18.優しさの定義
ウエストヴェイル領の郊外、木立に囲まれた丘の上に、こぢんまりとした孤児院があった。清掃が行き届き、明るい雰囲気を持つその建物は、領の資金援助によって運営されている。
「ここが……?」
馬車から降り立ったエナが、控えめに門の前で足を止めた。普段の彼女の派手なドレスとは違い、今日は落ち着いた色合いの、動きやすい衣装を選んでいる。
「そう。領が特に力を入れている施設のひとつだ。以前から君にも一度、『領民の生活の隅々』まで見てもらいたかったんだ」
アシュレイが微笑むと、エナは小さく頷いた。
(……どんな子たちがいるんだろう。わたしなんかが行って、迷惑じゃないかしら?)
ちょっとだけ胸が高鳴る。少しの緊張と、ちょっとの不安と、ほんの少しの期待を抱えながら門をくぐった。
中庭に出た瞬間、エナは一斉に駆け寄ってきた子どもたちに囲まれた。彼らは、美しいドレス姿のエナを見て目を輝かせた。
「うわぁぁああっ! お姫さまだー!」
「ほんとに!? ほんとのお姫さま!?」
「わー! ドレスきれい! お花のにおいする!」
エナはたじろいだ。王都の社交界では、こんなに無遠慮に人に触れてくる子供はいない。
「ちょっ、あの、あんまりくっつかれると……きゃっ!」
しゃがみ込んだ子のひとりに、ふわりとスカートを掴まれ、エナはバランスを崩しそのまま芝にぺたんと座り込んでしまった。
「あー! お姫さまがこけた!」
「どじっ子姫ー! やったー!」
「し、失礼ね!? わざとよ! これは『親しみやすさ』の演出なの! 転んだんじゃないの、座ったの!」
「えー?」
「でもスカート汚れたよ?」
「“えー? ”じゃないの!」
思わずむくれてしまったエナに、子どもたちはさらに大爆笑。その笑い声は、雲一つない青空のように澄んでいた。
(……うう、なんか、調子狂う。わたしの『辺境伯夫人モード』が通用しない!)
でも、エナはすぐに笑っていた。屈託のない子どもたちの声に、心がふわりと軽くなっていくのを感じたからだ。彼女の『ツンデレの殻』が、子どもたちの純粋さによって、あっさりと破られてしまった。
アシュレイは少し離れた場所で、その様子を静かに見守っていた。彼の目には、エナへの深い愛情と、穏やかな満足感が浮かんでいた。
孤児院の中では、職員とともに子どもたちが手作りした刺繍や絵を見せてくれた。彼らが、ここで安全に生活し、学ぶ機会を与えられていることがエナにも伝わってくる。
「見て見てー! これ、先生と一緒に作ったの! 将来、騎士になるんだ!」
「この服は、奥様に似合いそうって思って描いた! お花いっぱい!」
「まぁ……ありがとう。とても嬉しいわ! これ、大切にするね」
エナはひとりひとりに笑顔で応えながら、優しく寄り添っていった。彼女の目線は、もう「立派な奥方」のそれではなく、「一人の人間」の温かさを持っていた。
(もっとこういう場に、来なきゃだめね。領地が抱える問題なんて、机上の書類だけじゃ絶対にわからないわ。知らないままで、平気なふりしてたなんて、なんだか恥ずかしいわ。アシュレイは、わたしに、こういう『真実』を見てほしかったのね)
そんなエナの横に、アシュレイが並んだ。
「君が来てくれて、子どもたちは本当に嬉しそうだった。彼らにとって、君は『希望』の象徴だ」
「わたしも、来てよかったって思ったわ。ありがとう、誘ってくれて」
エナの表情は、ほんの少しだけ照れくさそうで、でも、真っすぐだった。彼女の心の中で、『領主の妻』としての責任感が、より具体的な『優しさ』へと昇華し始めていた。
視察を終え、夕暮れの街道へと戻る道――城下町の賑わいの一角で、エナはふと、小さな影に目を留めた。
「……あれ?」
ぼろぼろの服を着た、小さな男の子が、壁際に座り込んでいた。手のひらを差し出し、うつむいたまま、通行人にか細い声をかけている。それは、孤児院で見た、活発で屈託のない子どもたちとは全く違う姿だった。
「……ごはん、くださ……い……」
エナは、いても立ってもいられなくなった。彼女の心は、感情的な衝動に突き動かされた。
「あの……これ、ほんの少しだけど……」
懐から取り出した小銭入れから、小金貨を一枚取り出し、そっとその子の手に握らせた。
「っ、あ、ありがとう……ございます……!」
男の子はぱっと顔を上げ、泣きそうな声でお礼を言った。その様子に、エナの胸はきゅっと締めつけられる。しかし、その高額な施しが呼び水となってしまった。
「なあ、今あの奥さん、金くれたぞ!」
「ほんとだ! こっちにも!」
「わたしにも! おなかすいてるの!」
周囲にいた、同じような身なりの子どもたちが次々とエナの周囲に集まってくる。彼らの瞳は、飢えと切望に満ちていた。
「えっ……あ、ちょっと待って、順番……?」
「おねえちゃん、こっちもー!」
「ぼくも、おかね!」
(……どうしよう。全員には、配りきれない。このままでは、争いになってしまう!)
困惑しきったエナの横で、アシュレイが静かに、しかし威厳をもって手を挙げた。
「……今回は、皆に等しく分ける。静かに並びなさい」
彼は腰の袋から数枚の銀貨を出し、子どもたちにひとりひとり分けていった。彼の冷静な対応に、子どもたちは静かになった。
「だが、これは『今回だけ』だから。領の者が毎日施しをすることはできない。わかるね?」
子どもたちは頷き、礼を言って走り去っていった。
「……ごめんなさい」
帰りの馬車の中、ぽつりとエナが口を開いた。彼女は自分が犯した過ちの重さに気づいていた。
「わたし……勢いで、高すぎるお金を渡しちゃって……そしたら、あんなことに」
アシュレイは、穏やかに首を振る。
「君の優しさは、何も間違ってないよ。君が彼らの苦しみに目を向けたのは、素晴らしいことだ」
「でも……わたし、浅はかだった。何も考えずに、衝動的に動いてしまった」
「うん。厳しいことを言うけど……お金をあげるのは簡単だ。だが、一度あげてしまうと、『依存』と『期待』を生む。彼らが生きるための『仕組み』を与えずに、ただ与え続けると……それが『正義』のようでいて、『呪い』にもなる。君が最初に渡した金貨は、彼らの間で争いを引き起こしたかもしれない」
エナは唇を噛んだ。彼の言葉は鋭いが、真実だった。
「それでも、君が立ち止まって目を向けたこと。それは間違いなく『第一歩』だ。そして、君は今、その結果を冷静に分析している。それが『大人』のすることだよ」
「……第一歩?」
「そう。君は今日、『優しさをどう使うか』を考えるきっかけを得た。『感情』だけでは、人は救えない。『理性』と『仕組み』が必要だ」
アシュレイは、そっと彼女の手を握った。
「だから……焦らず、少しずつでいい。僕と一緒に、彼らが『自立して生きるため』の『本当の優しさ』を、見つけていこう。君の優しい心と、君の理性が合わされば、それができる」
エナの瞳が、静かに揺れた。彼の言葉は、彼女の『弱さ』を非難するのではなく、『未来』への希望を与えていた。
「……あなたって、ほんとに……ずるいわ。なぜ、いつもそんなに優しいの……」
「またそれ?」
「だって……そんなふうに言われたら……好きにならずにいられないじゃない……。あなたの優しさは、ずるい愛情よ」
馬車の窓から射し込む夕陽の中、ふたりの指がそっと重なった。
馬車近くで騎乗する護衛騎士、セリアとティナ。ふたりは顔を見合わせ、溜息をついた。
「奥様、またひとつ『大人の階段』登りましたね。旦那様は、奥様を単なる『愛玩の対象』としてではなく、『対等な領主のパートナー』として育てていらっしゃる」
「なんかもう、夫婦の会話が『愛の哲学』の域に達してて眩しいです。私たちの『いざ』ってとき用シミュレーションなんて、子供の遊びだわ」
「私たちも見習いたいわね。『理性と愛』のバランスを」
「……あのふたりに近づくには、あと5段階くらい『人生の修行』が必要だと思います。まずは『お金の渡し方』から勉強しないと」
「ねぇ、まずは旦那候補から探さない? 哲学的指導をしてくれるような……」
「それだ! 今夜は『理性と愛情の最適な配分』について、真面目に作戦会議をしましょう!」
辺境伯夫婦の教育的かつロマンチックな視察旅行は、騎士たちに新たな『人生の課題』を残し、幕を閉じた。




