07.もう一人のウエストヴェイル
朝の光が屋敷に差し込む頃、エナはいつもより穏やかな朝を迎えていた。アシュレイが野盗の拠点制圧に出てから数日が経ち、その間、エナはグレンの助けを借りて政務をこなすことで、“自分にできること”を見つけ、心の安定を取り戻しつつあった。彼女の机には、今日も領民からの新たな申請書が積まれている。――そんな朝。
「奥様、来訪者です」
ノックの音とともに、グレンが静かに告げた。エナは机に置いた羽ペンを止め、顔を上げた。その顔は、もう以前のような不安に怯える表情ではなく、辺境伯夫人としての真剣さを帯びていた。
「来訪者? こんな朝早くに? 軍の関係者かしら」
「いえ。旦那様の弟君、ノエル様です」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか理解が追いつかず、ぽかんとする。アシュレイの……弟? 全く話に聞いたことのない人物の登場に、エナは慌てて椅子から立ち上がった。
「そ、それってつまり、義弟!? なにそれ聞いてない!! ねぇ、どんな人!? 厳しいの!? 眉毛太いの!? アシュレイみたいに、包容力の塊なの!?」
「眉毛はご自身の目でお確かめください。ノエル様は、アシュレイ様とは少し雰囲気が異なります」
軽くいなされつつ、エナはバタバタと身支度を整え、リリーに急いで髪を整えさせ、玄関ホールへと向かった。
(やだ、いきなり義弟なんて! しかもアシュレイがいない時に! わたしがしっかりしないと、あの人の顔に泥を塗ってしまうじゃない!)
出迎えの間に入った瞬間、エナは思わず「えっ」と声を漏らした。そこにいたのは、肩まで届く柔らかそうな栗毛の髪に、いたずらっぽく笑う碧眼の青年だった。身長はアシュレイと同じくらい、けれど体格はやや細めで、軽やかで華やかな雰囲気を纏っている。その姿は、西部の実直な軍人というよりも、都の社交界で人気を集めそうな、洗練された雰囲気を持っていた。
「こんにちは。君が兄上の奥方?」
ノエルは好奇心いっぱいの目でエナを見つめた。
「え、あっ、はい。エナ・ウエストヴェイルです……あなたが、その……」
「ノエル・ウエストヴェイル。アシュレイ・ウエストヴェイルの弟で、君にとっては義弟、ってやつかな。初めまして、義姉上」
にこりと微笑みながら、ノエルは軽く礼をする。その所作は丁寧なのに、どこか抜け感があって、親しみやすさを感じさせた。
(……え、全然似てない!? アシュレイのあの岩のような静けさはどこにもないわ! まるで水面のような軽やかさ!)
思わず心の中で叫ぶエナ。あの包容力の塊・アシュレイと、この軽快な雰囲気の青年――どこをどうすれば繋がるのか分からない。するとノエルが、肩をすくめて笑った。
「うん、顔に出てる。よく言われるんだ、“似てない兄弟”って。まあ、異母弟だからね。血は半分しか繋がってないんだ。僕の方が、都にいる母親に似たらしい」
「……そ、そうなのね」
納得しつつも、ちょっとだけ胸がチクリとする。貴族社会にはよくあることだと分かってはいたけれど――それでも、“家族”のこととなると、やはり複雑な感情はついて回る。
「本当は兄上に直接伝えたい用事があるんだけど……いないんでしょ?」
「え、ええ。野盗の拠点を制圧しに行ってて、たぶんあと数日かかると思うわ。今、わたしが政務を代行しているけど……」
「そっか。じゃあ、野盗狩りかぁ。兄上らしいね」ノエルは少しだけ寂しそうな顔をした。
「じゃあ……君にお願いしてもいい? 兄上が帰るまで、ここに滞在させて。都からの長旅で、疲れちゃって」
ノエルはいたずらっぽく片目をつむる。
「もちろん、勝手に押しかけてごめん。迷惑だったら、すぐに出てくから」
「……べ、別に迷惑だなんて言ってないわよ! 誰が迷惑だなんて言ったのよ!」
エナは慌てて首を振る。
(正直びっくりしたけど、でも、彼もアシュレイの家族だわ。それに、彼がここにいれば、アシュレイが帰ってきたとき、きっと喜ぶわ!)
「アシュレイが帰ってくるまで、滞在していいわ。こちらで部屋を用意するから。でも、変なことをしたら許さないわよ」
「ありがとう、エナ。……ううん、なんかそれ、他人行儀だね」
「え?」
「ノエルでいいよ。君は僕より年下だけど、身内でしょ? 兄上が選んだ大切な家族だし」
その気さくさに、エナは思わず笑ってしまった。ノエルは、エナの毒舌に対するガードが全くない。
「じゃあ、わたしもエナでいいわ。年下の義弟って、初めてだけど、よろしくね」
「じゃあよろしく、エナ。仲良くしようね」
(なんか……思ったよりずっと気楽な人。この人となら、少しは毒を吐いても、許してくれそう)
午後、応接間で用意されたお茶の席。ノエルは、兄であるアシュレイと過ごした子供の頃の話をし始めた。
「兄上ってさ、本当に器が大きいというか、怒らない人だよね。怒るという感情を、どこかに置いてきたんじゃないかってくらい」
「……そうなの?」
エナは、アシュレイの余裕の正体を初めて聞く気がした。
「うん。子供の頃、僕が馬を暴れさせて柵を壊したときも、『次から気をつければいい。君が無事で何よりだ』って、たったそれだけで済ませたし。僕が領地の子供たちを巻き込んでいたずらしたときも、僕だけを責めたりしなかった。『理由があるんだろう』って、必ず聞いてくれるんだ」
「……怒られたこと、ないの?」
「うん。兄上、あれで“叱るより包む”って感じなんだよね。何をしても、『理由があるんだろう』って聞いてくれる。……ちょっとずるいくらい、完璧な兄だよ」
エナは、そっと紅茶を口に含みながら、心の中でつぶやく。
(……わかる。わたしも、あの人に怒られたこと、ない。わたしがどんな毒を吐いても、彼は優しく微笑んで、それを『わがまま』として受け止めてくれる。逆に、怒られた方が、対等な存在として扱われた気がして楽だったかもってくらい……やさしく包まれる)
不意に、アシュレイが恋しく、会いたい気持ちが募ってきた。彼のあの大きな包容力は、単なる貴族の演技ではなく、彼の根幹を成す性質なのだと知ったからだ。
「それにしても、君って意外と……いや、なんというか」
ノエルは、エナをじっと見つめて、言葉を選んでいる。
「なによ。早く言いなさいよ!」
「気さくなんだね、エナ。そして、思ったよりずっと寂しがり屋だ」
「なによそれ、“もっととっつきにくい奥方様かと思った”とか言いたいわけ? 寂しがり屋なんて、人聞きの悪いことを言わないで!」
「あはは、言ってない言ってない。でも、ツンってしてるのに、ちょこちょこ優しいところがあるよね。領民の書類を熱心に見ていたって、グレンから聞いたよ。……兄上、そんな子を選んだなぁ。趣味が悪いのかと思ったけど、見る目あったんだ」
「……だれが“ツンデレ”よ! 趣味が悪いだなんて、失礼ね!」
軽口を交わすふたりの姿に、使用人たちもほっとした表情を見せていた。とくに護衛のティナなどは、見学に来てからずっとニヤニヤが止まらない。
「奥様、弟君と友達みたいなテンションですね! すてき! やっぱり奥様は一人より賑やかな方が可愛い!」
「う、うるさいわね! 年上なんだから、こっちが敬ってあげてるのよ! 友達じゃないわ!」
「はいはい~」
エナの赤くなった頬を、ノエルは嬉しそうに見ながら、ぽつりとつぶやいた。
「……兄上、いい人と結婚したな」
「なっ……」
「僕、心配してたんだ。貴族の結婚って政治ばっかりで、愛情なんて薄いものだって。都じゃ、それが普通だからね。でも、君を見てると……兄上が、政略じゃなく、本気で自分の隣に置きたい人と巡り会えたんだなって、すごく納得できる」
「…………」
照れくさいのと、素直に喜べない自分とで、エナは黙ってカップを見つめた。アシュレイのあの穏やかな微笑みが、心の中で鮮明に蘇る。でも、心のどこかがふわっと温かくなった気がした。ノエルは、彼女を「家族」として受け入れ、アシュレイの深い愛情を教えてくれた。
その日の夜、エナは自室の窓辺に座って、ひとり月を見ていた。ノエルと話したあと、ふと気が抜けて――なんだか泣きたくなった。それは、野盗制圧に向かった夫への不安と、彼への想いが本物だと気づいてしまった切なさが混ざった感情だった。
(……アシュレイ、早く帰ってきてよ。もう、わたしを心配させるのもいい加減にして)
寂しい、だけじゃない。もっと話したいことがある。今日、ノエルから聞いた、あなたの子供の頃の話を聞きたい。そして、あなたがいない間、わたしがどれだけ立派に政務を代行したか、自慢したい。
窓の外に目をやる。西部の空は澄んでおり、星が、ちらちらと瞬いている。そのどこかに――野盗を制圧し、この領地を守っている、あの人がいる。そう信じて、エナはそっと瞳を閉じた。そして心の中で、小さな誓いを立てた。
(待ってるわ、アシュレイ。もう二度と、あなたに『小鳥』なんて言わせないわ。わたしは、あなたの隣に立つ、対等な奥様になるんだから)
彼女の唇の端に、かすかな微笑みが浮かんだ。彼の帰りを待つ時間も、彼女にとっては大切な「戦い」の準備期間となっていた。




