03.プチパニック?!
それは、結婚してから三日目の朝。エナがようやく、リリーの助けを借りて、自分の寝室からダイニングホールまでの道のりを覚えたばかりの日のことだった。
「……え、ちょっと待って? わたしが領民の代表者と面会?」
声が裏返るほどの驚きだった。エナは、朝食後にさりげなく渡された書状の内容を見て、目を丸くしていた。書状は、アシュレイの流麗な筆跡で書かれており、今日の午後の予定が記されていた。
屋敷の小広間に、今日の午後、領民代表数名が来訪するという。目的は、新たな“辺境伯夫人”に対しての挨拶と、今後の交流の第一歩。つまり、軽い顔合わせ……のはずだった。
「どうしても今日じゃなきゃダメなの!?」
エナはリリーに詰め寄った。
「はい。彼らは山間部や西の荒野に近い集落から来るため、天候や道の都合で事前に日程をずらすのが難しいようで。それに、奥様が到着されてすぐに挨拶をしたい、という領民の熱い要望もあったとか」
リリーが申し訳なさそうに、そしてどこか楽しそうに言う。
エナは額を押さえて頭を振った。
「ま、まだこの家に慣れてすらいないのよ!? 庭で道に迷いかけたばっかりよ!? なのにいきなり『こんにちは奥様、私たちの困りごとを聞いてください』なんて言われて、どう反応すればいいの!?」
「まあまあ、奥様。大丈夫ですよ。笑顔で『皆さんの健康と平和を心より願っております』って言えば、たいてい丸く収まります。あとは、旦那様が横で全部サポートしてくれますから」
「それができたら苦労してないのよっ!! “奥方らしい挨拶”なんて、わたし、一度も練習したことがないの!」
(第一、わたし人前で“可愛い奥様”ぶるとか無理……! 絶対無理!)
ふわふわ小動物系の見た目に反して、内面はツンデレ毒舌。王都では“可愛らしくて品のあるご令嬢”と評されていたが、それは徹底した演技と立ち居振る舞いの訓練の賜物だった。この西部の素朴で実直な領民相手に、その「演技」が通用するのか、エナは不安で仕方なかった。
(……けど、今さら嫌って言っても始まらないし。ここで逃げたら、あの旦那様に、それこそ永遠に『可愛いわがままなお嬢様』扱いされ続けるわ)
エナは両頬を軽く叩いた。
「ふん、見てなさい。フィリグリー家の名にかけて、完璧な辺境伯夫人を演じてみせるんだから……! 毒舌なんて、今日は絶対に封印してやる!」
――結果から言おう。見事にプチパニックを起こすこととなる。
午後。小広間には、領内を代表する村長や商会代表、薬草師、鉱夫代表など、年配の男女五名が到着していた。皆、辺境伯の屋敷には何度か足を運んだことがある者ばかりだが、「奥方」に会うのは初めてだ。
「初々しい方だと聞いとりますがな。都の伯爵家のご息女とか」
「それは楽しみじゃのう。旦那様も、やっと落ち着けるじゃろ」
「奥方が来てくださると、屋敷の雰囲気も明るくなりますな」
温かく笑う彼らに、アシュレイが落ち着いた声で応対する。
「ようこそいらっしゃいました。本日は私の妻、エナ・ウエストヴェイルと初めてお顔を合わせていただくこととなります。少々、緊張しているようですが」
彼はそう前置きすると、領民たち一人ひとりと視線を合わせた。
「エナはまだこちらに来て三日目、慣れぬことも多く、何かと至らぬ点があるかと思います。都の生活とは勝手が違いますからね。彼女は、まだ新しい遊び場に連れてこられた小鳥のようなものです。どうか、寛大な心で見守っていただけると幸いです」
穏やかながら、はっきりとした言葉。領民たちは、辺境伯の妻という存在に過剰な期待を抱かないよう促された形だ。だがその一方で、彼の言葉は、エナへの愛情と「守るべき大切な存在」だというメッセージを強く伝えていた。エナが失敗しても、辺境伯がすべて受け止める、と。エナは、扉の向こうでその声を聞いていた。
(……なによ、それ。小鳥? 小鳥ですって!? わたしを子供扱いするにも程があるわ! けど、『寛大な心で見守って』なんて言われたら、毒を吐くわけにはいかないじゃない……!)
アシュレイの「過保護な防御策」は、エナの毒舌の牙を完全に抜いてしまっていた。
(アシュレイ・ウエストヴェイル……あなたって人は、本当に……!)
深呼吸をひとつ。ここで引き下がるのはシャクだ。完璧な奥方を演じて、彼に「心配無用だ」と思わせてやる。そして扉が開く。
エナは、これでもかというほど緊張しながら入室した。今日は春色の薄桃のドレスに、西部の石造りの屋敷に映えるよう淡い金糸の刺繍が施されたシンプルな装い。しかし、ふわふわとした白銀の髪と相まって、まるで雪の妖精のように見える。その場にいた誰もが、思わず息をのんだ。
――可愛い。あまりにも可愛い。そして、この荒涼とした西部には、あまりに不釣り合いな可憐さだ。けれど、当の本人は。
(やばい、足が震えてる。これ絶対、膝から音鳴ってる……。笑顔、笑顔……)
「え、えと……みなさん、こんにちは」
笑顔のつもりで引きつった顔になっていた。エナは椅子に座るまでの間に、5回深呼吸して、3回リリーの顔を探し、2回アシュレイに助けを求める視線を送った。
(なのに助けてくれないの!? あの旦那様、さっき“小鳥”とか言ってたくせに、肝心なときには放置!?)
アシュレイはただ静かに微笑み、エナが自力で座るのを待っていた。場の空気が一瞬、固まる――と思いきや。
「まあまあ、こりゃまた雪の妖精さんじゃ! 辺境伯様、こんな可愛らしい奥方をよくお連れくださいました」
「お若いのに、よう来てくださいましたな。辺境は色々大変じゃろうに」
「あんまり緊張なさらんでええですよ。旦那様の昔の若造時代に比べれば、百倍しっかりしとる!」
「そこまで言うか」
アシュレイが苦笑するのを見て、エナはぽかんとした。あれ、なんか……想像してたより……。
(やさしい……!?)
領民たちは誰一人として彼女を値踏みする目で見ていなかった。どちらかというと、「やっと来てくれた奥方様」に、ホッと安堵するような空気だった。彼らの笑顔は、首都の貴族が浮かべるような計算されたものではなく、乾いた西部の土のように素朴で温かかった。
(……わたし、完全に身構えすぎてた? 毒を吐く準備しかしてなかったのに……)
「まだ三日目なんじゃろ? そりゃ大変じゃわい。旦那様もお堅いからのう。奥方様がいない間は、屋敷も殺風景じゃった」
「まったくですじゃ。奥方様には、もっとお茶とお菓子を出して、ゆっくりしていただかねばの。旦那様は働きすぎじゃから、奥方様が来てくださって本当に安心した」
和やかすぎる会話の波に、エナは完全にペースを崩されていた。彼らは、エナを「辺境伯を支える重要な存在」として心から歓迎しているのだ。
(ツッコミどころ満載すぎて、毒舌の入る隙がない……! 『お堅い旦那様なんて嫌いだわ』って言おうと思ってたのに……!)
面会は和やかに進み、エナもなんとか笑顔を保った。彼女は、彼らの素朴な言葉の中に、領主であるアシュレイへの深い信頼と、この地で生きる人々の強さと優しさを感じ取り始めていた。最後に薬草師のおばあさんが、にこにこと言った。
「奥方様、春の薬湯に効く、この地の野草の花びらの石鹸を、後日お届けしますね。西部の強い日差しで焼けないように、お肌に良いですよ」
「……ありがとうございます。えっと、わたし、ここの空気はまだ慣れてませんけど……でも、皆さんの優しさはちゃんと伝わってます」
エナは、いつものツンとした態度を忘れて、思わず素直な気持ちを口にしていた。
「まあまあ、素直でよろしい。可愛いお嬢さんじゃ」
「そ、そんなんじゃありません! ……な、何言ってるんですか!」
(うわ、また余計なことを……! 完璧な奥方、どこ行ったのよ!)
アシュレイが、そんな彼女の様子を見て、そっと耳元で囁いた。彼の声は低く、優しく、他の誰も聞こえないように配慮されていた。
「よく頑張った。君の素直な気持ちは、彼らに一番伝わったよ」
「べ、別に……大したこと、してませんから。当たり前のことよ」
「それでも、立派だったよ。ほら、もう疲れただろう? 少し休もう」
(……ああもう、この人、なんでそんなに余裕なの! そして、なんでいちいち褒めてくるのよ!)
アシュレイに頭を撫でられ、まるで本当に小鳥のように扱われたことに、エナは口の中で不満を噛み殺した。最後に皆が退出したあと、エナはぐたっと椅子に沈んだ。
「……リリー、水。あとチョコレート。今すぐ」
「奥様、顔が真っ赤です。初めてのお勤め、大成功でしたね」
「もうほっといて! 疲れたのよ!」
けれど、心の奥はほんの少しだけ、あたたかくなっていた。それは、アシュレイの優しさか、領民の温かさか、エナにはまだ判断がつかなかった。




