19.見過ごせない優しさ
「――アシュレイ。わたし、やっぱり……貧しい子たちのために、何かしたいの」
そう言ったとき、彼はすぐに反対しなかった。ウエストヴェイルの朝はまだやわらかく、東の窓から差す光がふたりの食卓を金色に照らしていた。
「昨日の、あの子たちのこと?」
アシュレイは温かい紅茶を啜りながら、エナの瞳をまっすぐに見つめた。
「ええ……。わたし、思ったの。お金を『あげる』だけじゃ意味がないって。でも、だからって『何もしない』のは、違う気がするのよ。あのまま放置すれば、あの小さな命は、やがて寒さと飢えで消えてしまう」
エナの言葉には、以前のような『強がり』や『焦り』はなかった。代わりに、領主の妻としての、静かで強い決意が宿っていた。
「……うん。その通りだ。君の心が痛むのは当然だよ」
「わたし、もう見て見ぬふりはできないの。領主の妻なんだもの。――辺境伯夫人として、きちんと何かを始めたい。彼らが自立できるための『仕組み』を」
アシュレイはパンをちぎる手を止めた。彼は、エナが『衝動的な優しさ』から『建設的な理性』へと、一線を越えたことを理解した。
「いいと思うよ。喜んで君を支援しよう」
「……ほんと? よかった、反対されるかと」
「反対はしない。だが、君が思っているより簡単な話じゃない。理想だけで成り立つものじゃないからね。領地経営と同じで、『現実』と向き合う必要がある」
アシュレイがティーカップを置くと、その音が静かに響いた。ここからは、夫婦の愛の会話ではなく、領主とパートナーの真剣な議論だ。
「例えば、君が思い描くように『職業支援』をしたいと思ったら、まずは彼らに『働ける力』があるかを確かめる必要がある」
「……年齢とか、体力とか、教育の有無?」
「そう。そして『雇う側』の人間にも準備が要る。教える時間、作業の段取り、そして何より――給料をどう捻出するか、その財源を考えなければならない」
エナは背筋を伸ばした。彼女の頭の中で、数字や項目が渦を巻き始める。
「じゃあ、学校ならどうかしら? 読み書きや計算ができれば、きっと将来、自分で職を選ぶ力にも繋がるはず」
「うん、素晴らしいアイディアだ。だけど、学校を建てるなら場所が要る。建材の費用、先生を雇う給金もいる。生徒が空腹で集中できないなら、給食まで考える必要も出てくる」
「……お金の問題、『資源』の問題ばかりね」
アシュレイは静かに頷いた。
「現実を変えるのに、必要なものは『気持ち』と『資源』だ。どちらか片方じゃ、足りない。そして、資源を動かすには、『仕組み』と『予算』が必要だ」
「……でも、だからといって、何もしないのは違うわ。わたしは、『仕組み』を作ってみたい」
エナの言葉に、アシュレイの目が細められる。それは、彼女の決意を試すような、真剣な眼差しだった。
「君に一つ、宿題を出そうか」
「宿題?」
「『もし、この領に学校や職業支援所を作るなら、どうやって予算を捻出する?』」
エナは目をぱちぱちと瞬かせた。その質問は、彼女が最も苦手としていた領域だ。
「え、ええと、それってつまり……?」
「君のアイディアを、僕に提案してみてほしい。『現実の中で』どう成り立つかを、考えてみて。必要な費用を計算し、どこからその費用を『移す』か。それが、君の『真の優しさ』を形にする第一歩だ」
「わ、わたしが……? 予算なんて、この前の臨時の確認で精一杯だったのに」
「うん。きっとできると思うよ。君は、この前の予算見直しでも正しい判断ができた。今回も、僕は君の創造性と実行力を見てみたい」
「…………」
(いきなり、ハードル高すぎない!? というか、今度は『宿題』!? わたし学生だった頃から、数学とか予算の数字って仲良くできなかったのよ!?)
「わたし、ほら……感性派っていうか、芸術肌っていうか……そういうのじゃなかったっけ……数字は嫌いよ……」
「うん、知ってる。だが、僕の隣にいる人は『ただの芸術肌』じゃなくて、『未来を作れる人』だと思ってるから。君の優しさを、僕が『理性と経験則と知性』でサポートする」
「……ズルいのよ、そういうの」
「何が?」
「そういう、全肯定顔で信頼するの! やるしかなくなるじゃないの! 私の逃げ道を、塞いでいるのよ!」
それでも、エナの中にはちゃんと『芽』が育っていた。それは、アシュレイの期待と、領民の苦しみという名の栄養だった。
(お金を渡すだけじゃなくて、『生きていく力』を渡す方法を――わたしに、それができたなら、本当に、『アシュレイの対等な妻』になれる!)
その夜、エナは部屋の机でリリーに「計算石だっけ? 計算が楽になるやつ貸して」と頼み、にわかに政務モードに突入した。
「奥様……電卓って、あの『計算石』ですか?」
「そうよ! ポチポチって押すと数字が出るやつ! 記録魔法石と連動してるのがいいの! 早く!」
「は、はい! すぐ用意します! 旦那様、奥様に何てことやらせてるんですか!」
(……わたし、絶対あなたの期待に応えてみせる。『子供』扱いはさせないわ!)
アシュレイの言葉が、胸にじんわりと灯っていた。夜通し、エナは予算書と格闘し、何度も顔を洗った。苦手な数字と向き合うのは苦痛だったが、その先に子供たちの笑顔があると思えば、耐えられた。
数日後。
「これが……君の案?」
「ええ! 見なさい、わたしの魂のこもった予算案を! 『愛』と『理性』の結晶よ!」
「……字が丸いね。相変わらず」
アシュレイは微笑みをこらえた。
「うるさいっ! でも読みやすいでしょ!? 項目ごとに色分けもしたんだから! これが私の『芸術肌』よ!」
アシュレイは微笑みをこらえながら、丹念に目を通した。驚くほど論理的で、無駄がない。
「……へぇ、今期の祭礼予算を一部縮小?」
「だって去年の花火、派手すぎたって言ってたじゃない。ちょっと減らしても、『愛』でカバーできるわ」
「君、意外と容赦ないんだね……。必要と不必要の線引きが明確だ」
「要るものと、今は『後回しでいいもの』を分けたの。あと、屋敷の調度品も買い替えを遅らせたわ!」
「おや、これは僕の書斎のソファじゃない? 座り心地がいいやつだが」
「座り心地はいいけど、まだ使えるわ。ここは『夫婦の愛』でカバーよ! 精神的な豊かさが、調度品の価値を上回る!」
「……これは敵わないな。君の熱意に、論理が負けたよ」
「ふふん、当然でしょ。わたしを誰だと思ってるの?」
アシュレイは資料を閉じて、目を細めた。その瞳には、深い愛と、そして尊敬の色が浮かんでいた。
「エナ」
「なに?」
「君なら、本当にこの領を『変えていける』かもしれないね。君の優しさと、僕の理性を合わせたなら」
「……まだ始まったばかりよ。これからよ、『真の辺境伯夫人』としての道は」
「そうだね。でも、もう『始められる』だけの覚悟と『資源』を集める力を持ってる。素晴らしい、エナ」
エナは頬を染めて、わずかに口を尖らせる。
「またそんな大人びた顔して……ほんと、ズルいのよ、あなたは」
「それ、今日だけで3回目だよ。そろそろ違う言葉で褒めてくれないか?」
「うるさいっ! 私の感情を弄ぶな!」
ふたりの笑い声が、夕暮れの書斎に優しく響いた。彼らは、もはや単なる政略結婚の夫婦ではない。愛と理性で未来を共同創造する、最高のパートナーとなっていた。
執務室の壁と化した護衛騎士のセリアとティナ。顔を見合わせて小声で主夫婦を観察し、話し合う。
「奥様が真剣に帳簿見てるの……初めて見ました。しかも、お茶の時間を削ってまで」
「電卓石の連打がすごくて、魔力が火花散らしてたわ。でも、その情熱が領地を救うのね」
「その横で旦那様が満面の笑みで『かわいい』って……もうラブラブがダダ漏れ。羨ましい」
「エナ様の政務姿、意外と絵になるのよね。『毒舌会計士』って感じで」
「うん。あとは数字に勝てば、辺境最強の夫婦になると思う」
「それが最大の敵だね。でも、旦那様はその『最大の敵』も含めて愛しているのだから、私たちはもう見守るしかないわ」




