17.初夏の散歩と功績
初夏の風が、麦の穂を軽やかに揺らしていた。今日はウエストヴェイル領の視察日――とはいっても、肩肘張ったものではない。アシュレイが「気軽な散歩」として提案した、ふたりきりの馬車の小旅行だ。護衛はセリアとティナが務めているが、彼らは少し離れて、夫婦の時間を尊重している。
「いい天気だわね。風も気持ちいいし、新緑が目に鮮やかだわ」
窓の外に目を向けるエナは、どこか誇らしげだった。視察ルートの大半は、この数ヶ月間で彼女が改善の指示を出した村や施設、街道ばかりだ。彼女は、王都にいた頃の自分からは想像もできないほど、この領地に深く関わっていた。
「今日は君の『足跡』を、僕にもちゃんと見せてくれる日だね。楽しみだよ、エナ」
アシュレイの言葉に、エナはわずかに照れたように微笑む。
「わ、わたしは別に……! 皆の意見をまとめて、ちょっと整理しただけよ! ほら、『本当に必要なところ』に予算を回すのが一番大事だって、あなたが常々言っていたことでしょう?」
「うん、その通りだ。でも『その目を持ってる』君だから、効率的に実行できたことだよ。僕が戻る前に、領内の隅々まで掌握してくれていた。感謝している」
「…………っ」
(ほんと、たまにこういうことサラッと言うのよね……心臓に悪いわ! 反則よ、ほんと)
エナは顔を背けたが、その表情は歓喜に満ちていた。彼女にとって、アシュレイからの「対等な評価」は何よりも価値があるものだった。
一つ目の視察先は、麦の生産量が伸び悩んでいた小さな村だった。かつて、老朽化した農具と灌漑設備が原因で収穫量が減少していた村だ。エナは報告を受け、丁寧に帳簿を精査し、予備費を削って新設備を手配した。
「おお、奥様! 辺境伯様!」
「辺境伯様も一緒とは……ありがたい! お二人に感謝を!」
村の人々が嬉しそうに集まってくる。彼らの顔は明るく、麦畑は黄金色に輝いている。
「見てください! 今年は立派な麦が育ちまして! これで冬を越せます!」
「小麦粉だけじゃなく、余剰分は街のパン屋に卸してるんですよ。おかげで収入が増えた」
「焼いたらフワッフワでねえ、奥様にも食べてもらいたいくらいだよ!」
(……よかった。ちゃんと役に立てたんだ)
エナの顔に、心からの笑顔がこぼれた。この地で、「自分がやったこと」が「誰かの喜び」になっている。その実感が、じんわりと胸を満たしていく。王都の華やかな社交界では決して得られなかった、生きた幸福感だった。
「奥様、これ――ささやかながらお礼の品です!」
村長が渡したのは、麦の穂で丁寧に編んだ小さなリースだった。麦の穂は、豊穣と生命の象徴だ。
「え、これ……」
「『豊穣と健康』のお守りです。奥様にいつまでも元気で、この地で笑っていていただけるように」
エナは胸に押し当てるようにそれを抱いた。彼女の瞳は潤んでいる。
「ありがとう。わたし、これずっと大事にするわ!」
視察はその後も順調に進み、道中の街道の整備状況や、診療所の備品の確認なども行われた。街の人々は「奥様が来た!」と色めき立ち、あちこちから「ありがとう!」の声が飛んできた。
(ほんとうに、よかった……怖がってばかりいた最初とは、大違いね)
そんな風に、少しずつ「この領で生きている実感」を得ることが、エナには何よりも嬉しかった。彼女は、領民の感謝の言葉こそが、「大人になった証」だと感じていた。
しかし――最後の『課題』は突然、夫婦の間に姿を現す。
「あっ……!」
舗装の甘い石畳でバランスを崩したエナが、小さくよろめいた。
「危ない!」
アシュレイが即座に彼女の腰を支え、そのまま引き寄せるように抱き止める。彼の腕の中に、エナの体はすっぽりと収まってしまった。
「……無理しなくていいよ。君の歩幅で、ゆっくり進めばいい。君は完璧だよ」
その一言に、エナの顔がばちんと真っ赤になった。彼女が恐れていた、「あの言葉」が飛び出したのだ。
「い、今の……どういう意味!?」
「……?」
首を傾げ、アシュレイは心底不思議そうだ。
「『君の歩幅で』とか、『無理しなくていい』とか……まるで子供みたいな言い方じゃない! わたしはもう、領主夫人としての責務を果たしたわ!」
アシュレイが少しだけ微笑む。それは、優しすぎて、エナには「優越感」に見えてしまう微笑みだった。
「違うよ。それは『子供扱い』じゃない。『大人としての余裕』がある君だから、そう言ったんだ」
「う……」
「僕の隣にいる君は、立派にこの領を支えてる。誇りだよ。だから……焦らなくても、君はもう『ちゃんと』大人なんだよ。これ以上、自分を追い詰めなくていい」
「…………」
アシュレイは、エナの「大人になりたい」という焦燥を見抜き、それを安心させようとしたのだ。だが、エナにはその優しさこそが、「大人」からの施しに感じられた。
「……エナ?」
「っ――うるっさい! 黙れこの溺愛変人辺境伯!!」
「……ああ、また毒舌が出たね」
「だって、だってそうじゃない! 急にそんな大人扱いして、優しいこと言うから、こっちは……こっちは心の準備がっ……!」
「心の準備、必要だった?」
「……必要よぉぉ!! 乙女心なめるなぁぁ!!」
夕刻。馬車の中、ふたり並んで座っている。領主館までの道のりだ。エナは頬を膨らませ、まだ少しだけむくれていた。手に、麦の穂のリースを大事そうに抱いている。
「ほんと、ずるいわよね。いつもそっちばかり『大人』で、わたしの気持ちを先回りして……」
「君も立派に大人だったよ。今日の領民たちの笑顔が証拠だ。君は、君自身が思うよりずっと強い」
「……う」
アシュレイがそっとエナの手を取る。
「でも――君が時々、『子供っぽく』なって、僕に甘えてくれるのも、僕は好きだよ。その時だけは、君を『愛しい子』として思いきり甘やかせるから」
「……もう、ほんとにずるいんだから」
エナは、抵抗することをやめた。そして、ふいにアシュレイの肩にもたれかかる。
「……あ、これは子供っぽくないわよ。単に疲れただけ。だから勘違いしないでよね。肩借りてあげるって言ってるだけよ」
「はいはい、わかりました。ありがとう、奥方様」
ふたりの笑い声が、馬車の中に優しく響いた。
馬車近くで騎乗する護衛騎士、セリアとティナ。ふたりは顔を見合わせ、談話する。
「奥様、だいぶ『ツンデレの技術』に磨きがかかってきましたね。あの『肩借りてあげる』は、究極の甘えでしょう」
「『甘さの後に毒』って最高にくすぐりますよね~。アシュレイ様、奥様の『可愛さ』に耐性あるのかな?」
「あるわけないでしょ。絶対毎日萌え死にかけてるに決まってるわ。あの笑顔がもう『悶絶一歩手前』の顔よ」
「ちょっとわかる。主に同情。奥様が強くなればなるほど、旦那様は可愛さの暴力で倒されていくのね」
「ええ、主に『萌え苦しむ主』に同情。我々の護衛対象は、領主夫人だけでなく、領主様自身の心臓も含まれることになりましたね」
領主館に到着し、自室に戻ったエナは、麦の穂のリースをドレッサーに飾った。
「……次は、あなたに『可愛い』じゃなくて『愛しい』と言わせてみせる」
エナは、リースに誓った。しかし、彼女の心はもう、以前のように焦ってはいない。アシュレイは彼女を「大人」としても「子供」としても愛している。そして、彼女が最も欲しがっていた「この地での居場所」を、彼は与えてくれた。
ノックの音。扉を開けると、アシュレイがそこに立っていた。
「今日のお茶、とても美味しかったよ。ありがとう、エナ」
アシュレイがそっと、彼女の額にキスを落とした。
「……もう。次は、ちゃんと紅茶を淹れてあげるんだから」
エナは、彼の顔に手を添え、そっと自分から唇を重ねた。
ちゅっ。
控えめだが、愛情に満ちたキス。アシュレイは、優しく彼女を抱きしめた。
「うん。愛してるよ、エナ」
「……わたしもよ、ずるい辺境伯様」
辺境伯夫婦の間に、愛と信頼という名の、永遠の初夏が訪れていた。




