02.西部の朝と葛藤
朝の光が、天蓋越しにほんのりと降り注いでいる。カーテンの隙間から差し込んだ西部の澄んだ陽光が、ふわふわとした白いシーツを優しく照らしていた。
「……ん……」
ふと、エナは目を開けた。
(……ここどこ)
ぼんやりとした頭で、天井を見つめたまま彼女は思った。起き抜けに感じたのは、微かな冷気と、布団のぬくもり。しっとりとした上質なリネンの肌触りが、肌に心地よい。首都の伯爵邸よりも空気が乾燥しているせいか、すべてが張り詰めたように清々しく感じられる。
(あ……そうだった。わたし……結婚したんだ)
改めて、現実が胸に落ちる。ここはフィリグリー伯爵邸ではない。西部辺境、ウエストヴェイル領にある、冷静すぎるほど紳士的な男、アシュレイ・ウエストヴェイルの屋敷だ。
(……昨日まで、お父様とお茶を飲んでいたのに。政略結婚、って。あまりに急展開すぎて、まるで夢みたいだわ)
起き上がろうとしたそのとき、コンコンとドアがノックされた。
「お嬢様、起きてますか~? お仕度のお時間ですよ~」
その声に、エナは頭を抱える。
「……もう“お嬢様”じゃないのに」
「じゃあ“奥様”? うわ、しっくり来ませんね!」
「黙って準備して、リリー」
やって来たのは、いつも通りに明るい笑顔を浮かべた付き添い侍女、リリー・フォージュだった。彼女の手には、きちんと朝の着替えと身支度用の道具がそろっていた。
「それにしても、寝室も広すぎますねえ……お嬢――いえ、奥様、ちゃんと眠れました? 旦那様が気を利かせてくださったのか、暖炉の火も調整されていたみたいで」
「うるさいわね。快適だったに決まってるでしょう。そうでなくちゃ、わたくしの美貌に響くわ」
「でも旦那様とは別室でよかったですねー! いきなり同室だったら、びっくりして泡吹いて倒れてましたよきっと」
「……誰が泡吹くですって? 泡吹くのは、わたくしの毒に当てられた無能な男だけよ!」
毒舌交じりのやり取りは、変わらぬ朝の光景だ。しかし、リリーに髪を梳かされながら、エナはぼんやりと鏡を見つめる。
(……“旦那様”ねぇ)
昨日は、何が何だかわからないまま式を挙げて、輿入れして、屋敷を案内されて、夕食を食べて、即寝た。あまりに急展開すぎて、余裕のかけらもなかった。でも――。
(あの人、本当に落ち着いてて、大人で、なんかこう、すべてを包み込むような余裕しかなかったというか……)
アシュレイがエナを案内するとき、自然に手を差し伸べてくれたこと、長旅で疲れているだろうからと、夕食を早めに切り上げてくれたこと。すべてが洗練されていて、完璧な紳士だった。うっかり思い出して、鏡の中の自分がほんのり頬を染めていた。
「おやおや? 赤くなってる~! 思い出しましたね、旦那様のこと。『うそ、イケメンじゃない』って言った後の、あの笑み!」
「口を閉じなさいリリー! あなたまで、わたしのことをからかうなんて、十年の付き合いを解消して差し上げるわよ!」
「はいは~い」
どうやら今日もいつも通りの騒がしい朝になりそうだった。しかし、エナの心の内では、アシュレイへの警戒心と、予期せぬときめきが混在し始めていた。
エナは、屋敷の一階奥にあるダイニングホールへと足を運んだ。高い天井に美しい彫刻、銀の食器と温かい紅茶の香り。使用人たちが整然と立ち並び、新しく来た奥方に対し、恭しく一礼する。
(……本当にここ、わたしの“家”になるのね。フィリグリー家とは、何もかもが違うわ。静かで、重厚で……)
そう思った矢先――。
「おはよう、エナ」
優しい低音が響いた。テーブルの奥、暖炉の前に座っていたのは、まさしくその“旦那様”ことアシュレイ・ウエストヴェイル。朝から隙のない、整然とした執務服に身を包み、落ち着いた笑みを浮かべている。彼の横顔は、西部の強い日差しを受けて、さらに精悍に見えた。
「…………おはようございます」
(落ち着きすぎでしょ、朝から……。何よその、何もかもお見通しみたいな表情は。顔がいい。反則よ)
エナは一歩遅れて、指定された椅子に座る。視線を合わせないようにしつつ、ちらっとだけアシュレイの方を見た。
(……やっぱり、顔が良い。やっぱり……あの余裕は、イケメンの特権だわ。腹が立つけど、反論する余地がない……無理)
そんな葛藤を余所に、アシュレイはふんわりと微笑んだ。彼の微笑みは、エナの毒舌を完全に受け止めて、無力化してしまうような、温かい包容力に満ちていた。
「よく眠れたようだね。疲れていないなら何よりだ」
「……ええ、おかげさまで」
「食事の用意は済んでいる。この辺境の食材は都のものと違うかもしれないが、新鮮で美味しいと評判だ。エナ、好きなだけ召し上がれ」
「……ええ、いただきます」
エナは、器用にフォークとナイフを持った。焼きたてのパンと、西部の豆を使った季節のスープに、ふんわりとした卵料理。素材の旨味を活かした丁寧な料理に、自然と頬がゆるむ。
「……美味しい」
エナはつい、本音を漏らした。フィリグリー家では、素材よりも豪華さを追求した料理が多かったが、アシュレイの屋敷の料理は、滋味深く、心が安らぐ味だった。
「よかった。君が食事を楽しんでくれると、私も嬉しいよ」
その一言に、また頬が染まった。
(あの笑顔はずるい。なんであんなに、心が掴まれるの……? わたくしを子供扱いしてるのかしら……?)
エナは警戒心を強める。彼が優しすぎるのは、何か裏があるからではないかと疑ってしまう。
「エナ、何か不便は? 遠慮なく言ってくれて構わないよ。君はまだ、この屋敷の『お嬢様』のようなものだから」
アシュレイの口調は、まるで父親が娘に話しかけるかのようだった。「お嬢様のようなもの」という表現に、エナはわずかな苛立ちを覚えた。
「べ、別にありませんっ。わたくしをそんな風に扱わなくても結構ですわ。もう立派なウエストヴェイル家の奥方ですもの」
「そうだったね。失礼した。だが、急ぐ必要はない。君がこの新しい環境に慣れるまで、私はいくらでも待つつもりだ。でも、そう言うのなら……、今日から少しずつ領地の様子を見て、屋敷の采配にも――」
「……わたしに出来る範囲で、ですけど。いきなりすべてをやれと言われても、困りますから」
そう言って、エナはそっぽを向いた。だがその耳は、ほんのりと赤い。アシュレイはそれを見て、何も言わずに小さく笑った。その笑みには、エナの反抗心すらも愛おしむような、大人の余裕が滲んでいた。
食後、エナは気分転換もかねて、リリーと庭園を散歩していた。西部の空気は少し冷たいが、日差しは優しく、庭にはまだ乾いた土の間に可憐な花が芽吹き始めている。
「この辺りはもう春なんですねえ……奥様、顔が和らいでますよ」
「リリー、あなたさっきから“奥様”って言うたびに笑ってない?」
「えーそんなこと、ありませんよぉ? 私、毎日『奥様! 奥様!』って呼んで練習したい気分なんです!」
軽口をたたきながら歩いていると、メイド頭のマーサが近づいてきた。年配ながらも姿勢はしゃんとしており、使用人たちにとっては威厳ある存在のようだった。
「奥様、少しよろしいでしょうか」
「……ええ、なにかしら?」
「旦那様からお聞き及びかもしれませんが、屋敷の奥方としての日常の業務――すなわち食堂の手配、洗濯物の指示、使用人への通達、外部からの来訪対応などについて、これから引継ぎを……」
ずらずらと説明が続いた瞬間、エナの顔がわずかに引き攣った。都会育ちのエナにとって、屋敷の管理など未知の領域だった。しかし、政略結婚とはいえ、奥方として務めを果たさなくては、と腹を括ろうとしたそのとき――。
「それについては……」
ふいに背後から、落ち着いた声が割り込んだ。アシュレイだった。いつの間にか、庭の石畳の上に立っていた。彼はいつだって、エナの危機を察知するかのように、絶妙なタイミングで現れる。
「エナには、当面そうした務めを課さないようにと、私はマーサに申し伝えてあるだろう?」
「……旦那様、それは……」
マーサが困惑した表情を浮かべる。
「慣れぬ土地に来たばかりだ。西部は都とは勝手が違う。まずはゆっくり、この家の暮らしに馴染んでもらうことが先決だ。今まで通り、マーサが主導権を握ってくれて構わないよ」
アシュレイはあくまで穏やかだが、その言葉には辺境伯としての絶対的な意志が込められていた。
「承知いたしました」
マーサが恭しく頭を下げて去っていく。残されたエナは、むっとしてアシュレイを見上げた。
「……わたし、そんなにか弱く見える? それとも、ただのお飾りの奥方だと思っているんですか?」
エナの毒が、彼に向けられる。だが、アシュレイは動じることなく、優しくエナのふわふわの髪を撫でた。
「いいや、か弱くなど見えないよ。君は、とても強い女性だ」
「だったら、そんな過保護みたいなこと――まるで、手のかかる妹に接するみたいにしないでください!」
アシュレイはふっと笑う。その笑みは、否定ではなく、すべてを肯定するようなものだった。
「君は、頑張りすぎる性格だ。そして、都の伯爵令嬢として、不慣れなことを無理にしようとして、張り詰めてしまうだろう? だからこそ、少し肩の力を抜いてほしいんだ。西部は逃げない。この屋敷も逃げない。君が落ち着いてからで、すべて間に合う」
「……言われなくても、平気だし! むしろ、あなたの余裕に腹が立ってるだけよ!」
「それは安心だ」
アシュレイは楽しそうに、もう一度、エナの髪をそっと撫でた。
「……優しすぎると、つけあがりますわよ?」
「構わない。君のわがままも、毒舌も、何度でも受け止めるよ。この辺境の地で、君が一番大切にされるべきなのだから」
その即答に、エナはぐっと詰まった。彼は、エナが発する毒を、単なる「わがまま」や「子供の反抗」として扱っている。それは、エナの毒舌の威力を削ぐ、最も効果的な方法だった。
(なにそれ、意味わからない……。くそ、余裕の塊……! このままじゃ、わたしの毒がただの甘えになってしまうじゃない!)
けれどその胸の奥が、ほんのりとあたたかくなるのを、エナは否定できなかった。彼の過保護な優しさは、彼女がこれまで求めていた、しかし得られなかった、絶対的な庇護のようなものだったからだ。




