04.意義のある探検のつもりだったのに
春の陽が高く昇った午前、エナは珍しく、朝から気合いに満ちていた。結婚してから四日目。いくらアシュレイが「慣れるまでゆっくりでいい」と言っても、このままでは本当にお飾りの可愛い小鳥として扱われてしまう。
「今日こそ、何かするわ。奥方らしく……役目らしいことを!」
鏡の前で自分に言い聞かせるように宣言した彼女を、侍女のリリーがぱちくりと瞬きしながら見ていた。エナの白銀の髪は、朝の光を浴びてキラキラと輝いている。
「……お嬢様、もとい奥様、本当に何かしたいんですか? 昨日の面会で、旦那様には『疲れただろうから今日はゆっくり』って言われてましたよ」
「当たり前でしょ。毎日優雅にお茶を飲むだけの“可愛い奥方様”だなんて、そんな生き物らしくない生き方、わたしの美学に反するわ! わたしは毒舌を吐き、自ら行動する、誇り高き伯爵令嬢よ」
「生き物らしく、とは……? さっきから奥様が言ってるのは、ただの『落ち着きのない小鳥の習性』ですよ」
「あなたまでアシュレイの言葉を真似しないで! いいから、歩くのよ、リリー。目的もなく、意義のある探検を! まずは台所と使用人たちの動線を把握するわ」
「語彙が矛盾してるんですけど。まぁ、奥様の気晴らしになるなら」
リリーが口を開くより早く、エナはスカートの裾を翻して廊下へと歩き出した。気合いは十分、足取りは軽やか。今日は屋敷の“内情”を把握し、使用人の動線、庭の手入れ具合、そして台所の様子までも把握してやろうという野望に燃えていた。その顔は、まるで初めて獲物を見つけた狩人のようだった。
だが現実は非情だった。このウエストヴェイル辺境伯家の屋敷は、王都の伯爵邸とは比べ物にならないほど広大で、複雑な構造をしていた。
「……あれ?」
軽やかだった足取りは、ものの三十分で鈍っていた。長い廊下を歩き続けた末に、視界には見覚えのない大きな観葉植物。西部の乾いた気候では珍しい、艶のある葉を持つそれだ。そして、微妙に傾いた柱の彫刻。
(え、ここどこ? ……あれ、さっき見た廊下と違う!? 曲がったのは三回だけのはずなのに!)
「リリー? ……リリー、どこに行ったの?」
後ろを振り向いても、彼女の姿はどこにもなかった。先ほどまで、エナの探検の様子を面白そうに見ていたはずなのに。――はぐれた。
(いやいや落ち着いて。少し歩けばまた見慣れた廊下に出るはず。台所は確か、東棟の……あれ、東ってどっちだっけ?)
そう思って歩き出したものの、屋敷の広さは想像以上だった。何度か曲がっただけのつもりが、同じような絨毯と壁紙の中で完全に方角を見失っていた。窓の外の景色も、建物の影と壁で遮られ、全く参考にならない。
おまけに、出会うはずの使用人すらなかなか通らない。彼らの動線が緻密に設計されているため、奥方が「散歩」するような場所には誰もいないのだ。まるでタイミングの悪さまで味方しているようだった。
(ちょっと、まさかこんなに大きいなんて。誰? この構造考えたのよ。機能性より美観を重視しすぎじゃない!? ……うう、もう、毒舌すら出る余裕がないわ……)
焦燥感がエナの心に広がる。このままでは、またアシュレイに「やっぱり君はまだこの屋敷の小鳥だね」と微笑まれてしまう。それが何より嫌だった。
毒舌すら出る余裕がなくなってきた頃、彼女はある扉の前に辿り着いた。少し開かれたその隙間からは、微かに紙の擦れる音と、暖かく、心地よい木の香りが聞こえる。
(……書庫? こんな奥に? 台所じゃなかったのね……)
恐る恐る扉をさらに開けると、そこは天井の高い書庫だった。壁一面にぎっしりと本が詰まれ、木の香りと紙の匂いが心地よく漂う空間。書庫というよりも、アシュレイの私的な執務室も兼ねているようだった。そしてその中央付近に、背を向けて大きな机に座る――彼の姿があった。
アシュレイ・ウエストヴェイル。
黒の上着に細身のシルエット、引き締まった背筋。朝の柔らかな光が彼の横顔を照らし、手元の書類に集中している。指先で書類をめくる動作すら、どこか優雅に見える。その姿は、辺境の荒々しさとは無縁の、理知的な静けさを纏っていた。
(……なにあれ、朝から顔が良いとか反則でしょ。しかも静かな空間で、誰にも邪魔されずに仕事とか、似合いすぎて腹立つ)
内心で毒づいているうちに、アシュレイが手を止めた。彼の背筋は、背後に人が立っていることを察知したのだろう。
「……エナ?」
その低く静かな声に、彼女はびくりとした。仕事の邪魔をしてしまったという罪悪感と、見つかった恥ずかしさで、頬が熱くなる。
「あっ……ええと……これは……その」
妙に挙動不審な彼女を見て、アシュレイは椅子に座ったまま、小さく目を細めて微笑んだ。
「迷ったのかい? リリー嬢と一緒ではなかったようだね」
「べ、べつに……ちょっと、軽く散歩してただけよ? ここが行き止まりだったから、戻ろうとしてたところ!」
「散歩でこの階の奥の書庫まで来るとは、なかなかの健脚だ。それとも、私の執務の様子をこっそり見学しに来てくれたのかな」
「いちいち嫌味っぽく言わないでよ! あなたの仕事になんて興味ないわ!」
と言いつつも、心の中は真逆だった。
(……なんで、困ってるのに、あなたに会えてちょっと安心しちゃうのよ……。全く、わたしの精神構造はどうなってるの!)
彼女の視線がまだ彷徨っているのを見て、アシュレイは立ち上がった。その動作は流れるようにスムーズで、一点の無駄もない。
「案内しよう。君の健脚ぶりを活かして、もう一度、ゆっくり屋敷をまわってみようか。これで迷うことはなくなるだろう」
「えっ……い、いいわよ、わたし一人で――」
「……そう言って、また迷って、お昼になっても見つからないという事態は避けたいね。君は好奇心旺盛な子だから、目を離すとどこかへ行ってしまう」
ぐうの音も出なかった。「好奇心旺盛な子」という言葉が、完全に彼女を子供扱いしている。だが、彼と一緒にいると、本当に自分がそうであるかのように感じてしまうのが悔しい。
書庫を出たエナとアシュレイは、ゆっくりと廊下を歩いていく。リリーを探すように屋敷を巡りながら、彼は淡々と、そして丁寧に説明してくれた。
「この階段を上がれば、主に使用人の詰所と、非常時の備蓄庫がある。こっちは貯蔵庫と台所の導線だ。あの大きな西部の岩絵の複製画が目印だ」
「なるほど……っていうか、それなら最初から案内に看板でも立てておけばいいのに。こんなに広いんだから」
「それでは気品ある屋敷の見栄えが悪いだろう。ここは都の伯爵邸ではないが、辺境伯としての威厳も必要だ。それに、看板などなくても、君ならすぐに覚えられると信じているよ。君は頭が良いからね」
「機能性より美観なのね、この家……。変なところでこだわりが強いのね、あなた」
と毒を吐きながらも、どこか安心している自分がいた。彼の言葉は、一見するとエナを褒めているようで、実は「君の能力ならこんな簡単なことはすぐにできるはずだ」という、一種の子供への期待を込めた言葉だった。
静かで整った声。エナの短い歩幅に合わせてくれる歩き方。彼と並んで歩いているだけで、不思議と「知らない場所」が「自分の居場所」に変わっていくような感覚。エナの緊張が、ゆっくりと溶けていく。
(やめて、そんなに丁寧にされると……わたしが、あなたに甘えてるみたいに勘違いしそうじゃない。それに、あなたの優しさの理由を探してしまうわ……)
「ここは中庭。午前中は陽がよく入る。読書や休憩には向いていると思うよ。西部の砂塵から守るため、壁は高いけどね」
「……ふうん。あなたも読書するのね。辺境伯って、もっと武骨な人かと思ってた」
「私は領地の管理が主だからね。君はしないのかい?」
「するけど、推理ものばっかり。甘い恋愛小説なんて、見てるこっちがむず痒くなるわ。ありえない展開ばかりで、見ていられない」
エナは顔をそむけて言った。
「そうか……では、私と君の話も、そういうむず痒い恋愛小説にはならないかな。もっと、謎解きや、駆け引きが必要な物語になるかもしれない」
「……何言ってんの」
急に心臓が跳ねた。彼の視線が、エナの横顔から逸れない。
(不意打ちすぎる……! 警戒心を解かせておいて、急にこんなこと言うなんて、やっぱりこの人、ずるい)
エナが言葉に詰まったまま黙っていると、ちょうど廊下の角から――。
「あっ、奥様っ! 探しましたよ~~!」
リリーが飛び出してきた。息を切らしながら、エナに駆け寄ってくる。
「ご無事で何よりです~~! 急にいなくなって、台所から寝室、挙げ句の果てに屋根裏まで探しましたよ!?」
「屋根裏って……さすがにそっちには行かないわよ。わたしは鳥じゃないわ」
「いやぁ、奥様なら穴という穴に潜ってもおかしくないかと。旦那様とご一緒で、本当に良かったです」
「誰がモグラよ!」
がみがみ言い合うエナの隣で、アシュレイが穏やかに笑っていた。彼の静かな笑いは、エナとリリーの騒がしさを、すべて受け入れる広大な西部の大地のようだった。
「無事で何よりだ。リリー嬢、エナは迷子になってしまったようだから、君の役目を増やしてしまったね。では、残りの案内はまた別の日に」
「……ええ。できれば、次は屋敷の全体図をください。迷子なんて、もうごめんだわ」
エナはぶっきらぼうに言った。アシュレイは一瞬目を細めた後、さらに深く微笑んだ。
「それは、私とまた歩くための口実に聞こえるな」
「――っ、ちがっ……! そういう意味じゃないわ!」
赤面したエナがくるりと背を向けた。その背中を、アシュレイの落ち着いた、そして確信に満ちた声が追いかける。
「迷うのも悪くない。君が、ちゃんと『ここにいる』、つまり私のもとに戻ってくると思えるなら、いくらでも遠回りしてくれて構わないよ」
(そんなセリフ、さらっと言わないでよ、もう……! あなたの余裕に、わたしが負けてるみたいじゃない!)
心の中でそう叫びながらも、エナはほんの少し――迷子になった自分に、そして、自分を迷わせたこの広大な屋敷に、感謝していた。




