25.惚れ直す瞬間
伯爵令嬢レオナ・カーライルが屋敷を飛び出してから数日。邸内には、ようやく本来の穏やかで静かな空気が戻ってきていた。嵐が去った後のように、淀みがなく、清々しい。
(ふぅ……あの美人台風、やっと去ったわね。もう当分、『運命の花嫁』なんて言葉は聞きたくないわ)
エナは、窓から見える中庭の木々を眺めながら、紅茶を一口啜った。リリーが新しく淹れたハーブティーを注ぎながら、小声で言った。
「奥様、今朝の旦那様、ご覧になりました?」
「見てないけど? まだ寝室にいらっしゃるのかと思ってたわ」
「ふふ、すごかったんですから。『例の山積み』が発動して」
「……例の山積み?」
「『レオナ様対応で放置されていた政務』でございます。旦那様が奥様に気を取られていたせいで、書類の山が、まるで『山脈』のようになっているとグレン様が……」
(あ……!)
エナはふと思い出す。レオナの滞在中、アシュレイはエナの嫉妬を鎮め、レオナの応対に忙殺されていた。どんなに優秀な男でも、時間は有限――その『しわ寄せ』が、いままさにアシュレイの執務室で炸裂しているのだ。
エナは、気になってそっと執務室の扉に近づいた。扉の隙間からは、普段からは想像できない、緊張した空気が漏れ出している。
「……どうしてこうなるまで放っておいたんですか、アシュレイ様」
グレンはめずらしく本気で怒っていた。彼は、アシュレイの幼い頃からの補佐官であり、その数少ない理解者だ。アシュレイの執務室の机の上には、まさに『雪崩寸前』の書類タワーが築かれていた。
「仕方ないだろう、グレン。あのときはエナのことも、レオナ嬢の動向も気になっていて。妻の機嫌が優先だった」
「そうして『いつもの余裕顔』で回してたから、部下も手を出せなかったんです! 仕事は回ると思っているのは、あなただけです。責任感強すぎです、あなた」
「……返す言葉もないな。君の言う通りだ」
(叱られてる……アシュレイが、叱られてる!? しかも、『妻の機嫌』を理由に!)
扉の隙間から見守っていたエナの目がまんまるになる。アシュレイは常に完璧で、誰にも非難される隙を見せないはずだった。その彼が、グレンに真正面から『弱さ』を指摘され、素直にそれを受け入れている。
アシュレイは、反省の意を込めながらも、既に気持ちを切り替えていた。彼は机に向かい、ひたすらペンを走らせていた。
細身の指が鮮やかに書類をめくり、決裁印を押し、流れるような筆致で署名をする。その瞳は、いつもの『甘い夫』の顔ではなく、冷徹なまでの『辺境伯』の顔をしていた。隣でグレンが唸るように言う。
「こんなに溜め込んだのに、処理速度が変わらないのが腹立たしい。まるで機械ですよ」
「仕事は慣れてるからね。昔、父の代理で一日百件の決裁をこなしたこともある。僕が休んでいた分は、僕が取り戻す」
「くっ、イケメン仕事人め……。その集中力を他で使ってくれれば、どれだけ領地が回るか」
(なにこの会話……。ていうか、こんなアシュレイ、初めて見る。いつも穏やかで優しいのに、今は完全に『仕事人モード』……かっこいい……)
エナは、その『集中と責任感』に満ちたアシュレイの姿に、新たな魅力を感じていた。完璧ではないが、自分の失敗を自分で回収しようとするその姿勢が、人間的な強さとしてエナの心に響いたのだ。気づけばエナは、ほぅ、とため息をもらしていた。「ズルい男」の新たな一面の発見だった。
その日の夜。エナはめずらしく、アシュレイの書斎に夜食を運んでいった。深夜にもかかわらず、執務室にはまだ光が灯っている。
「あれ? エナ、どうしたの? もう休んでいる時間じゃないかい?」
「ちょっと、差し入れ。まだ終わってないんでしょ? グレンに叱られた分」
「ありがとう。助かるよ。君の『甘い心配り』が、今の僕には一番の栄養だ」
彼はにこっと笑って、ようやくペンを置き、エナの座るソファに腰を下ろした。「あのね」とエナは、湯気の立つスープを彼に渡しながら、そっと切り出した。
「ん?」
「今日、見てた。執務室で叱られてるとこ」
「……ああ、グレンにたまにガツンとやられないと、僕はバランスを崩すからね。僕の『理性』を保ってくれる、大事な存在だ」
「……そっか」
エナは、ぽつりと呟いた。
「かっこよかったよ」
アシュレイは一瞬、驚いたようにまばたきをした。彼は『完璧な仕事』を褒められることはあっても、『叱られている姿』を褒められたことはないだろう。
「そう? 徹夜明けのひどい顔をしていると思うけど」
「うん。完璧じゃないところも、ちゃんと怒られるところも、それでも淡々と自分の責任を果たそうと仕事してるところも……なんか、すごく素敵だった。わたしの知恵熱とは全然違う、大人の集中力だった」
アシュレイは、すこし照れたように頬をかいた。それは、エナの『純粋な賞賛』が嬉しかったからだろう。
「じゃあ、これからもエナに叱られるようなことをすればいいかな? 『かっこいい』って言ってもらうために」
「それはやめて。わたし、叱るの苦手だから。それより、笑っているあなたの方が、わたしは好きよ」
「そうか、残念」
ふたりでスープをすすりながら、しばしの静寂。けれど、その沈黙が心地よくて、エナはそっと彼の肩に頭を預けた。
「こういうのも、好き」
「こういうのって?」
「一緒に静かに過ごす時間。ちゃんとあなたの『素の顔』が見える時間」
アシュレイは彼女の髪を撫でながら、囁くように答える。
「僕もだよ。だから、ちゃんと終わらせる。明日には全部片付けて、エナとゆっくり散歩に行こう。朝食後に」
「ほんと?」
エナの目が輝く。
「約束だ。君と二人で『愛の散歩』をするためなら、この山積みの書類など、朝飯前だよ」
エナが朝食を食べ終える頃、グレンが食堂に顔を出した。彼の顔には、驚きと疲労、そしてわずかな敗北感が滲んでいた。
「奥様、よろしいでしょうか。旦那様はたった今、全件処理完了されました」
「うそ……! あんなに山積みだったのに?」
「ええ。睡眠時間は恐らく三時間でしょう。たぶんあの人、『奥様とのデートの約束』を動力源にしたんだと思います。人間じゃありません」
エナはくすっと笑った。
(ほんと、どこまでもズルい人……。でも、そうやって私との約束を仕事の原動力にしてくれるところが、大好き)
彼女は、アシュレイが席を立つのを待つ。今日は、『完璧な仕事人』を乗り越えた『最高の夫』とのデートだ。
控え室にて、いつものメンバーが主人たちについて話し出す。
「奥様が『惚れ直した』回だね、今回は。旦那様の『仕事人モード』のギャップ萌え」
ティナが悶えながら感動する。
「旦那様、たまには人間らしい『失敗と努力』を見せるのが、逆にズルいんですよ。完璧の中に、少しだけ不完全さを見せる」
セリアは淡々と分析する。
「それにしても、あの集中力と処理能力……愛の力って、恐ろしいですね」
リリーは感心する。
「甘さで人を溶かし、仕事で領地を回す――それが辺境伯アシュレイ・ウエストヴェイルの本性だね。愛を最優先にしているからこそ、仕事も効率的にこなす」
「最強じゃないか。愛も仕事も完璧なんて」
「最強だよ。我々は、その愛の恩恵にあずかっているのだから、感謝しなければ」




