21.ふわふわシュガーレース
「ふぅーっ! よし、完治! 邪気退散!」
カーテンを勢いよく開けて、光を部屋に呼び込んだエナは、どこからどう見ても完全回復。頬には自然な赤み、目には強い輝き、そしてなぜか両手には謎のストレッチポーズ。彼女の『行動力』が、病を吹き飛ばしたようだ。
「奥様、まだ完全に治ったわけでは……医者の診断だって『ほぼ快癒』と言ったばかりですよ」
「リリー、わたしはもう元気なの! 『ほぼ』っていうのは、つまり『イエス』と同じ意味よ!」
「『ほぼ』があるうちは安静かと。病後の無理は、辺境伯夫人の務めに響きます」
「うるさいわねっ! ベッドの上はもう限界よ! 動かないと逆に病気になりそう! わたしは動いて思考するタイプなの!」
(政務は控えてたけど、脳内はずっと『支援のこと』でぐるぐるしてたし……今度こそ動きたい。わたしの目で、ちゃんと『仕組み』が動き始めたところを見てみたいわ)
そこに、ノックの音と共にアシュレイが顔を出した。彼の表情には、妻の回復への安堵が満ちている。
「起きてたのかい? 騒がしいなと思ったら、もう全快のようだね」
「アシュレイ! ちょうどいいところに! わたし、もうどこも悪くないわ!」
「学校……あなたが立ち上げてくれた、読み書き教室のことよ。もう始まってるのよね?」
「うん。君の予算案が素晴らしかったおかげで、予定より早く、読み書き教室の第一期生は昨日から通い始めてるよ」
「じゃあ、見に行っても――」
エナは前のめりになる。自分の『頭の中で生み出したもの』が、現実でどう動いているか、確かめたかった。
「それについては、少し条件がある」
アシュレイは静かに言った。
「条件?」
アシュレイは、ひとさし指を唇に当てて、声を落とす。彼の目には、配慮と愛情が混ざり合っている。
「今日は『こっそり』見に行ってきてほしいんだ」
「えっ、こっそり?」
「まだ慣れていない子たちや、緊張している先生の前に、いきなり『辺境伯夫人』という権威の象徴が出てきたら、萎縮してしまって、本来の姿が見えなくなってしまうだろう?」
「あ……そっか。たしかに、子どもたちを驚かせたくないわ」
「だから、今日は一見学者として、遠巻きに様子を見てきてほしい。それが君の『初仕事』になる。君の優しい視線が、教室の成功を確かめるための最良の手段だ」
エナは、口を尖らせながらも静かに頷いた。彼の言っていることは、常に『理性』と『配慮』に基づいている。
「……了解よ。変装して忍び込んでくればいいのね? リリー、『庶民風の地味な服』を!」
「そこまで本格的じゃなくていいけどね。君の『熱意』を隠せれば十分だ」アシュレイは苦笑した。
エナは乗りなれた馬車を降り、リリーと共に小道を歩いて新設の読み書き教室へと向かった。レンガ造りの平屋に、木の看板が掲げられている――《子ども文庫》。
(……名前も可愛い。わたしの苦手な『数字』から生まれた『優しさ』の形なのね)
リリーと共に裏手から入ると、講師らしき若い女性が、数人の子どもたちに紙を配っていた。
「『あ』の字は、こう書きます。みんなで、声に出して――」
『あ、あ、あ……!』
子どもたちの元気な声が響く。
「うーん、まだ筆が上手に使えない……!」
「先生、間違えた! 変な字になっちゃった!」
「大丈夫よ。間違えることは、成長のしるし! みんな、きっとできるようになるわ」
エナは教室の小窓から、その様子をそっと見守っていた。
(思ったより……ちゃんとしてる。そして、なんて温かい場所なの? みんな、集中して、笑ってる。これが、『仕組み』の力なのね)
教室の片隅で、ある男の子が必死に文字を書こうとしていた。筆を何度も落としながら、それでもあきらめず、歯を食いしばっていた。その姿は、かつて予算書と格闘していたエナ自身のようだった。
(がんばって……! あなたは一人じゃないわ!)
窓の外から、その子の努力を祈るように見つめるエナ。自分の目で見た『現場』は、机上の冷たい計算とはまったく違って、あたたかく、どこか眩しかった。
屋敷へ戻ると、応接室で待っていたアシュレイが、静かに立ち上がった。彼の視線は、エナの顔色の変化を逃さない。
「おかえり、どうだった? 疲れていないかい?」
「すっごく……よかった。わたしが思ってたより、もっとちゃんとした『未来』だった。あの予算を組んでよかった」
「それは、嬉しいな。君の『真の優しさ』が、領地に根付き始めた証拠だ」
「先生も、生徒たちも、がんばってた。……こんな風に、育っていくのね。ひとつずつでも、ゆっくりと」
アシュレイは優しく微笑むと、テーブルに置かれた包みを差し出した。
「……君の『初仕事』のご褒美だ」
「え?」
「王都で今、流行ってる焼き菓子。『ふわふわシュガーレース』っていうらしい。君の好きな甘いものだ」
「ふ、ふわふわシュガーレース……っ! 」
(名前からして可愛い! 絶対おいしいやつ!!)
甘いもの好きのエナの目が輝く。しかし――彼女の『対等への意識』が、ここで立ち塞がった。
「……でも」
包みを手に取ったエナの動きが、ふと止まる。
「これって……」
「うん?」
「ご褒美って……まさか、また『子供扱い』してるんじゃないでしょうね? わたしは、ちゃんと自分の責任を果たした『対等な妻』なのよ!」
「いや、ご褒美は子供だけのものじゃないと思うけど? 大人だって褒められたいだろう?」
「あなたのその『優しげでやんわり大人の男の顔』で、何でも許されると思わないでちょうだい!! その顔が『甘やかしの象徴』なのよ!」
アシュレイは苦笑しつつ、逃げるように応接室の奥へと歩き出す。
「ちょ、逃げないで! この包みは返すからね!? うっかり喜んでないからね!?」
「食べてから怒るのでも遅くないよ。冷めないうちにどうぞ」
「~~~~っ!! ほんと、ずるい男!!」
夜。ひと口だけ味見したふわふわシュガーレースがとんでもなくおいしくて、結局もう一個こっそり食べたエナは、執務室で書類を読んでいたアシュレイにそっと近づいた。
「アシュレイ」
「ん? もう食べたのかい? 甘すぎなかった?」
「……ありがとう。ほんとに、いい見学だった。そして、お菓子もおいしかったわ。少しだけ」
「うん、君の顔を見ればわかる。最高の笑顔だよ」
「明日から、わたしもちゃんと関わるわ。『こっそり』じゃなくて、ちゃんと『辺境伯夫人』として」
「楽しみにしてる。君が介入すれば、もっと良い『仕組み』になるだろう」
エナはそっと彼の背に寄りかかる。
「でも……あのお菓子は、今日だけだからね。これからは、対等な夫婦の関係なんだから」
「はいはい。わかったよ、対等な妻」
「……ちょっと。なに、その適当な返事」
エナは不満げに拗ねる。
「じゃあ今度からは、『対等な妻』らしく、君も僕にご褒美をくれるの? 『初仕事』のお礼として」
「……う。……考えとく」
(キスなんてできるわけないでしょう!
夫婦の時間を邪魔せぬために控え室でいつものメンバーがお茶をしながら雑談を始める。
「奥様、まさかご褒美で『焼き菓子→怒り爆発』の流れとは……。怒りの起爆剤が砂糖」
「でも結局全部食べてましたよね、あれ。『ツン』の後に『デレ』の甘い残骸が残る」
「むしろ『おいしかったから許す』みたいな雰囲気だったような……。ツンデレの意味が問われるわ」
「奥様の『ツン』って、どこか甘いですよね。すぐにバレる」
「まさに『焼き菓子系ツンデレ』。表面はサクサクだけど、中はふわふわの甘さ」
「もしくは『砂糖で包まれた毒舌』。もう、それお菓子の商品名にありそう!」
「よーし、次は奥様から旦那様に『対等なご褒美』をあげる作戦を考えよう! 奥様、次は絶対に逃げさせないわよ!」




