16.子供卒業大作戦
ウエストヴェイルの空は、今日も青く澄み渡っていた。そしてその青空の下、エナとアシュレイは、領主館の広大な庭で、実に穏やかなティータイムを過ごしていた。鳥たちの囀りが、二人の静かな時間を祝福しているかのようだ。
「うふふ……このブレンド、成功ね。アッサムとセイロンの配合が完璧だわ。お茶請けのレモンケーキとの相性も抜群だもの」
エナは、自ら調合した特製ブレンドティーを一口啜り、得意げに胸を張った。
「うん。香りも良いし、味も軽やかで、後味がすっきりしている。君の選定、大正解だったよ。エナは本当に、食のセンスがいいね」
「そ、そうでしょう! ふふふ、見る目があるのよ、わたしは! これが『辺境伯夫人のたしなみ』よ」
エナは「ふふーん」と鼻を鳴らしてみせるが、その口元には隠しきれない嬉しそうな笑みが浮かんでいた。アシュレイに褒められると、つい強がってしまうのはいつものことだ。
広い庭の東屋には、ふたりきりのティーセットと、ふたりぶんのゆっくりとした空気。久しぶりの「予定がない日」。それだけで心がほぐれていく。しかし、エナの心の内では、激しい闘志が燃え上がっていた。
(でも、今日は……ただのんびりして終わりじゃないわ! わたしには、もう一つ――『大人の妻』になるという、大きな野望があるのよ!)
彼女の脳裏には、先日、アシュレイに「子供っぽい」と笑われた屈辱が焼き付いている。そして、あの夜、逃げ出してしまった『夫婦の務め』のリベンジを果たさなければならない。
その名も、『子供卒業大作戦 - キスでビビらせろ編』。
――内容:アシュレイに「もう子供じゃない」と強く印象づけるべく、先手必勝で『大人のキス』を仕掛け、彼の余裕を打ち砕く。
エナは、ティーカップを静かにソーサーに戻し、意を決した。手のひらがじんわりと汗ばんでいる。
「……アシュレイ」
「ん? どうしたんだい?」
「ちょっと、こっち向いて。話があるの」
「……?」
アシュレイは、微かに茶葉の香りを楽しみながら、首をかしげた。彼は、エナが何か重要な政務の相談をするつもりだと思ったのだろう。素直に彼女のほうへ視線を向けた。
(いまだッ!! この隙のない、油断した表情が狙い目よ!)
エナは一気に顔を近づけて――。
「ちゅっ」
ふに、と唇に触れる程度の――実に控えめな、“脱・子供”口付け。それは、まるで焼き立てのレモンケーキを軽く試食するような、一瞬の接触だった。アシュレイは数秒固まった。その端正な顔は、完全に意表を突かれたようだ。そして、ゆっくりと瞳を細めて言った。
「……ふふ。君から、そう来るとはね。驚いたよ」
「い、いけなかった……?」
エナの心臓は、口から飛び出しそうなほど高鳴っていた。彼の予想外の反応に、成功の手応えを感じる。
「いや、最高だったよ。とても可愛らしかった」
(「可愛らしい」!?)
「だから――」
アシュレイはスッとエナの手を取り、彼女を椅子から立たせると、東屋の柱に背を預けさせるように、その腰を強く抱き寄せた。
「え、ちょ、ちょっと――」
顔を真っ赤にしたエナがじたばたする暇もなく、アシュレイの顔が近づき、彼女の唇に触れる。
「んっ……!」
今度は、アシュレイの方から、深く、熱く、まっすぐな口付けが降ってきた。それは、先ほどのエナの「試食」とは違い、「すべての甘さを味わい尽くす」ような、長く濃密な口付けだった。
……数秒後。口付けから解放されたエナは、ぐらんぐらんになっていた。彼女の脳内は、春の強風が吹き荒れた後のように混沌としている。
「な、なによ今のはっ! そっちのが大人じゃないの! というか大人過ぎるのよ!!」
彼女は息を切らしながら、アシュレイの胸を叩いた。
「だって、君が『大人のキス』を仕掛けてきたから、僕も『大人のキス』で返したんだけど? これが、愛しい妻への夫の返礼だよ」
アシュレイは、満足そうに微笑む。
「わ、わたしのは『大人もどき』だったのよ! お子様が無理して大人ぶっただけよ! なんで空気を読まないのよ!?」
「……つまり『可愛い』ってこと?」
「ぐっ、くっそぉぉおぉ!! また『可愛い認定』された!! わたしの『子供卒業大作戦』が、一瞬で『小鳥の戯れ』に格下げされた!」
しゅん、としながら、エナはそのまま芝生に突っ伏した。彼女の顔は、レモンケーキよりも甘酸っぱい色に染まっている。その背中を、アシュレイが優しくぽんぽんと叩いた。その手つきは、完全に愛玩動物をあやす夫のものだった。
「……ごめん。つい調子に乗った。君があまりにも可愛くて、理性が吹き飛んだ」
「違うのよ……わたしが悪いの……! もう……一生ミルクティーしか飲まない子供として生きていくわ……! ブラックコーヒーなんて飲まない!」
「なんでそこで紅茶で年齢分けするの……? ブラックコーヒーを飲む大人が、完璧な大人とは限らないよ?」
「でも、僕は嬉しかったよ。君からのキス」
アシュレイは、エナの横に膝をつき、突っ伏したままの彼女に優しく語りかけた。
「…………ほんと?」
芝に突っ伏したまま、エナは半目のまま振り返る。
「うん。だって、君からそうしてくれるって、僕にとってはとても特別なことだもの。君の勇気と、愛情を感じたよ」
「…………もう、そういうことさらっと言わないでよ……! 破壊力がすごいのよ!」
「でも事実だからね? 君が僕を愛してくれていることが、私の力の源なんだ」
「だからその『さらっと』がずるいって言ってるのよ!! いっつも、いっつも……もう!」
ばっ! と跳ね起きたエナは、思いきりアシュレイの胸を指で突いた。
「次は! もっと『大人なわたし』を見せてやるんだから! ぜったいビビらせてやるから!! 紳士の仮面を剥がしてやる!」
「……うん。楽しみにしてるよ。君の熱意は、いつだって僕を驚かせてくれる」
「真顔で返すなぁぁぁぁ!!」
アシュレイは立ち上がり、エナの手を取った。
「ねぇ、アシュレイ。たまには……子供扱いしないでくれる? 対等な一人の女性として見てほしいの」
「……それは、ちょっと難しいかもしれないな」
「なんでよっ!?」
「だって、君が可愛くて仕方ないから。君の頑張る姿も、毒を吐く姿も、僕にとっては愛おしい。それは、子供扱いじゃなく、最愛の妻への愛情だよ」
「……~~~っ! その顔っ! その顔よぉぉぉ! 優しすぎるその微笑みが、わたしの『大人認定』を妨げてるのよ!」
アシュレイの微笑が優しすぎるとき、エナは大抵それを「子供扱いの証」として受け取ってしまうのだった。彼女にとっては、紳士的な包容力が、最大の愛情の壁となっていた。
「くっ……くそう……でも今日は……ちゃんと自分からキスしたし……頑張ったし……!」
「うん。本当に頑張ったね。ご褒美に――」
アシュレイは彼女の手を取って、そっと甲に口付けを落とした。
「『淑女』として、エスコートさせてください、エナ。そして、いつか君が望む時に、『妻』として、君を愛することを誓おう」
「……~~~っ……! も、もう、ずるい! あなたずるい人だわ!! わたしの心臓が持たないわよ!」
日が傾きかけた庭で、ふたりは並んでベンチに腰掛けていた。エナはまだ顔を赤くしながら、ひざを抱えて座っている。アシュレイは、そんな彼女の隣で静かに、しかし深い愛情をもって、彼女の淹れた紅茶を口にしていた。
「……次は、ちゃんとリードするから。見てなさいよ、アシュレイ。次は、逃げない」
「うん、期待してるよ。……君は、僕の『最愛の妻』だから。いつまでも、ね」
「……また、そういう顔する」
「うん。でも、君のそういうところが、やっぱり──一番可愛い」
「もおおぉぉぉ~~~~!! わたしの愛の戦いは終わらない!!」
辺境伯夫人の「大人脱却大作戦」は、今日も元気に失敗(?)を重ねているが、二人の愛の絆は、誰の目にも明らかだった。




