06.奥様奮闘記
アシュレイが野盗の拠点制圧に向けて出発してから、二日が経った。屋敷は静かで整然としている――いつも通りのはずなのに、なぜかエナの心の奥は、ずっとそわそわしていた。エナは朝から椅子に座っては立ち、紅茶を飲もうとしては冷まして残し、リリーに「奥様、落ち着いてください。旦那様は絶対に無事に戻られます」と三回も言われていた。
(だって、あの人……戦ってるのよ? 怪我とか、してないでしょうね……)
自分でも驚くほど、心が落ち着かない。政略結婚で、顔も知らずに嫁いできた夫だ。本来なら、無関心でいるべきなのに。彼の、自分を「大切な宝物」として守ろうとする真摯な姿が、エナの心に楔を打ち込んでしまっていた。ぽっかり空いたような気分に、じっとしていられなかった。
「リリー、わたしを小鳥扱いするなんて、許せないわ。この隙に、完璧な奥方になって、彼を後悔させてやるんだから!」
「それは素晴らしい志ですが、その志で、なぜ朝から二度も同じ廊下で迷子になりかけたのですか?」
「……それは、屋敷の構造が悪いのよ!」
動揺を隠すように毒づいたエナは、お昼前、勢いよく執務室の扉を開け放った。
「……というわけで、何か手伝わせなさい! 奥方らしい役目を!」
部屋の奥、デスクで静かに書類を整理していたグレン・アルヴァインが、眼鏡越しに目を細める。彼は、アシュレイの不在を完璧に埋めるべく、無駄のない動きで政務を処理していた。
「手伝うとは、政務のことですか? 旦那様からは、奥様に平穏な生活を、と」
「平穏な生活なんて、そんなお人形みたいな役割、わたしには向いてないわ! 他に何があるのよ! 刺繍? 読書? お茶? そんなことしてる場合じゃないでしょ! わたしはあなたの子守じゃないわ!」
グレンは、静かに文書の束を脇に置いた。そして、ほんの少しだけ唇の端を上げた。それは、エナの毒舌に対する皮肉ではなく、彼女の強い意志への評価を込めた笑みだった。
「承知しました。奥様をお利口な子として、ただ座らせておくのは、確かに難しいようですね。では、辺境伯夫人にふさわしい範囲で――領民の生活に直結する、一部の軽めの案件をお任せしましょう」
「えっ……いいの?」
エナは拍子抜けした。てっきり、執拗に拒否されると思っていたのだ。
「何かを『したい』という、奥様の純粋な、そして強いお気持ち。それを無下にはできませんから。それに、旦那様が戻られたとき、奥様が何もせずにただ待っていたことを知れば、旦那様はきっと寂しく思われるでしょう」
(……え、なにそれ、ちょっと優しい。そして、なんかアシュレイが言いそうなことまで先回りしてくるなんて……)
と、内心でぐらっと来るが、それを顔に出すようなエナではない。
「べ、べつに『どうしてもやりたい!』ってわけじゃないけど……やるならやるわよ、ちゃんと。間違った判断で、領民に迷惑をかけるつもりはないわ」
「はい、存じております。奥様の責任感の強さは、旦那様もよく理解されております」
どこか余裕のある笑みに、再びぐらつきながらも、彼女はまっすぐデスクへ向かった。
エナが任されたのは、村からの物資支給申請書の確認だった。今年の春は、西部の山間部で、作物の発育が悪く、干し肉や保存用の小麦粉の支援を求めてきた村が数件あるという。申請書はすべて手書きで、切実な状況が滲み出ていた。
「ふむふむ……『この村は山あいにあり、春の雪解けが遅れたため~』って、あ、文字が読みやすいわ。丁寧に書かれている」
書類の文字をなぞりながら、真剣に目を通すエナ。その横で、グレンが静かに説明を添える。
「物資の支援は、この地の命の綱に関わるため、慎重な判断が求められます。支援が必要な村には早急に、そうでない場合は、備蓄のバランスを優先して、今後の不作に備えねばなりません」
「わかってるわよ。命に関わることくらい。……って、そっちは麦の在庫数の帳簿? 貸して」
エナは、フィリグリー家で父が商売の書類を扱うのを、遠巻きに見ていた知識を総動員させた。ページをめくる指先は、多少ぎこちない。けれど、眉間に寄せた皺は本気の証拠だった。彼女は、すぐに帳簿の数字と申請書の要求額を照らし合わせる作業に入った。そこへ、エナの護衛として待機していたセリアとティナが、様子見とばかりにひょっこり顔をのぞかせた。
「……あら、奥様、真面目にやってるわ。てっきり、三十分で音を上げてお茶を飲んでるかと」
「ていうか奥様、眉間にしわ寄せた顔もカワイイ~~! なんか、頑張りすぎて焦ってる小鳥みたいで!」
「うるさいわよ、集中してるんだから! わたしは可愛い小鳥なんかじゃない!」
ツン、とそっぽを向くエナに、二人は顔を見合わせてくすくす笑った。この数日の間に、エナと護衛たちの間には、皮肉とからかいを交えながらも、確かな信頼関係が芽生え始めていた。
昼過ぎ。申請書を一通り確認し終えたエナは、備蓄庫に行って現物を確認すると言い出した。
「書類だけで判断するなんて、ありえないわ。数字なんて、いくらでも誤魔化せるもの。実際に目で見て、量が不足していないか、品質が落ちていないか確認すべきよ」
書類だけで判断するよりも、実際に目で見るべきだと――それは、父の商売人としての哲学に近かった。
「いい心がけです。さすがは、フィリグリー伯爵令嬢。では、セリアとティナに護衛を命じます」
グレンが頷く横で、セリアとティナがまたしてもひそひそと話す。
「ねぇセリア姐さん、なんか奥様、変わってきてない?」
「うむ。最初は『雪の妖精』というより『冬のとげとげ針鼠』だったが、針が一本ずつ抜けて、好奇心旺盛な子猫になってきたな」
「うわ、それは言いすぎ」
「……でも、確かに、辺境伯様のおっしゃる通り、芯が強い」
本人には聞こえないような位置で、二人は素直に頷き合っていた。それが、エナにとって何よりの「信頼」の兆しだと、当の本人だけが気付かないままで。エナは、ただ純粋に、任された役目を果たそうと夢中になっていた。
夕刻備蓄庫の確認から戻ったエナは小さな帳面にメモを取りながら、グレンに報告していた。
「……で、この村の備蓄は麦よりも塩のほうが致命的に足りてない。だから、塩を優先して、麦は別の村に回すべきよ。麦は、他の集落からの支援も見込めるけど、塩は無理でしょう」
「的確な判断です。塩は、この地の健康を維持する上でも重要です。すぐにその通りに手配いたします。奥様の判断に感謝します」
静かに評価するグレンに、エナは少しだけ頬を染めた。自分の判断が、人の命に関わることを知って、緊張と責任感で体が熱くなっていた。
「べ、別に……自分が褒められたいとかじゃないの。ただ……」
ふと、瞳を伏せて言葉を続ける。その声は、小さく、そして素直な本音だった。
「戻ってきたときに、『よくやってたね、お利口だ』って……あの人に、言われたいの」
ぽつりと、落ちた本音。グレンはその言葉に、何も言わず、ただ恭しく一礼を返した。彼の眼鏡の奥の目は、奥方の複雑な心情を理解しているようだった。
夜。エナはリリーの淹れた食後の紅茶を飲みながら、椅子に身を預けていた。一日中動き回った疲れはあったが、それ以上に、何かを「やりきった」感覚と、誰かの役に立てたという充足感があった。そこへティナが笑顔でやってきて言った。
「奥様、今日の姿、カッコよかったです! 政務姿も素敵!」
「……え、そう? 別に、かっこつけたつもりはないけど」
「はい! もう、ツンとしながらも全部真剣で、私、思わずノート取ろうかと思いました! 辺境伯夫人、格好良い!」
「褒めてるのか馬鹿にしてるのかわかりにくいわ」
そこへ、セリアも紅茶を手にして近づいてくる。
「明日も政務をなさるのか?」
「どうかしらね。気分次第よ。……でも」
ふ、と小さく微笑む。それは、いつもの毒のある笑顔ではなく、心から満足している者の表情だった。
「……わたし、案外こういうの、嫌いじゃないかも。誰かに必要とされる役目があるって、いいことだわ」
その言葉に、四人の心が少しだけ、柔らかくなる。明日も、彼はまだ帰らないかもしれない。それでも、エナは今日――“自分にできること”を見つけ、“辺境伯夫人”としての居場所を、自らの力で見つけた気がしていた。




