05.昼下がりの緊急事態
それは、結婚してから五日目の、穏やかな昼下がりだった。エナは温室でリリーとお茶を楽しみながら、今日はどこを歩いて迷ってやろうかと考えていた。彼女は昨日、アシュレイが自分を「小鳥」扱いしたことに、一矢報いるための計画を練っていたのだ。
「リリー、あの屋敷の構造は、迷路というより罠よ。でも、次は台所までの完璧な地図を作って、アシュレイを驚かせてやるわ」
「奥様、地図を作るより、旦那様の手を借りるほうが早いのでは?」
「うるさいわね。彼に頼んだら、また『可愛い子』に教えるように、ゆったりと歩調を合わせるだけで、わたしが自力で成し遂げたことにならないでしょう」
そんな毒舌交じりのやり取りが交わされているときだった。
温室の重たい扉が勢いよく開かれ、西部の強い風がざっと吹き込んだ。入ってきたのは、顔に煤をつけた若い兵だった。彼の息は荒く、額には汗が滲んでいる。
「辺境伯様、失礼します! 偵察隊より緊急報告! 北方森の奥に野盗の拠点を発見いたしました!」
ぴたりと空気が凍る。野盗。それは、都の貴族の社交辞令からは最も遠い、辺境の現実だった。エナは、手に持っていたティーカップを危うく落としそうになった。
アシュレイは温室に隣接した執務室にいたが、その報告を聞くと、静かに立ち上がり、書類の束を脇に置いた。いつもの柔和な笑顔は消え、表情筋一つ動かない、氷のような顔つきになっていた。
「……確認済みか」
「はい。高台から望遠鏡での確認にて、小屋の数、人数、武装まで、間違いありません。森を下りれば、すぐに領民の主要な交易路に影響が出ます」
「わかった。準備に入れ。第一、第二中隊を招集。装備は重装ではなく、迅速制圧を優先する」
返事を終えるより早く、彼は屋敷の奥へと歩き出した。その動きは迷いがなく、すべてが流れるように早い。
「ア、アシュレイ!? ど、どういうことなの!? どこへ行くのよ!」
エナも慌てて追いかける。リリーは先に、恐怖で固まって動けなくなっていた。彼は、すでに黒い戦装束に着替えるよう侍従に命じており、屋敷全体に緊張が走り、使用人たちが音もなく動き始めていた。
「領内北方に、野盗の拠点だ。通行人や村の安全を脅かす存在だ。辺境伯の役割は、領地を荒々しい外敵から守ること。早急に制圧せねばならない」
「……そ、そんな。危ないこと、するの? あなたが?」
「必要があればね。私は『辺境伯』だ、エナ。君が思っているような、優雅にお茶を飲むだけの貴族ではない。守るべきものがある」
落ち着いた声。だがその背は、いつもよりずっと鋭く、強かった。まるで、戦場の剣。エナが知っていた「アシュレイ」は、半分しか存在していなかったのだ。
(こんな姿、知らなかった……この人、こんな顔するんだ。わたしを子猫扱いする、余裕たっぷりの笑顔が、こんなにも冷徹な指揮官の顔に変わるなんて)
「わたし……わたしはどうすればいいの?」
弱々しい声が出てしまう。エナの指先が、きゅっとスカートを握る。その不安な姿は、まさにアシュレイが表現した「小鳥」そのものだった。
エナの動揺に気付いたアシュレイは、戦装束に着替える部屋の前で、ふと足を止めた。エナに近づくと、優しく、けれど迷いなく言った。
「君は、心配しなくてもいい」
その口調は、戦場に出る男の覚悟というよりも、家に残す小さな娘を安心させるようなトーンだった。
「エナの護衛には、信頼できる者たちをつける。君の安全は、この屋敷の中で最も優先されるべき事項だ。君は、私が命をかけて守るべき、この領地の宝物なのだから」
「そんな言い方……!」
エナが反論しようとした直後、屋敷前に二人の女性と一人の男性が現れた。彼らはすでに、アシュレイからの命令を受けて待機していたのだろう。一人は身長180cm近い、鋭い双眸の女騎士――セリア・ブランドル。黒髪を後ろで一つに結い、銀の胸当てに深紅の外套を纏っている。
「辺境伯夫人、セリア・ブランドル、参上いたしました。ご安心ください。野盗など、奥様の爪先にも触れさせません。私の剣が、盾となります」
(なんかすごく強そう……! というか貫禄がすごい。わたしより背が高いわ!)
もう一人は明るい茶髪の快活な少女――ティナ・コーウェル。細身の剣と軽装で、明るい笑顔が印象的だった。
「こんにちは奥様! 初めまして! ティナです! 『何かあったら絶対刺す』をモットーにしてますので安心してください! 辺境伯様から、奥様のふわふわの髪一本でも傷つけたら承知しない、と厳命を受けています!」
「……そのモットー、どうなのよ。刺さないで済ませてほしいんだけど」
そして背後から静かに歩み寄ってきたのは、鋭い眼鏡と品のある立ち姿の男――グレン・アルヴァイン執事長。彼は、アシュレイが最も信頼する片腕だ。
「ご心配には及びません、奥様。旦那様の不在中は、私が全ての政務を代行いたします。報告書、裁可が必要な書類、すべて滞りなく処理されます。奥様はどうか、安心して日々をお過ごしください。旦那様のおっしゃる通り、静かに帰りを待つのが、奥方様の最も大切な役割です」
「……なんか、この人たちに囲まれてたら、無敵な気がしてきたわ」
エナは安堵した。しかし、同時にアシュレイの周到さに腹も立った。自分の役割をすべて奪われ、「待つこと」だけを求められている。
だが、その心の奥では――(アシュレイ……大丈夫?)と、小さな不安が膨らんでいた。彼の冷徹な指揮官としての顔を見た後では、いつもの毒舌で取り繕うこともできなかった。
装備を整えたアシュレイが、屋敷前の黒い軍馬にまたがる瞬間が来た。黒の軍装にマントを翻し、剣を腰に携えたその姿は、いつもの穏やかな“夫”とは異なり、まさしく“指揮官”であり、戦場の騎士だった。
「アシュレイ……」
呼び止めるように、エナが声を発する。その声は、震えていた。彼は馬上からエナを見下ろし、ふと、戦場に向かう前とは思えないほど穏やかに微笑んだ。
「……怖がらないでいい。君は、私の護衛たちに可愛がられていればいい。すぐ戻るよ。この辺境の治安を乱すような小悪党など、すぐに片付けてくる」
そして、馬を降りると――。ふいに彼は、エナの前髪に触れた。白銀の髪をそっと撫で、額に触れる。それは、騎士が主君の加護を誓うような、あるいは父が子を慈しむような、優しく、深い敬愛に満ちた仕草だった。エナは、その予想外の行動に、顔が熱くなり、何も言えなかった。
「待ってて。お利口にね、エナ」
ひと言、それだけを言って、彼は馬に戻った。部下たちが続々と後に続き、列を成して屋敷を離れていく。彼らの背中には、西部の強い日差しが、まばゆい光となって降り注いでいた。その背中が、ゆっくりと小さくなっていくのを、エナはただ黙って見つめていた。
「……リリー」
「はい、奥様」
「戦場って……怖いものなのね」
「そうですね。でも旦那様は、約束は必ず守りますよ。きっと、あっさりした顔で戻ってきて、また奥様を小鳥のように可愛がってくださいます」
「……そうだといいわ」
強く握りしめた手を、そっと解く。その掌には、アシュレイが触れた額の温もりが、まだ残っているような気がした。
不安の中に、小さな期待と――そしてほんの少しの、「信頼」が芽生えていた。
(ちゃんと、帰ってきて。……わたしが、あなたのお利口な奥方でいられるように)
その心の声は、冷たい風の中、彼の背中へ届いただろうか。エナの新しい戦いは、彼の帰りを待つ、この屋敷の中で始まった。




