表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
政略結婚なのに、包容力マシマシな辺境伯の溺愛が過保護過ぎて小鳥令嬢は困ってます!  作者: 宮野夏樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/16

04.意義のある探検のつもりだったのに


 春の陽が高く昇った午前、エナは珍しく、朝から気合いに満ちていた。結婚してから四日目。いくらアシュレイが「慣れるまでゆっくりでいい」と言っても、このままでは本当にお飾りの可愛い小鳥として扱われてしまう。


「今日こそ、何かするわ。奥方らしく……役目らしいことを!」


 鏡の前で自分に言い聞かせるように宣言した彼女を、侍女のリリーがぱちくりと瞬きしながら見ていた。エナの白銀の髪は、朝の光を浴びてキラキラと輝いている。


「……お嬢様、もとい奥様、本当に何かしたいんですか?  昨日の面会で、旦那様には『疲れただろうから今日はゆっくり』って言われてましたよ」

「当たり前でしょ。毎日優雅にお茶を飲むだけの“可愛い奥方様”だなんて、そんな生き物らしくない生き方、わたしの美学に反するわ!  わたしは毒舌を吐き、自ら行動する、誇り高き伯爵令嬢よ」

「生き物らしく、とは……?  さっきから奥様が言ってるのは、ただの『落ち着きのない小鳥の習性』ですよ」

「あなたまでアシュレイの言葉を真似しないで!  いいから、歩くのよ、リリー。目的もなく、意義のある探検を!  まずは台所と使用人たちの動線を把握するわ」

「語彙が矛盾してるんですけど。まぁ、奥様の気晴らしになるなら」


 リリーが口を開くより早く、エナはスカートの裾を翻して廊下へと歩き出した。気合いは十分、足取りは軽やか。今日は屋敷の“内情”を把握し、使用人の動線、庭の手入れ具合、そして台所の様子までも把握してやろうという野望に燃えていた。その顔は、まるで初めて獲物を見つけた狩人のようだった。


 だが現実は非情だった。このウエストヴェイル辺境伯家の屋敷は、王都の伯爵邸とは比べ物にならないほど広大で、複雑な構造をしていた。




「……あれ?」


 軽やかだった足取りは、ものの三十分で鈍っていた。長い廊下を歩き続けた末に、視界には見覚えのない大きな観葉植物。西部の乾いた気候では珍しい、艶のある葉を持つそれだ。そして、微妙に傾いた柱の彫刻。


(え、ここどこ?  ……あれ、さっき見た廊下と違う!?  曲がったのは三回だけのはずなのに!)


「リリー?  ……リリー、どこに行ったの?」


 後ろを振り向いても、彼女の姿はどこにもなかった。先ほどまで、エナの探検の様子を面白そうに見ていたはずなのに。――はぐれた。


(いやいや落ち着いて。少し歩けばまた見慣れた廊下に出るはず。台所は確か、東棟の……あれ、東ってどっちだっけ?)


 そう思って歩き出したものの、屋敷の広さは想像以上だった。何度か曲がっただけのつもりが、同じような絨毯と壁紙の中で完全に方角を見失っていた。窓の外の景色も、建物の影と壁で遮られ、全く参考にならない。


 おまけに、出会うはずの使用人すらなかなか通らない。彼らの動線が緻密に設計されているため、奥方が「散歩」するような場所には誰もいないのだ。まるでタイミングの悪さまで味方しているようだった。


(ちょっと、まさかこんなに大きいなんて。誰?  この構造考えたのよ。機能性より美観を重視しすぎじゃない!? ……うう、もう、毒舌すら出る余裕がないわ……)


 焦燥感がエナの心に広がる。このままでは、またアシュレイに「やっぱり君はまだこの屋敷の小鳥だね」と微笑まれてしまう。それが何より嫌だった。


 毒舌すら出る余裕がなくなってきた頃、彼女はある扉の前に辿り着いた。少し開かれたその隙間からは、微かに紙の擦れる音と、暖かく、心地よい木の香りが聞こえる。


(……書庫?  こんな奥に?  台所じゃなかったのね……)




 恐る恐る扉をさらに開けると、そこは天井の高い書庫だった。壁一面にぎっしりと本が詰まれ、木の香りと紙の匂いが心地よく漂う空間。書庫というよりも、アシュレイの私的な執務室も兼ねているようだった。そしてその中央付近に、背を向けて大きな机に座る――彼の姿があった。


 アシュレイ・ウエストヴェイル。


 黒の上着に細身のシルエット、引き締まった背筋。朝の柔らかな光が彼の横顔を照らし、手元の書類に集中している。指先で書類をめくる動作すら、どこか優雅に見える。その姿は、辺境の荒々しさとは無縁の、理知的な静けさを纏っていた。


(……なにあれ、朝から顔が良いとか反則でしょ。しかも静かな空間で、誰にも邪魔されずに仕事とか、似合いすぎて腹立つ)


 内心で毒づいているうちに、アシュレイが手を止めた。彼の背筋は、背後に人が立っていることを察知したのだろう。


「……エナ?」


 その低く静かな声に、彼女はびくりとした。仕事の邪魔をしてしまったという罪悪感と、見つかった恥ずかしさで、頬が熱くなる。


「あっ……ええと……これは……その」


 妙に挙動不審な彼女を見て、アシュレイは椅子に座ったまま、小さく目を細めて微笑んだ。


「迷ったのかい?  リリー嬢と一緒ではなかったようだね」

「べ、べつに……ちょっと、軽く散歩してただけよ?  ここが行き止まりだったから、戻ろうとしてたところ!」

「散歩でこの階の奥の書庫まで来るとは、なかなかの健脚だ。それとも、私の執務の様子をこっそり見学しに来てくれたのかな」

「いちいち嫌味っぽく言わないでよ!  あなたの仕事になんて興味ないわ!」


 と言いつつも、心の中は真逆だった。


(……なんで、困ってるのに、あなたに会えてちょっと安心しちゃうのよ……。全く、わたしの精神構造はどうなってるの!)


 彼女の視線がまだ彷徨っているのを見て、アシュレイは立ち上がった。その動作は流れるようにスムーズで、一点の無駄もない。


「案内しよう。君の健脚ぶりを活かして、もう一度、ゆっくり屋敷をまわってみようか。これで迷うことはなくなるだろう」

「えっ……い、いいわよ、わたし一人で――」

「……そう言って、また迷って、お昼になっても見つからないという事態は避けたいね。君は好奇心旺盛な子だから、目を離すとどこかへ行ってしまう」


 ぐうの音も出なかった。「好奇心旺盛な子」という言葉が、完全に彼女を子供扱いしている。だが、彼と一緒にいると、本当に自分がそうであるかのように感じてしまうのが悔しい。




 書庫を出たエナとアシュレイは、ゆっくりと廊下を歩いていく。リリーを探すように屋敷を巡りながら、彼は淡々と、そして丁寧に説明してくれた。


「この階段を上がれば、主に使用人の詰所と、非常時の備蓄庫がある。こっちは貯蔵庫と台所の導線だ。あの大きな西部の岩絵の複製画が目印だ」

「なるほど……っていうか、それなら最初から案内に看板でも立てておけばいいのに。こんなに広いんだから」

「それでは気品ある屋敷の見栄えが悪いだろう。ここは都の伯爵邸ではないが、辺境伯としての威厳も必要だ。それに、看板などなくても、君ならすぐに覚えられると信じているよ。君は頭が良いからね」

「機能性より美観なのね、この家……。変なところでこだわりが強いのね、あなた」


 と毒を吐きながらも、どこか安心している自分がいた。彼の言葉は、一見するとエナを褒めているようで、実は「君の能力ならこんな簡単なことはすぐにできるはずだ」という、一種の子供への期待を込めた言葉だった。


 静かで整った声。エナの短い歩幅に合わせてくれる歩き方。彼と並んで歩いているだけで、不思議と「知らない場所」が「自分の居場所」に変わっていくような感覚。エナの緊張が、ゆっくりと溶けていく。


(やめて、そんなに丁寧にされると……わたしが、あなたに甘えてるみたいに勘違いしそうじゃない。それに、あなたの優しさの理由を探してしまうわ……)


「ここは中庭。午前中は陽がよく入る。読書や休憩には向いていると思うよ。西部の砂塵から守るため、壁は高いけどね」

「……ふうん。あなたも読書するのね。辺境伯って、もっと武骨な人かと思ってた」

「私は領地の管理が主だからね。君はしないのかい?」

「するけど、推理ものばっかり。甘い恋愛小説なんて、見てるこっちがむず痒くなるわ。ありえない展開ばかりで、見ていられない」


 エナは顔をそむけて言った。


「そうか……では、私と君の話も、そういうむず痒い恋愛小説にはならないかな。もっと、謎解きや、駆け引きが必要な物語になるかもしれない」

「……何言ってんの」


 急に心臓が跳ねた。彼の視線が、エナの横顔から逸れない。


(不意打ちすぎる……!  警戒心を解かせておいて、急にこんなこと言うなんて、やっぱりこの人、ずるい)




 エナが言葉に詰まったまま黙っていると、ちょうど廊下の角から――。


「あっ、奥様っ!  探しましたよ~~!」


 リリーが飛び出してきた。息を切らしながら、エナに駆け寄ってくる。


「ご無事で何よりです~~!  急にいなくなって、台所から寝室、挙げ句の果てに屋根裏まで探しましたよ!?」

「屋根裏って……さすがにそっちには行かないわよ。わたしは鳥じゃないわ」

「いやぁ、奥様なら穴という穴に潜ってもおかしくないかと。旦那様とご一緒で、本当に良かったです」

「誰がモグラよ!」


 がみがみ言い合うエナの隣で、アシュレイが穏やかに笑っていた。彼の静かな笑いは、エナとリリーの騒がしさを、すべて受け入れる広大な西部の大地のようだった。


「無事で何よりだ。リリー嬢、エナは迷子になってしまったようだから、君の役目を増やしてしまったね。では、残りの案内はまた別の日に」

「……ええ。できれば、次は屋敷の全体図をください。迷子なんて、もうごめんだわ」


 エナはぶっきらぼうに言った。アシュレイは一瞬目を細めた後、さらに深く微笑んだ。


「それは、私とまた歩くための口実に聞こえるな」

「――っ、ちがっ……!  そういう意味じゃないわ!」


 赤面したエナがくるりと背を向けた。その背中を、アシュレイの落ち着いた、そして確信に満ちた声が追いかける。


「迷うのも悪くない。君が、ちゃんと『ここにいる』、つまり私のもとに戻ってくると思えるなら、いくらでも遠回りしてくれて構わないよ」


(そんなセリフ、さらっと言わないでよ、もう……!  あなたの余裕に、わたしが負けてるみたいじゃない!)


 心の中でそう叫びながらも、エナはほんの少し――迷子になった自分に、そして、自分を迷わせたこの広大な屋敷に、感謝していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ