表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
政略結婚なのに、包容力マシマシな辺境伯の溺愛が過保護過ぎて小鳥令嬢は困ってます!  作者: 宮野夏樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/28

02.西部の朝と葛藤


 朝の光が、天蓋越しにほんのりと降り注いでいる。カーテンの隙間から差し込んだ西部の澄んだ陽光が、ふわふわとした白いシーツを優しく照らしていた。


「……ん……」


 ふと、エナは目を開けた。


(……ここどこ)


 ぼんやりとした頭で、天井を見つめたまま彼女は思った。起き抜けに感じたのは、微かな冷気と、布団のぬくもり。しっとりとした上質なリネンの肌触りが、肌に心地よい。首都の伯爵邸よりも空気が乾燥しているせいか、すべてが張り詰めたように清々しく感じられる。


(あ……そうだった。わたし……結婚したんだ)


 改めて、現実が胸に落ちる。ここはフィリグリー伯爵邸ではない。西部辺境、ウエストヴェイル領にある、冷静すぎるほど紳士的な男、アシュレイ・ウエストヴェイルの屋敷だ。


(……昨日まで、お父様とお茶を飲んでいたのに。政略結婚、って。あまりに急展開すぎて、まるで夢みたいだわ)


 起き上がろうとしたそのとき、コンコンとドアがノックされた。


「お嬢様、起きてますか~?  お仕度のお時間ですよ~」


 その声に、エナは頭を抱える。


「……もう“お嬢様”じゃないのに」

「じゃあ“奥様”?  うわ、しっくり来ませんね!」

「黙って準備して、リリー」


 やって来たのは、いつも通りに明るい笑顔を浮かべた付き添い侍女、リリー・フォージュだった。彼女の手には、きちんと朝の着替えと身支度用の道具がそろっていた。


「それにしても、寝室も広すぎますねえ……お嬢――いえ、奥様、ちゃんと眠れました?  旦那様が気を利かせてくださったのか、暖炉の火も調整されていたみたいで」

「うるさいわね。快適だったに決まってるでしょう。そうでなくちゃ、わたくしの美貌に響くわ」

「でも旦那様とは別室でよかったですねー!  いきなり同室だったら、びっくりして泡吹いて倒れてましたよきっと」

「……誰が泡吹くですって?  泡吹くのは、わたくしの毒に当てられた無能な男だけよ!」


 毒舌交じりのやり取りは、変わらぬ朝の光景だ。しかし、リリーに髪を梳かされながら、エナはぼんやりと鏡を見つめる。


(……“旦那様”ねぇ)


 昨日は、何が何だかわからないまま式を挙げて、輿入れして、屋敷を案内されて、夕食を食べて、即寝た。あまりに急展開すぎて、余裕のかけらもなかった。でも――。


(あの人、本当に落ち着いてて、大人で、なんかこう、すべてを包み込むような余裕しかなかったというか……)


 アシュレイがエナを案内するとき、自然に手を差し伸べてくれたこと、長旅で疲れているだろうからと、夕食を早めに切り上げてくれたこと。すべてが洗練されていて、完璧な紳士だった。うっかり思い出して、鏡の中の自分がほんのり頬を染めていた。


「おやおや?  赤くなってる~!  思い出しましたね、旦那様のこと。『うそ、イケメンじゃない』って言った後の、あの笑み!」

「口を閉じなさいリリー!  あなたまで、わたしのことをからかうなんて、十年の付き合いを解消して差し上げるわよ!」

「はいは~い」


 どうやら今日もいつも通りの騒がしい朝になりそうだった。しかし、エナの心の内では、アシュレイへの警戒心と、予期せぬときめきが混在し始めていた。




 エナは、屋敷の一階奥にあるダイニングホールへと足を運んだ。高い天井に美しい彫刻、銀の食器と温かい紅茶の香り。使用人たちが整然と立ち並び、新しく来た奥方に対し、恭しく一礼する。


(……本当にここ、わたしの“家”になるのね。フィリグリー家とは、何もかもが違うわ。静かで、重厚で……)


 そう思った矢先――。


「おはよう、エナ」


 優しい低音が響いた。テーブルの奥、暖炉の前に座っていたのは、まさしくその“旦那様”ことアシュレイ・ウエストヴェイル。朝から隙のない、整然とした執務服に身を包み、落ち着いた笑みを浮かべている。彼の横顔は、西部の強い日差しを受けて、さらに精悍に見えた。


「…………おはようございます」


(落ち着きすぎでしょ、朝から……。何よその、何もかもお見通しみたいな表情は。顔がいい。反則よ)


 エナは一歩遅れて、指定された椅子に座る。視線を合わせないようにしつつ、ちらっとだけアシュレイの方を見た。


(……やっぱり、顔が良い。やっぱり……あの余裕は、イケメンの特権だわ。腹が立つけど、反論する余地がない……無理)


 そんな葛藤を余所に、アシュレイはふんわりと微笑んだ。彼の微笑みは、エナの毒舌を完全に受け止めて、無力化してしまうような、温かい包容力に満ちていた。


「よく眠れたようだね。疲れていないなら何よりだ」

「……ええ、おかげさまで」

「食事の用意は済んでいる。この辺境の食材は都のものと違うかもしれないが、新鮮で美味しいと評判だ。エナ、好きなだけ召し上がれ」

「……ええ、いただきます」


 エナは、器用にフォークとナイフを持った。焼きたてのパンと、西部の豆を使った季節のスープに、ふんわりとした卵料理。素材の旨味を活かした丁寧な料理に、自然と頬がゆるむ。


「……美味しい」


 エナはつい、本音を漏らした。フィリグリー家では、素材よりも豪華さを追求した料理が多かったが、アシュレイの屋敷の料理は、滋味深く、心が安らぐ味だった。


「よかった。君が食事を楽しんでくれると、私も嬉しいよ」


 その一言に、また頬が染まった。


(あの笑顔はずるい。なんであんなに、心が掴まれるの……?  わたくしを子供扱いしてるのかしら……?)


 エナは警戒心を強める。彼が優しすぎるのは、何か裏があるからではないかと疑ってしまう。


「エナ、何か不便は?  遠慮なく言ってくれて構わないよ。君はまだ、この屋敷の『お嬢様』のようなものだから」


 アシュレイの口調は、まるで父親が娘に話しかけるかのようだった。「お嬢様のようなもの」という表現に、エナはわずかな苛立ちを覚えた。


「べ、別にありませんっ。わたくしをそんな風に扱わなくても結構ですわ。もう立派なウエストヴェイル家の奥方ですもの」

「そうだったね。失礼した。だが、急ぐ必要はない。君がこの新しい環境に慣れるまで、私はいくらでも待つつもりだ。でも、そう言うのなら……、今日から少しずつ領地の様子を見て、屋敷の采配にも――」

「……わたしに出来る範囲で、ですけど。いきなりすべてをやれと言われても、困りますから」


 そう言って、エナはそっぽを向いた。だがその耳は、ほんのりと赤い。アシュレイはそれを見て、何も言わずに小さく笑った。その笑みには、エナの反抗心すらも愛おしむような、大人の余裕が滲んでいた。




 食後、エナは気分転換もかねて、リリーと庭園を散歩していた。西部の空気は少し冷たいが、日差しは優しく、庭にはまだ乾いた土の間に可憐な花が芽吹き始めている。


「この辺りはもう春なんですねえ……奥様、顔が和らいでますよ」

「リリー、あなたさっきから“奥様”って言うたびに笑ってない?」

「えーそんなこと、ありませんよぉ?  私、毎日『奥様! 奥様!』って呼んで練習したい気分なんです!」


 軽口をたたきながら歩いていると、メイド頭のマーサが近づいてきた。年配ながらも姿勢はしゃんとしており、使用人たちにとっては威厳ある存在のようだった。


「奥様、少しよろしいでしょうか」

「……ええ、なにかしら?」

「旦那様からお聞き及びかもしれませんが、屋敷の奥方としての日常の業務――すなわち食堂の手配、洗濯物の指示、使用人への通達、外部からの来訪対応などについて、これから引継ぎを……」


 ずらずらと説明が続いた瞬間、エナの顔がわずかに引き攣った。都会育ちのエナにとって、屋敷の管理など未知の領域だった。しかし、政略結婚とはいえ、奥方として務めを果たさなくては、と腹を括ろうとしたそのとき――。


「それについては……」


 ふいに背後から、落ち着いた声が割り込んだ。アシュレイだった。いつの間にか、庭の石畳の上に立っていた。彼はいつだって、エナの危機を察知するかのように、絶妙なタイミングで現れる。


「エナには、当面そうした務めを課さないようにと、私はマーサに申し伝えてあるだろう?」

「……旦那様、それは……」


 マーサが困惑した表情を浮かべる。


「慣れぬ土地に来たばかりだ。西部は都とは勝手が違う。まずはゆっくり、この家の暮らしに馴染んでもらうことが先決だ。今まで通り、マーサが主導権を握ってくれて構わないよ」


 アシュレイはあくまで穏やかだが、その言葉には辺境伯としての絶対的な意志が込められていた。


「承知いたしました」


 マーサが恭しく頭を下げて去っていく。残されたエナは、むっとしてアシュレイを見上げた。


「……わたし、そんなにか弱く見える?  それとも、ただのお飾りの奥方だと思っているんですか?」


 エナの毒が、彼に向けられる。だが、アシュレイは動じることなく、優しくエナのふわふわの髪を撫でた。


「いいや、か弱くなど見えないよ。君は、とても強い女性だ」

「だったら、そんな過保護みたいなこと――まるで、手のかかる妹に接するみたいにしないでください!」


 アシュレイはふっと笑う。その笑みは、否定ではなく、すべてを肯定するようなものだった。


「君は、頑張りすぎる性格だ。そして、都の伯爵令嬢として、不慣れなことを無理にしようとして、張り詰めてしまうだろう?  だからこそ、少し肩の力を抜いてほしいんだ。西部は逃げない。この屋敷も逃げない。君が落ち着いてからで、すべて間に合う」

「……言われなくても、平気だし!  むしろ、あなたの余裕に腹が立ってるだけよ!」

「それは安心だ」


 アシュレイは楽しそうに、もう一度、エナの髪をそっと撫でた。


「……優しすぎると、つけあがりますわよ?」

「構わない。君のわがままも、毒舌も、何度でも受け止めるよ。この辺境の地で、君が一番大切にされるべきなのだから」


 その即答に、エナはぐっと詰まった。彼は、エナが発する毒を、単なる「わがまま」や「子供の反抗」として扱っている。それは、エナの毒舌の威力を削ぐ、最も効果的な方法だった。


(なにそれ、意味わからない……。くそ、余裕の塊……!  このままじゃ、わたしの毒がただの甘えになってしまうじゃない!)


 けれどその胸の奥が、ほんのりとあたたかくなるのを、エナは否定できなかった。彼の過保護な優しさは、彼女がこれまで求めていた、しかし得られなかった、絶対的な庇護のようなものだったからだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ