26.視線泥棒
「今日は、お待たせした分も込めて、君だけの時間を」
その言葉とともに、アシュレイはエナを馬車へとエスコートした。彼の『仕事人モード』の後の『甘い夫モード』は、殺傷力が高すぎた。向かう先は、ウエストヴェイル領内でも特に景観が美しいと名高い『星光の湖 ラグナス』――。
「わぁ……! すごい……! きらきらしてる!」
湖畔に広がる水面は、陽光を跳ね返して宝石のように煌めいていた。その静けさと美しさは、都会の喧騒とはかけ離れた、神聖な空気さえ纏っている。「この湖、もともと王族の離宮地だったらしいんだ。今は我が領の管轄にあって、管理も厳重にされてる」とアシュレイはエナの隣に立ち、穏やかな声で説明した。
「へぇ……本当に静かで綺麗。なんだか、物語の中に来たみたい。アシュレイ、ありがとう」
桟橋には、優雅な装飾が施された小舟がひとつ浮かんでいる。アシュレイが手を差し出し、エナがそっと舟へ乗り込む。
「揺れるから、気をつけて。捕まってていいよ」
「うん……」
ふたりの舟は、アシュレイの漕ぐオールによって、ゆっくりと湖面へ漕ぎ出していった。静寂の中を、水音だけが優しく響く。
「……あっ、いま見た!? なんか、虹色のヒレが……! 幻かしら!?」
エナが突然、興奮して舟の端に身を乗り出した。湖の奥深くに生息する珍しい魚を捉えようと、前のめりになる。
「危ないよ、エナ。落ち着いて」
「ちょっとだけ、ちょっとだけ……わ、わっ――!」
ぐらっ、と舟が大きく揺れる。エナはバランスを失い、冷たい湖水に落ちそうになる。エナがよろけたその瞬間、アシュレイが反射的に彼女を抱き寄せ――エナの体を舟側に押し、代わりに自分が舟の外へ倒れ込んだ。
「アシュレイ――っ!!」
水面に豪快な音を立てて落ちていく旦那様。水しぶきが、ぽつりとエナの髪や頬にも落ちる。
「だ、大丈夫!? アシュレイ!!」
エナはパニックになり、顔面蒼白だ。
「……ぶはっ。うん、生きてるよ。君は、無事だよね?」
湖の中から顔を出したアシュレイは、髪から水を滴らせながらも、どこか涼しげに微笑んでいた。
(いやいやいや、笑ってる場合じゃないわよ……! 完璧な服が台無しだし、風邪ひくわ!)
湖畔に戻ると、エナは震えるアシュレイを心配し、すぐに着替えを探さなければと焦った。
「誰か、侍従を呼ばないと! 着替えはどこに!」
「いや、大丈夫。まずは太陽の光で乾かす。風邪を引く前に、体温を上げないと」
アシュレイはためらいなく上着を脱いだ。冷たい水に濡れたシャツも一緒に、その細いボタンを外し始める。
「ちょ……っ!! アシュレイ!?」
エナは反射的に目を覆う。しかし、指の隙間からアシュレイを覗き見る。
「服、乾かさないと。このまま着ていたら逆に危ないからね。ここで着替えるわけじゃないよ」
(ま、待って、待って、なんでそんなに自然なの!? ここ、人目がないとはいえ湖畔よ!?)
エナの目の前には、絵画のような――いや、彫刻のような、しなやかで引き締まった『男の上半身』。アシュレイは剣術や執務で体を鍛えているため、贅肉は一切なく、適度な筋肉がついていた。濡れた肌が陽に照らされ、艶めいてさえ見える。
(ひぃぃ……目のやり場に困るんだけど……!! なによ、あの胸筋……なによ、あの腹筋……いつの間に鍛えてたのよ、この男!)
ちらっ、ちらっ、と視線が泳ぐエナ。顔は真っ赤だ。ツンデレの理性が、男の色気に負けかけている。
「……エナ」
「な、なに……?」
「そんなにチラチラ見られると、逆に恥ずかしいんだけど。僕の体よりも、早く君の服に水滴がないか確認しなさい」
「誰のせいよ!! 自業自業でしょ!! 私を庇うからよ!」
濡れたシャツを絞り終えたアシュレイは、立ち上がると、そっと後ろからエナを抱きしめた。まだ冷たい彼の肌が、エナの背中に触れる。
「……本当に、君は油断ならないね。魚を見るたびに、僕の心はざわざわしてるよ」
「魚で嫉妬しないで、アシュレイ」
「君の視線の先にあるものが、僕ではないことに嫉妬するんだ」
ふふっと笑って、エナは彼の腕に体を預けた。冷たい体温が、徐々に熱を帯びていく。
「……ありがとうね。代わりに落ちてくれて。本当に、怖かった」
「当然でしょ。君に怪我をさせるわけにいかないから。僕が盾になる」
「でも、ちょっとだけ……心臓が跳ねた。落ちたのを見て、私、すごく……『この人のいない世界』が、想像できなくなった」
「僕もだよ。君の顔があんなに青ざめたの、初めて見たから。二度とあんな顔はさせない」
ふたりはしばらく、そのまま言葉なく寄り添っていた。ただ、波の音と風だけが穏やかに耳をくすぐる。命がけのハプニングは、二人の絆をさらに強くした。
「そろそろ帰ろうか。体が冷え切る前に」
「……うん」
舟に戻る前、アシュレイはエナの手を取った。そして、そのまま彼女の頬に、優しい口付けを落とす。彼の肌はまだひんやりとしているが、唇は温かかった。
「今日も、好きだよ。誰よりも」
「わたしも……好きよ」
「聞こえないな。もっと大きな声で」
「……だ、だーいすきっ!!」
赤面しながらエナが叫ぶと、アシュレイは満足そうに笑って、もう一度キスをした。
(舟デート、最高すぎるんだけど……! 助けられた上に、かっこいい上半身まで見せつけられて……!)
馬車の中でも、エナはアシュレイの濡れた胸筋が頭から離れず、窓の外を見ながら度々悶えた。
(あんな体つきをしているなんて聞いてない! あんな芸術品を普段は完璧な服で隠しているなんて、この男、確信犯よ! 今日は絶対に、あの筋肉を夢に見る……!)
早馬にて主人たちの様子を聞いた、お留守番組。グレン、セリア、ティナ、リリー。
「はぁ……あのふたりがまた湖で『イチャついて』いると、領兵が報告してきました……。しかも、旦那様は水に落ちたとか」
「そっとしておきましょう。奥様を庇って水に落ちるなんて、騎士道の極致です」
「でも、旦那様、シャツのまま湖に落ちておられましたよ……」
「湖と恋とで、びしょ濡れですね。彼の愛情が、この領地一番の深さだという証拠だ」
「詩人か、君は。しかし、奥様はデート後も妙に顔が赤い。きっと『水辺のキス』が効いたのでしょう」
「命がけのロマンスなんて、まさに物語の主人公。私たちも、見守るしかないわ」
「命がけは政務に支障が……」
「いや、真面目に答えないでよ」




