20.知恵熱と口付け
「……うーん……なんか、寒いような……熱いような……頭が、ぐるぐる……」
エナは額に手を当てながら、ふらりと椅子から立ち上がった。この数日、『子供卒業大作戦』の一環である予算案の調整に没頭し、苦手な数字と格闘し続けていたせいで、食事も睡眠もおざなりだった。彼女は、アシュレイに「対等な妻」として認められたい一心で、無理を重ねていたのだ。
「奥様、どうかされましたか? 顔色が優れません」
リリーが慌てて駆け寄る。
「ううん、だいじょ……ぶ……あれ? なんか、床が、ぐら……ぐら」
がくりと足元が崩れた瞬間、後ろから支えるように駆け寄ったのは、専属侍女のリリーだった。
「奥様!! しっかりしてください!」
リリーが抱きかかえたエナの体は、ひどく熱を持っていた。
「知恵熱……って子供みたいじゃない……」
寝台の上で、氷枕を抱えてぐるぐる巻きにされたエナは、いつもの生意気さがどこへやら、すっかりぐったりしていた。赤い顔と、うつろな瞳が、彼女の限界を物語っている。
「奥様、知恵熱ですね……政務の疲れが、苦手な計算と相まって溜まっていたのかと。いくらなんでも、二徹夜は無謀です」
リリーは心配そうな顔で、濡れタオルを絞り直す。
「知恵熱……って子供みたいじゃない……。大人の熱なら、もっと格好いい名前があってもいいのに」
「いえ、『思考しすぎによる大人の熱』です! ほら、奥様がどれだけ頑張ったかの勲章ですから!」
「なんか、フォローになってないわ……」
(うぅ……身体も思うように動かないし、頭がぼんやりしてるし……。弱気になってる、自分が嫌。こんな姿、アシュレイには絶対見せたくないのに……)
枕元の扉がそっと開き、入ってきたのは――もちろん、彼だった。グレンから報告を受け、すぐに駆けつけたのだろう。彼の顔には、隠しきれない心配と慈愛が浮かんでいた。
「エナ、大丈夫かい? 驚かせないように、そっと入ったんだが」
「あ、アシュレイ……」
アシュレイは静かにベッドサイドの椅子に腰掛けると、リリーから受け取った冷たいタオルを額に乗せ、氷枕の位置を調整した。そして、ぴたりと冷えた額の上に、そっと自分の手のひらを当てた。
「……まだ熱いな。無理したね。もう少し、安静にしようか」
「……ごめんなさい」
エナは、その優しさに、思わず謝罪の言葉を口にした。
「謝ることじゃない。君は、頑張りすぎただけだよ。僕を驚かせようと、一人で全て抱え込もうとしたからだ」
「……わたし、まだ全然できてないのに。大きなこと言ったくせに、数字ひとつで頭がパンクして……何よ、知恵熱って。わたし、情けないわ……」
アシュレイは一瞬、黙ったままエナの手を取り、その小さな指にそっと自分の指を絡める。熱を持った手のひらを通して、夫婦の絆が伝わる。
「エナ」
「なに……」
「『弱さ』を認められるのは、強さだよ。君は、自分の限界と向き合えた。それは、『完璧であること』よりも、ずっと難しいことだ」
「…………っ」
エナは言葉に詰まる。彼の言葉は、いつだって彼女の心の最も柔らかな部分を突いてくる。
「僕は、いつだって完璧でいようとする君より、こんな風に弱音を吐いてくれる君のほうが、好きだ。僕に頼ってくれる君が、愛しい」
「……そんなこと、言わないで……」
「なぜ?」
「……今のわたしじゃ、うまく受け止められないのよ……。これ以上優しくされたら、本当に『子供』に戻っちゃいそうだから……」
小さく熱を持った指先が、彼の袖をそっと引いた。エナは、自分の心の葛藤を、ついに言葉にした。
「アシュレイ……」
「ん?」
「お願い……『子供扱い』は、今日だけ許してあげるから……その代わりに……」
エナは、顔を赤くして目を閉じた。熱のせいで理性の壁は崩れ落ち、残ったのは『愛されたい』という純粋な願望だけだった。
「……口付け、してほしいの……」
ぽつりとつぶやく声は、いつものツンデレとはまるで違う。本当に頼りなくて、本当に弱くて、本当に――愛らしい、妻の甘えだった。アシュレイの顔に、深い感動の色が浮かんだ。彼女が、自ら『弱さ』を開示したことが、何より嬉しかったのだ。
「――君が、欲しいなら、喜んで」
アシュレイはそっと身をかがめ、ベッドに伏せたエナの額から冷たいタオルを一瞬だけ外し、優しく口付けを落とした。『治癒と安らぎ』を願う、夫のキス。
ひと呼吸の間を置いて、次に彼はエナの熱を持った頬に。そして、最後に――唇に、そっと重なる。温かく、でも決して重すぎない、それは熱の中でも忘れられない優しさと、深い愛情がこもった口付けだった。
(あぁ……この人って、ほんと……ずるい。わたしの『弱さ』も、全部受け入れてしまうなんて)
しばらく沈黙のあと、アシュレイが微笑みながら、ぽそりとつぶやいた。口付けの余韻か、エナの頬は先ほどより少しだけ紅くなっている。
「……ねぇ」
「うん?」
「今のは、風邪をうつして元気になる作戦? それとも、僕が病気になれば、君も看病できるからという、未来を見据えた策?」
「違うわ。ただの『甘え』よ。だって、あなたは私の夫なんだから、妻が病気の時くらい、看病して甘やかしてくれるのが当然の務めでしょう?」
エナは、少しだけいつものツンデレを取り戻していた。
「……可愛い奥様だね。存分に甘えてほしい」
「またそうやって……。まあ、嫌いじゃないけど。あなたがいないと、回復できないみたいだし」
「光栄だな。僕は君の『特効薬』でいられるようだ」
アシュレイはエナの頭を優しく撫で、そのまま静かにその傍に座り続けた。
部屋の外では、リリーと護衛騎士のふたりが、完全に壁と同化して身悶えていた。部屋の中から漏れる会話に興味深々だ。
「奥様、めっちゃ甘え倒してる……! 『口付けしてほしいの』って、破壊力がすごすぎます……!」
ティナは鼻血を抑える。
「アシュレイ様、もう溺愛が止まらない……。あのキスは、もはや『聖域』の領域です」
セリアは冷静を装いつつも、耳が赤い。
「発熱してても、やっぱり『愛され奥様』の座は不動なのね。こんな弱音を旦那様に吐けるなんて、真の信頼関係だわ」
リリーはそっと紅茶を用意する。
「これが『病める時も健やかなる時も』ってやつ……! 私たち、いつになったらあの域に……」
「『うらやましい』で死にそう。リリー、お茶おかわり……この愛の熱量に耐えられないわ!」
「はい、あったかいのどうぞ。奥様のためにも、私たちがしっかり外を守らなくては!」
辺境伯夫婦の愛は、知恵熱さえも乗り越えて、さらに深く強固になっていくのだった。




