24.求めるものは
午前の執務を終えた書斎の扉をノックしながら、伯爵令嬢レオナ・カーライルは、相変わらず優雅な笑みを浮かべていた。しかし、その目には前日からの屈辱による焦燥の色が濃く滲んでいる。
「アシュレイ様。お忙しいところ恐縮ですが、少しだけ、お時間いただけませんか?」
金の刺繍が施された新しいドレス、頬にはほんのり紅が差され、まさに『背水の陣』の気配。これが、彼女の『辺境伯夫人奪還』に向けた最後の試みだと、誰もが察した。アシュレイは椅子から立ち上がりながらも、口元だけで笑う。その微笑みは、レオナの気迫とは裏腹に、極めて無感情で冷徹だ。
「いいけど、少しだけだよ。午後はエナと領地開発の打ち合わせがあるから、長くは話せない」
「ありがとうございますわ」
その声の奥ににじむ『焦り』と『最後の希望』を、エナは廊下の向こうから感じていた。
(ふふ……まだ諦めてなかったのね。さすが『完璧系レディ』、プライドが高いこと)
中庭の奥、人目につきにくい場所でふたりきりになったレオナは、ついに核心を切り出した。
「……どうしてですの? わたくしでは、ダメだったのですか?」
彼女の瞳は潤んでいるが、その問いは鋭い。長年積もった想いと、プライドが、彼女を突き動かしている。
「どうしてって、レオナ嬢」
アシュレイは腕を組み、冷ややかな視線を返す。エナの嫉妬を完全に鎮めるため、彼はあえて残酷なまでの真実を告げる必要があった。
「わたくしの家柄も、教養も、容姿も引けを取りません。わたくしが辺境伯夫人となれば、領地運営においても完璧な助けになれます。それでも……『エナ様』を選ばれた理由が、わたくしにはわからないのです」
レオナは、エナの『子供っぽい無遠慮な甘え』と、自分自身の『完璧な淑女』を比較していた。
「……エナだからだよ」
アシュレイの答えは、驚くほど単純だった。
「……っ!」
レオナは、その単純さに、言葉を失う。
「君には『完璧さ』がある。それは評価する。だが、僕が求めたのは、僕の人生に『心地よさ』と『感情』を運んでくれる存在だ。君は、僕の『公的な役割』しか見ていない」
アシュレイは、視線を遠くの空に向け、エナへの愛を語る。その声はレオナに向けられているが、エナに聞かせるために言っているかのようだった。
「エナの笑顔も、毒舌も、拗ねた顔も、嫉妬してクッションを投げる未熟さも、そして誰にも見せない甘えた顔も……全部が僕にとっての特別なんだ。彼女は、僕を『辺境伯』ではなく『一人の男』として見てくれる。君に、それができるかい?」
レオナの肩が、僅かに震えた。彼女には、『完璧な辺境伯』アシュレイ・ウエストヴェイルに『完璧ではない自分』をアシュレイ・ウエストヴェイルを受け止める勇気はなかった。それでも彼女は意地で笑顔を保とうとする。
「そう……それがアシュレイ様の『偏愛』なのですわね。よくわかりました。ご丁寧に、ありがとうございます」
レオナは、深く、完璧なカーテシーをして、その場を去った。彼女の『初恋の物語』は、ここで完全に終結した。
「アシュレイ〜〜」
執務室に戻ってきたアシュレイの胸に、エナは半分飛びつくように抱きつく。周囲に使用人多数。セリアとティナも当然、遠巻きに見守っている。
「エナ、公共の場だよ? せっかくレオナ嬢を説得したのに、僕を『くっつき虫』に仕立て上げたいのかい?」
「いいのっ! だってわたしは辺境伯夫人なんだからっ! 『妻の愛の主張』は、領民に見せつけるべきでしょう?」
「……開き直ったね。それは、君が『完璧な令嬢』に勝ったからこその自信だね」
アシュレイは苦笑しつつ、エナの髪を撫でると、そのまま腰に手を回して引き寄せ――ごく自然な動作で、唇を重ねた。
「……ん!? んぅ……」
そのキスは、優しさに満ちていながら、どこか深く、甘く。『愛する妻への日常の挨拶』。それはもはや『宣戦布告』ではなく『日常』だった。
「ちょ、ちょっと……またそんな、大人っぽいやつ……! わたしに心の準備というものが……!」
エナは息を弾ませる。
「僕の癒し時間なんだけどな。君の熱い唇で『愛のチャージ』をしている」
「わたしを癒す気はないでしょ!? こっちは毎回、心臓がやばいのよ……! あんなに愛されてるって、反則よ!」
その様子を物陰から見ていたレオナの顔が、ぱたりと引きつった。何度目かの『夫婦の濃厚接触』を、『愛の日常』として見せつけられ、ついに限界が来たらしい。
「……もう、いいですわ!!」
エントランスに響き渡る、プライドをかなぐり捨てた声。
「こんな……こんな、蜜漬けみたいな夫婦生活を毎日見せられるなんて、精神衛生上よろしくありませんもの!!」
「レオナ嬢……」
アシュレイは立ち去る彼女に、同情も後悔も見せない。
「アシュレイ様なんて、ふんっ、くっつき虫の女の人が好みなんですのねっ!! そんな女しか愛せないなんて、下品ですわ!」
「まぁ、否定はしないかな。僕は、僕に依存し、甘え、僕を愛してくれる妻しか見ていないから」
アシュレイは、エナを抱きしめたまま、最後に決定的な言葉を浴びせる。
「~~~~~っ!!!」
ついに顔を真っ赤にして、彼女は屋敷を飛び出していった。その背中には、完璧な淑女の崩壊が刻まれていた。その背を見送りながら、エナは複雑な表情を浮かべる。
(勝った、はずなのに……。わたしが『甘えた女』だから、選ばれた……?)
夜――エナは自室でひとり、ベッドの上に座り込んでいた。勝利の歓喜よりも、『私でよかったのか』という疑問が、彼女の心を占めていた。
(あんなに想われてた人を、わたしが『くっつき虫』という手段で『追い出した』みたいに見えたかしら)(本当に、わたしでよかったの? 完璧さを持たない、わたしで)
口には出さないけれど、心の奥に残っていたその問い。
ドアがノックされ、「入るよ」とアシュレイの声。
「……どうしたの、元気ないね? 勝利の余韻に浸っているのかと思った」
「……なんでもない」
「レオナ嬢のこと?」
「ちが……う……いや、ちょっとは、そうかも」
アシュレイはため息のように微笑むと、エナの前に膝をついて、優しく手を取った。その視線は、熱く、真剣だった。
「エナ。君はね、僕の人生において、『選んだ』唯一の人なんだ。出会いは王命の政略結婚だったとしても……」
「……アシュレイ?」
「今まで、誰かに言われるがまま、責務に従ってきた。でも、君だけは違う。『この人と生きたい』と、僕が初めて、僕の意志で決めたんだ」
「……ほんと?」
「本当だよ。君が毒を吐いても、拗ねても、嫉妬しても、泣いても、笑っても、全部含めて、僕は君を愛してる。僕の人生に必要なのは、完璧な道具ではなく、不完全な君だからだ」
エナは、ついに涙を浮かべて、アシュレイにすがりつく。
「……うわぁああん、だって、だって、彼女、完璧な令嬢だったのに、わたしは、いつも失敗ばっかで、甘えてばっかで……!」
「それが、いいんだよ。僕を『ただの男』にしてくれるから」
アシュレイはエナをそっと抱き締め、彼女の額に口付けを落とした。彼女の不安は、彼の揺るぎない愛によって、完全に消滅した。
「……ふぅ。泣いたらちょっとスッキリした。あなたは、私の『精神安定剤』ね」
「それはよかった。いつでも僕を使ってくれ」
「でも、次に来た令嬢にも『くっつき虫』って言われたら、さすがに怒るわよ? 『公的な場での愛の主張』は、もうしないんだから」
「それは僕がちゃんと追い返すから安心して。『くっつき虫』は、僕だけの秘密の楽しみにしておく」
「ほんとに? じゃあ、くっつくわよ?」
「どうぞ」
アシュレイの胸にぐいっと抱きつくエナ。その頬には、もう迷いはない。
「ねえ、アシュレイ」
「ん?」
「好き」
「うん、僕も好きだよ。僕の愛しい、不完全で、完璧な妻」
(――やっぱり、わたしはこの人の隣で、精一杯もふもふ甘えながら、ちゃんと『なりたい自分』になっていこう。この愛が、私を強くするのだから)
隣室で控えている3人、リリー、セリア、ティナ。彼女たちは主人たちの行動を振り返っていた。
「レオナ嬢、ついに『くっつき虫』発言と共に、玉砕撤退しましたね」
セリアは溜息をつく。
「奥様、勝利おめでとうございます。でも……アシュレイ様が一番恐ろしいと思いました。『完璧な君より、不完全な君が好き』なんて、究極の支配ですよ」
ティナが戦慄する。
「まったくです。包容力と溺愛で、ツンデレを『完全制圧』してるんですから。あれはもう、『愛という名の洗脳』だわ」
リリーはそっと、お茶を配る。
「これぞ、『もふもふ愛され生活』の完成形ですね。『ツンデレと溺愛の相乗効果』」
「タイトルにできますよ、それ。『辺境伯夫人は、くっつき虫として完璧な愛を勝ち取る』」




