27.夫婦なんだから
――それは、ふとした瞬間に、恐ろしいほど鮮明に思い出される。湖畔で水に濡れたアシュレイの姿。書斎で背を伸ばしたアシュレイのシャツの隙間から見えた、わずかな筋肉の張り。風呂上がりの濡れた髪と、首筋を伝う雫。そして、あの時、エナを守るために水に落ちた彼の上半身――まるで、神が彫り上げた芸術品だった。
(あの……胸筋……なにあれ……ずるい。なんで服の下にあんなものが隠れてるのよ!)
エナの脳裏には、彼の鍛え上げられた体が焼き付いて離れない。引き締まった腕、広く頼もしい肩、腹筋のライン、そして、水に濡れて艶めいていた肌の輝き。
(あれを見て『何とも思わない』なんて、人として無理でしょ!? わたしだって、健全な女なのよ!)
それ以来、エナはアシュレイの顔をまともに見られなくなっていた。彼の視線が、まるで『すべてを見透かす目』のように感じられてしまうのだ。彼の口元が動くだけで、エナの心臓は乱高下した。
朝食の席で。エナは紅茶のカップを両手で持ち、顔を半分隠しながら、必死に正面を見据える。
「最近、目を合わせてくれないね? 食事の味がしないほど、君は何を考えているんだい?」
アシュレイが静かに笑いながら、紅茶を口にする。その声には、すべてを見透かしたような、余裕たっぷりの甘さが滲んでいた。
(わわ、バレてる……! もう、この人って本当に勘が鋭すぎる! 私の心の壁が、脆すぎて困るわ!)
エナは内心パニックになりながらも、ツンデレ令嬢モードを発動させるしかない。
「な、なんでもないわよ!? べ、別に意識なんかしてないし! あの時のことなんて、一秒たりとも思い出してないんだから!」
「ふふ……エナ」
「なによ……」
エナは顔を上げられない。アシュレイは椅子に座ったまま、手を伸ばしてエナの顎をそっと持ち上げた。優しく、しかし有無を言わせない力で。
「夫婦なんだから、そろそろ『僕の体』にも慣れてもらわないと。いずれ、もっと近くで見る日が来るだろう?」
にこやかに、さらりと核弾頭級の爆弾を投下してくる辺境伯。その瞳は、完全に『誘惑』の色を帯びていた。
「慣れてますっ!! もう慣れてますから! あなたの上半身なんて、風景と同じよ!」
真っ赤になりながら叫んだエナは、自分で自分にとどめを刺した。彼の体が『風景』だなんて、嘘に決まっている。
(なに言ってんのわたしーーー!? 『風景』なわけない! あれは『国宝級の彫刻』よ!)
エナはそのまま席を立ち、逃げるように食堂を後にした。
その夜。エナは寝室で、羞恥心と闘いながら、悶々としていた。部屋の中を何度も往復し、枕を殴り、クッションに顔を埋め――まるで熱に魘されているようだ。
(もう、いい加減……! 『夫婦』という名前に甘えて、一番大事なことに目を背けてるんじゃないわよ、わたし!)
彼の完璧な肉体に動揺しているだけじゃない。彼女は、レオナが現れたことで改めて、『アシュレイと真に一つになること』の重要性を痛感していた。
(わたしが『子供』だと、いつまでも彼は『庇護者』で、『対等なパートナー』にはなれない。愛されたい、守られたいだけじゃなくて、彼のすべてを受け止められる妻になりたい!)
そう決意して、夜も更けた頃。震える手で、エナはアシュレイの寝所の扉を、そっとノックした。彼女の心臓は、今にも破裂しそうだ。
「エナ? どうしたの?」
寝間着姿のアシュレイが現れる。淡い光に照らされた彼の表情は、いつも以上に穏やかで、優しくて――そして、その存在自体が、エナの理性を揺るがす彫刻だった。
(ああもう、やっぱりずるい顔……! 今日もパーフェクトイケメンなのね!)
「ちょっと……いい? その、話があるの」
エナは、視線を床に落としたまま呟いた。
「もちろん。どうぞ」
部屋に招かれ、ベッドの端にちょこんと座ったエナ。アシュレイも横に腰を下ろすが、エナの緊張を察し、触れることはしない。
「……その、ね」
「うん。急がなくていいよ」
「わたしたち、夫婦でしょ。政略結婚なんて、もう関係ないくらい、愛し合ってる」
「そうだね。僕の愛は、君で満たされている」
「だったら……そろそろ、『夫婦らしいこと』、してもいいと思うの。わたしから、お願いする」
アシュレイの瞳が、すっと見開かれた。その中に、喜びと、深い安堵が浮かぶ。彼は、この瞬間をどれほど待っていたのだろう。
「エナ、君がそう言ってくれるのを……ずっと待ってた。君に『無理』をさせたくなかったから」
低く、甘い声が、エナの耳元をくすぐる。アシュレイはそっとエナの震える手を取り、優しく引き寄せた。
「でも、無理しないで。少しでも怖いと思ったら、すぐに言ってくれていい」
「してないわ。無理してるのは、むしろあなたの方でしょ?」
エナは意地を張るように答えた。アシュレイは少しだけ苦笑を浮かべたが、すぐにいつもの包み込む表情に戻す。
「本当に? どこをどう見てそう思うんだい?」
「……知ってるわよ。わたしが『子供』のふりをしている間、あなたはずっと『理性』で壁を作ってた。でも、もうその壁は必要ない」
エナは勇気を振り絞り、彼の胸に顔を埋めた。その鼓動が、彼女の決意を後押しする。
「……したいの。アシュレイと、ちゃんと夫婦になりたいの。私を、あなたのものにして」
(……怖くないわけじゃない。でも、それ以上に、あなたと魂が一つになりたい。あの完璧な体を受け止めたい)
アシュレイは、エナの頬を優しく包み込み、そっと唇を重ねる。
「じゃあ……君の望むように、ゆっくりと。そして、二度と君が不安にならないように、深く、愛を誓おう」
アシュレイの指先が、エナの髪を撫で、頬をなぞる。ひとつひとつの動作が丁寧で、細やかで、まるで壊れ物を扱うように慎重だった。優しすぎる彼の態度に、エナの緊張は少しずつ解けていく。
「アシュレイ……」
「君は、僕が思っていたよりも、ずっと愛しい。ずっと、僕の全てだ」
そして――彼はエナの首筋に顔を埋め、熱い息とともに『真実の愛』を囁く。
「愛してるよ、エナ。心から」
「……わたしも。ずっと、あなただけ」
灯りが落とされる中で、ふたりはゆっくりと愛を交わした。そこにはもう、『ツンデレ』も『甘やかし』も『計算』もなかった。あるのは、ただ純粋な愛情と、夫婦としての結合。言葉よりも、熱よりも、心が重なった夜。政略結婚から始まった物語が、ついに『真実の愛』という名の結実を迎えた。
目を覚ましたエナは、自分がアシュレイの腕の中に、しっかりと抱きしめられていることに気づく。彼の胸に頬を寄せ、昨夜の余韻に包まれていた。
「……あれ、わたし……夢じゃないのよね?」
「おはよう、エナ。夢じゃないよ。昨夜、君は『辺境伯夫人』としての、一番大切な一歩を踏み出したんだ」
アシュレイの低い声が耳元で響き、エナは顔を真っ赤に染める。彼の体は、まさに彼女の『理想の彫刻』のままだ。
「うぅ……恥ずかしい……。なんでそんなに平然としてるのよ!」
「夫婦だからね。そして、僕は最高の幸福感に満たされている。昨日ほど君を愛しく思った夜はないよ」
「昨夜の君は、可愛くて、情熱的で、僕の理性では抑えきれないほど魅力的だった」
「言うなぁぁぁぁ!! それ以上言ったら、ベッドから出て行ってやる!」
エナは叫びながらも、彼の胸にさらに深く顔を埋めた。この温かさこそが、彼女が求めていた『真の居場所』だった。
朝の廊下。セリアとティナとリリーが感慨深そうに顔を見合わせてお喋りを始める。
「旦那様、やけに肌がつやつやしておられましたね。いつもより『満足』のオーラがすごかったです」
「エナ様も、今日は一段と機嫌が良いようです。少し顔色が赤いのは、愛の証でしょうか」
「……ついに、ですね。私たちも、見守り続けた甲斐がありました」
「ついに、です。あの『子供っぽいツンデレ』が、『大人の愛情』に勝利した瞬間です」
騎士ふたりと侍女がそっと会話を交わし、静かに笑いあった。辺境伯夫婦の愛は、辺境一の深さをもって、さらに強固になったのだった。




