13.大人の務めと小鳥のプライド
春風が吹き抜ける穏やかな午後、アシュレイとエナは並んで執務室のデスクに向かっていた。アシュレイの帰還後も、エナは積極的に政務を手伝い、今や領主代理として定着していた。執務中のアシュレイのもとに、グレンがそっと手紙を差し出した。
「アシュレイ様、奥様宛に、領民の方々からの文が届いております。数日分のまとめでございます」
その封には、エナが対応した水害や物資支援を受けた村ごとの素朴な印が押されており、感謝の念が込められていることが一目でわかった。アシュレイは丁寧に封を開け、中の便箋を目で追った。筆跡は様々だが、綴られた言葉は一様に温かい。
「『辺境伯夫人様のおかげで、我らの村はまた春を迎えることができました』……『直接お話を聞いてくださって、村の誇りです』……ふふっ」
読み進めるうちに、彼の表情が和らいでいく。彼は感動したように顔を上げ、エナに手紙を見せた。
「エナ、すごいな。こんなにも多くの人たちが、君に感謝してる。君の判断が、彼らの生活を救ったんだ」
「っ……べ、別に……当然のことをしただけよ。あの人がいない間の、領主代理の務めを果たしたまでよ」
執務室の隅でお茶を啜っていたエナは、わずかに頬を染めながらそっぽを向いた。喜びと照れが混ざり合い、いつもより毒気が薄れている。アシュレイはそんな彼女に、優しさと愛おしさが滲むような、ふわりとした微笑を向けた。
「偉いね。君は立派に務めを果たした。本当に、僕の自慢の妻だよ」
「~~っ! そ、そんな当たり前のことを、いちいち言わなくていいのよ!」
(……褒められすぎて、顔が熱いわ。もうやめて!)
「でも、まだちょっと『子供っぽい』ところもあるかな。すぐに顔に出るところとか」
「……っ」
その一言で、エナの眉がぴくりと跳ね上がる。
(やっぱり。やっぱりそうなのよ! この人、どこまで行っても、わたしのこと『可愛い子供』としてしか見てないんじゃない!? 褒めてるようで、上から目線なのよ!)
彼女の心に、言いようのない悔しさが渦巻いた。政務を完璧にこなしても、どれだけ「愛している」と素直に伝えても、アシュレイの中の彼女のイメージは、「甘やかして守るべき、愛らしい子」なのだろうか。
その日の夜。エナは珍しく、自分の部屋で長く鏡を見つめていた。
(わたし……ほんとに『子供』なの? あなたのキスを拒んで、あなたの抱擁に甘えてばかりいるわたしは)
手紙をもらって嬉しかった。褒められて嬉しかった。でも、それ以上に悔しかったのは、アシュレイの「子供っぽい」という笑み。
(違うわ。わたしはもう『妻』なのよ。あの人に、『対等な女性』として、『一人の妻』として、見られたいの)
彼女は、政略結婚の前に、形式的に学んだ「夫婦の務め」を思い出す。それは、ただ愛の行為であるだけでなく、夫婦の絆を決定づける行為だと教えられていた。
(このままでは、わたしたちの関係は「飼い主と小鳥」のままだわ。そうじゃない。わたしは、あなたの『愛しい妻』になるのよ)
心を決めて、ケープを羽織り、廊下へ出た。夜の廊下は静かで、自分の心臓の音だけが大きく響く。アシュレイの部屋の扉の前に立つと、手が少し震えたけれど、それでもノックする。
「……どうしたの? エナ」
寝間着姿のアシュレイが扉を開け、少し驚いた顔を見せた。彼は、エナが夜に一人で部屋を訪れるのは、何かよほどの用事がある時だと知っている。
「こ、今夜は……その……!」
言葉が喉に詰まる。彼の穏やかな眼差しが、エナの覚悟を試しているように感じた。
「こ、子供じゃないんだから。ちゃんと、『夫婦の務め』は果たすわよ……!」
言った――! 顔は熱く、心臓は飛び出しそうだったけれど、エナは震える声で、はっきりと伝えた。アシュレイは驚いたように目を見開いたあと、すぐにその意図を理解したのだろう。彼はいつもの優しい苦笑に戻り、そっとエナの手を取って、部屋の中へ導いた。
蝋燭の灯る部屋の中。静寂の中、アシュレイは言葉を選ぶように口を開く。
「……エナ、本当にいいの? 『義務』だからじゃなく、君自身の気持ちとして」
「い、いいって言ってるじゃない! わたし、もう覚悟は――決めたわ。もう、あなたの『可愛い妹』みたいな存在でいたくないの」
彼女の必死な訴えに、アシュレイは胸を締め付けられる思いがした。
「……そうか。ありがとう、エナ。その気持ち、遠慮なく受け取るよ」
その低く甘い声と共に、アシュレイはゆっくりとエナの背を抱き寄せる。そのまま唇が重なり――それは、以前の軽やかなキスとは違う、熱意と感情を伴う口付けだった。
(……っ!)
最初は柔らかく、けれどすぐに熱を帯びた「大人のキス」に、エナの身体がびくりと震えた。彼の腕が優しく、されどしっかりと彼女の体を抱きしめる。胸の奥から、未知の何かがこみ上げてきて、それは恐怖と、戸惑いと、そして微かな期待の混ざった感情だった。
「や、やだ……! やっぱり、ちょっと……待って!」
エナは反射的に、彼の胸を押し返していた。彼女の体は、まだ真の「妻の務め」を受け入れる準備ができていなかった。「大人にならなければ」という理性が、「まだ怖い」という本能に、あっけなく敗北したのだ。
エナの言葉に、アシュレイは即座に手を離した。彼の表情に、失望の色はない。ただ、彼女への深い慈愛だけがあった。乱れた呼吸を整えながら、エナは恥ずかしさで顔を覆いたい衝動に耐え、彼をじっと見つめる。そして――アシュレイは、そっとエナの頬に触れ、頭をぽんぽんと優しく撫でた。
「無理して大人ぶることはないんだよ。君は、君のままでいい。君が私を『好き』という気持ちだけで、十分だ」
その微笑は、あの日、戦場へ向かう前に見せた「あの微笑」だった。優しすぎて、どこか哀しくて、そして「君の未熟さもすべて受け入れるよ」という、極限の包容力を示していた。
「な、なんでそういう顔するのよ……!」
目の奥が熱くなりかけたけれど、エナはぐっと堪えた。泣いたら、本当に子供だ。そして、得意の毒舌をぶつけるように言い返す。
「そ、そんなふうに頭撫でるの、やめなさいよ! 余計、『可愛い小鳥』扱いされてるみたいでムカつくのよ!」
「ごめんごめん。だが、エナのそういうところが、私を惹きつけているんだ」
「反省してる顔じゃないし! もう知らないわ!」
「でも、エナのそういう、意地を張るところも――好きだよ」
「~~っ、バカッ……!」
ぷいっと背を向け、ドアへ向かって歩き出す。その頬は真っ赤で、唇は微かに震えていた。彼女にとって、これは完敗だった。
扉を開ける前、エナはぴたりと足を止めた。そして背を向けたまま、ぽつりと呟く。
「……今日は、無理だったけど。次は……もう少しだけ、頑張るわよ。『子供じゃない』って、ちゃんと証明してやるんだから」
「うん、待ってる。焦らなくていい。君のペースで、ゆっくりと、ね」
アシュレイの優しい声に、エナはこっそり微笑みながら、扉を閉じた。
(いつか……いつか、ちゃんと『好き』という言葉で、あなたを受け入れられる日が来るのかな? その時、わたしはもう『子供』じゃないって、きっと言える)
夜の廊下を歩きながら、エナはそっと胸元を押さえた。彼女は今夜、「大人になる」というゴールが、想像以上に遠く、そして尊いものだと知った。
だが、この悔しさが、彼女の次の成長の糧になるだろう。エナは、アシュレイが用意した温かいケープに顔を埋め、彼の愛の深さを噛みしめた。




