23.公衆の面前で
朝の食堂には、華やかな食器の音とともに、目には見えない雷光が交差していた。エナとレオナの間には、常に張り詰めた緊張感が漂っている。
「アシュレイ様。今日も素敵なネクタイの結び方ですわね。わたくしが結んで差し上げてもよろしいかしら? お似合いかどうか、わたくしの目で確かめたいのです」
レオナは、完璧な淑女の笑みを浮かべながら、アシュレイの個人的な領域に踏み込もうとする。その仕草は優雅だが、エナへの明確な牽制だった。
「いや、大丈夫だよ、レオナ。毎朝、僕が自分でやってるから。慣れているし、誰かにやってもらう必要はない」
「まぁ……子供のころ、わたくしが結んで差し上げた時のこと、覚えていませんの? 確か、初めて結んで差し上げたのがわたくしで――」
「うーん……悪いが、その記憶は僕の頭には残っていないかな」
(はい、来ました。ゼロ点回答、しかも冷徹)
エナは紅茶を啜りながら、くすりと笑った。レオナが毎朝のように「過去の思い出と色仕掛け」攻撃を仕掛けてくるものの、アシュレイにはいっさい通じていない。それどころか、彼はすべてを「表面的には気づいていない風」にスルーし、極めて事務的に彼女の接近を拒否していた。
(うちの旦那様、見た目以上に鉄壁……というか、冷徹なのかしら? 妻の嫉妬を察して、あえて突き放している?)
エナはアシュレイの顔を観察した。彼の目は穏やかだが、レオナに向けられる感情は『親戚の子への礼儀』以上のものではない。まるで、彼女の『想い』そのものが、彼の『愛の守備範囲』外にあると言っているかのようだ。
(……あれはたぶん『確信犯』。私の嫉妬を鎮めるための、大人の残酷さだわ)
レオナはネクタイの件で手応えを得られず、ターゲットをエナに移した。
「エナ様は、そういうご経験、あまりないのかしら? アシュレイ様への『大人の甘え方』のような」
レオナが、にこやかに言いながら、エナのドレスをちらりと見た。『あなたは子供っぽいから、大人の駆け引きなんて知らないでしょう』という含みがある視線だ。
「なにかしら? どの『ご経験』について?」
「いえ、恋の駆け引きのご経験が少ないと、つい『子供っぽく』なってしまって、アシュレイ様に『真の淑女の愛』を理解してもらえないかと思いまして」
「……ご心配どうも。でも心配無用よ。うちの旦那様、こう見えて、『計算された美しさ』よりも『本能的な甘え上手』が好きだから」
「まぁ、それは初耳ですわ。アシュレイ様は、完璧な美意識をお持ちの方とばかり」
エナは静かに立ち上がり、アシュレイの椅子の後ろへ。そして、レオナに見せつけるため、わざとらしいほど可愛らしく、両腕を彼の首に回す。食堂の使用人や、控えていたリリーたちの視線が集中する。
「ねぇ、アシュレイ」
エナは首筋に甘く囁く。
「ん? どうしたんだい、エナ」
アシュレイは、優しくエナの手を握った。
「ねえ、『好き』って言って。いま、この場で。誰の耳にも届くように」
レオナの目が見開かれた。彼女の『完璧な淑女』という鎧が、エナの『子供っぽい無遠慮な甘え』によって、ひび割れていくのが見て取れる。アシュレイは、口元をゆるめ、エナの手を取った。彼はエナの『見せつけたい』という魂胆を完全に理解しながらも、それを『愛の要求』として受け入れた。
「もちろん。『誰よりも、エナが好きだよ』。これ以上、疑いの余地はないだろう?」
エナは、アシュレイの言葉に満たされ、にっこりと微笑みながら、レオナの方を見て、勝利のスマイルをキメた。
「……ったく、あなたって本当に、空気読まない男よね。『好きだよ』なんて、恥ずかしいじゃないの」
エナは甘えモードを装いながら、耳元でアシュレイにツンと囁いた。
「君が『見せつけたくて』甘えてきたこと、ちゃんとわかってるよ? 妻の甘えに、夫が応えないわけがないだろう」
「っ! バレてた!? なんでわかったのよ!」
「バレバレだよ。君の嫉妬は、隠しきれていない。だから――お返し」
アシュレイは、エナの手首を掴むと、そのまま椅子に座ったまま、ぐっと彼女を引き寄せた。エナは、バランスを崩し、彼に乗りかかる形になる。
そして、深く、甘く、大人の口付けを、食堂にいるすべての使用人、そしてレオナの目の前で落とした。それは、先日の『子供卒業大作戦』のリベンジではなく、『妻の愛の主張への、公的な承認』だった。
「……っん……んんっ!」
(ちょ、ちょっと……! ここ、食堂よ! なにこれ、今の、完全に『演技じゃないやつ』――!)
唇が離れた後も、エナの顔は熱く、呼吸は乱れていた。
レオナは椅子から立ち上がり、口をぱくぱくと魚のようにさせていた。その完璧な美貌は、驚愕と屈辱に歪んでいる。
「そ、そんな、あのアシュレイ様が、公衆の面前で……情熱的な口付けを……っ、信じられませんわ……! あんな『はしたない』真似を……」
『はしたない』という言葉は、エナの『子供っぽい甘え』を否定するためのものだったが、結果的にアシュレイの『激情的な愛』を否定する言葉になってしまった。アシュレイは、レオナに冷徹な視線を向けた。
「レオナ。エナは僕の妻だ。僕の愛を、誰にも隠すつもりはない。君は、家族としての礼儀を、わきまえてくれ」
その言葉には、一切の情けがなかった。「運命の花嫁」というレオナの自意識を、「ただの家族」という現実で叩き潰したのだ。
その後、レオナは「……き、今日はお部屋で休ませていただきますわ。気分が優れませんので」とそそくさと撤退した。『完璧なレディ』のプライドは、完全に打ち砕かれた。エナはまだ顔を赤くしながら、アシュレイの胸を軽く叩く。
「な、なによあれ。やりすぎよ。完全に『返り討ち』じゃない。あの女だけじゃなくて、私の心臓まで打ち抜かれたわ」
「うん。君の作戦が可愛かったから、つい、本気を出してしまった」
「つい、じゃない! 私の羞恥心はどうなるの!」
アシュレイはエナをそっと抱きしめ、耳元で囁く。
「でも、今のキス……君は、嫌じゃなかっただろう? 君の体温が、それを教えてくれた」
「っ……~~~~っ!! も、もう知らない! あなたなんて、大嫌いよ!」
エナは真っ赤になって部屋を飛び出す。その姿は『完全勝利』したというより、『愛の反則技』によってノックアウトされたようだった。後ろからアシュレイの穏やかな笑い声が追いかけてきた。彼の目には、妻への揺るぎない、鉄壁の愛情が輝いていた。
部屋の脇で控えていたリリー、セリア、ティナの三人。
「セリア、見た? 今朝の戦い。奥様の甘えの後の、旦那様の『公開キス』!」
「うん……奥様、完全勝利だったね……でも旦那様の口付けが反則すぎて、もはやKO。レオナ嬢の『運命の花嫁』設定が、粉砕されたわ」
「レオナ嬢、魂抜けてたもんね。旦那様、あんなに冷たい視線送るなんて、奥様への愛が本気すぎる」
「っていうか、奥様の『公衆甘えモード』初めて見た。あれは最強。ツンデレが本気でデレたら、もう無敵なんだよ……!」
「それってつまり、『恋の戦場では甘えた者勝ち』……? そして、『旦那様への愛が本物なら、場所なんて関係ない』ってことですね」
「うん、でもそれを自然にできる奥様がすごいの。まさに『もふもふ愛され系ヒロイン』の真骨頂……!」
「私たちは、あの夫婦の愛の深さに、改めて敗北を喫しました。とりあえず、食堂の床を拭きましょう。愛がこぼれてるわ」




