。都からの緊急の報告もあってね。それと、兄上がいない間、義姉上が寂しくないように話し相手を務めていたよ」
「そうか。それは助かった。……エナ、本当にありがとう。ノエルを迎えてくれて、ノエルの子守までしてくれて」
「えっ、い、いいのよ別に……こっちが世話になったくらいで」
もごもごと視線を逸らしながら答えるエナを見て、ノエルが面白そうに目を細める。
「兄上の奥さんって、最初見た目ツンと見えるけど、中身ふわふわだよね。すぐ顔に出るし、素直でかわい――」
「言ったら殺すわよ、ノエル」
ニコリとした笑顔でエナが、近くにあった紅茶のスプーン(先ほどリリーが持ってきたもの)を手に取った瞬間、ノエルは椅子の背にひらりと隠れた。
「やっぱり怖い~~! 兄上、助けて!」
「怖くないわよ、ちょっとだけ警告しただけでしょ!? わたしがいつ、人を殺したっていうのよ!」
そんなユーモラスで賑やかなやり取りを見て、アシュレイは小さく肩を揺らす。彼の表情は、戦場の冷たさから一転し、心底楽しんでいるように見えた。
「君たち、もうすっかり仲良しなんだね。私がいない間に、良い遊び相手を見つけたようだ」
「そ、そんなんじゃないけど……まあ、悪くはないわ。あなたの弟、って感じね。って! 遊び相手って、わたしたちそんな子供じゃないわよ!」
(……よく考えたら、義理の弟とこんなに普通に喋れるなんて、わたしにしては進歩かも。アシュレイの存在が、わたしを少し変えたのかしら)
その日の夕方、執務室でアシュレイはグレンから報告を受けていた。野盗討伐の経緯も、屋敷での出来事も含め、全ては滞りなく処理されていた。
「……奥様が政務を少しご所望されたときは、正直驚きましたが」
「エナが? 政務を? 『読書と刺繍は嫌いだけれど、時間があるならやってみるわ』としか言っていなかったのに」
思わずアシュレイが聞き返すと、グレンはうなずいた。
「はい。『何かしたい』とのことで、申請書の確認や備蓄状況の視察までこなされました。ツンデレながらも、真剣でしたよ。おかげで、塩の備蓄問題に迅速に対応できました」
くすっと微笑んで、アシュレイは思わず目を細める。
「彼女なりに、私がいない間に、この屋敷の『お利口な奥方』になろうと頑張ってくれていたんだね」
その声音はどこまでも優しくて――そのまま、執務机の上に置かれていた小さな帳面を手に取った。エナの字で綴られた視察の記録。几帳面だが、ところどころにメモ書きや「要確認!」といった赤線が引かれている。
読みながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。エナが、この家を、この領民を、そして自分を、大切に思ってくれている証拠だと理解したからだ。
夜。食後のリビングで、エナはカップを片手にふわふわとした気持ちで座っていた。アシュレイがすぐそばの肘掛け椅子にいて、ノエルが向かいで談笑している。それだけのことが、妙に幸せに思えてくる。
「エナ」
「な、なに?」
アシュレイがふと、横に腰かけてきた。不意に距離が縮まった気がして、エナは一瞬身を強張らせる。
「……ありがとう。君が、私がいない間、ノエルを迎えて、屋敷の政務まで見てくれていたこと。帰ってきたら、君がここにいてくれて、本当に安心した」
「……っ」
ストレートな感謝の言葉に、エナの心臓が早鐘を打つ。すっと差し出された手が、彼女の指を優しく包み込んだ。それは、戦闘で多少ざらついた、大人の男の温かい指先だった。それだけで、胸がいっぱいになる。
「……な、泣いたりしないわよ? 別に、感謝されたくらいで」
「うん。泣かなくても、君のままだ。君のツンとしたところも、私にとっては愛しいものだ」
また、その何とも言えない優しい笑み。ああもう、やっぱりずるい。
「……ほんのちょっとだけ、寂しかったのよ。あなたがいなくて、屋敷が静かだったから」
「知ってる。私も、君のツンとした毒舌がないと、静かすぎて寂しかった」
「……ばか。早く言ってよ」
「ありがとう、私の可愛い奥様」
その夜、エナの心は、やっと完全に“落ち着いた”。彼女の孤独と不安を、アシュレイの揺るぎない包容力が、完全に包み込んでしまったのだ。




