12.辺境伯夫人
春風が屋敷を包み込むように吹いていた。空は青く澄み渡り、鳥たちの因りが穏やかに響く――その穏やかさの中に、今日という日を待つエナの鼓動だけが、微かに高鳴っていた。
「アシュレイ様、まもなく屋敷に到着されるとの報せが。最終確認が取れました」
セリアの報告に、エナは小さく頷いた。彼女は今日、最高級の白いドレスに、アシュレイが用意させたケープを外し、胸を張って立っていた。
「……わかったわ。玄関前で迎えるわ。グレン、騎士団への労いは万全に」
「承知いたしました」
ゆっくりと息を吐く。胸の奥で、小さな鼓動が跳ねる。早足で駆け出したい衝動を必死で抑え、背筋を伸ばし、辺境伯夫人としての誇りを持って歩いた。
(今度こそ、ちゃんと言うの。わたしの言葉で、ちゃんと。「立派な奥様」を演じるのは、もうやめるわ)
屋敷の正門前。風に髪をなびかせて立つエナの前に、ゆっくりと馬車が到着する。最初に降りてきたのはノエル。爽やかに笑って一礼すると、エナの顔に、「頑張って」という無言のメッセージを送り、さりげなく横に避ける。そして、そのあと――。
「……ただいま、エナ」
変わらぬ低く優しい声とともに、アシュレイが現れた。彼の顔には、疲労の色があるが、それは充足感に満ちていた。
(……無事だ。本当に、無事に戻ってきてくれた)
どんな報告よりも、目の前に彼が立っているという事実がすべてだった。エナは一歩、二歩と踏み出す。そして――。
「アシュレイ!」
エナは、周囲の視線も、ドレスの裾も、すべて構わず、まるで子猫が飼い主のもとへ飛び込むように、彼の胸に飛び込んだ。
抱きしめられる。温かくて、広くて、全身がほどけるような、究極の安心感に包まれた。この抱擁が、過去数日間のすべての不安を洗い流していく。
「心配……したのよ。無事で、よかった……」
エナの顔は、アシュレイの黒い軍服に埋もれていた。
「うん、ごめんね。君にそんな顔をさせてしまった。もう大丈夫だ」
エナは、彼の胸から顔を上げ、涙をこらえながら、まっすぐに彼を見た。そこにあるのは、誤魔化しのない、嘘のないまなざしだった。
「わたし、あのとき……毒舌で強がってたの。ほんとは、行ってほしくなかったの。怖かったの。あなたが危険な場所へ行くのが」
「……うん。知っていたよ」
「でも……『行かないで』なんて言ったら、あなたの『足手まとい』になる気がして。あなたの誇りを傷つける気がして、それがいやで。だから……ちゃんと、言えなかった」
喉の奥が熱くなる。でも、目は逸らさない。ここで逃げたら、今までと同じ「強がり」の自分に戻ってしまうから。
「だから……ごめんなさい。そして、ありがとう。わたしにこの屋敷を任せてくれて。信じてくれて。あなたのおかげで、わたし、少しだけ……頑張れたの」
アシュレイはしばし黙って彼女を見つめた。その瞳には、深い愛と、そして「誇り」が浮かんでいた。彼は、エナがこの数日で、「守られるだけの存在」から「共に立つ存在」へと、自力で成長したことを理解していた。そして、ふわりと微笑んだ。その微笑みは、もう寂しい色を含んでいない。
「……ううん。ありがとう、エナ。君がこうしてここで、待っていてくれたから。君がこの屋敷を完璧に守ってくれたから、僕はどんな戦も乗り越えられた」
そして、そっとその細い肩を抱き寄せ、もう一度――静かに、強く、彼女を抱きしめた。
「君を、誇りに思うよ。私の、対等な奥様」
その一言が、涙腺をゆるませた。言葉よりも深く、あたたかく、彼女の心の奥に届いた。エナは、彼の胸の中で、静かに涙を流した。
玄関から部屋へ戻ったのはしばらく後のことだった。ティナもセリアも、優しく微笑んで彼らを迎え、ノエルは「お邪魔虫は退散!」と宣言し、気を利かせて部屋を外していた。
落ち着いた空気が流れる執務室で、アシュレイは久々に腰を下ろし、ゆったりとした呼吸を整える。
「……やっぱり、ここが一番落ち着くな。君のいる場所は」
「ふふん、当たり前よ。わたしがいるんだから。わたしが完璧に、あなたの居場所を守ったんだから」
「はいはい、そうだね。最強の奥様だ」
「ちょっと! その『子供の戯言を受け流す』みたいな言い方やめてくれる!? わたし、もう子供じゃないわ!」
そこでちょうど、グレンが控えめに扉をノックした。
「お帰りなさいませ、アシュレイ様」
「ただいま、グレン。留守をありがとう。……どうだった? エナは」
グレンは穏やかに微笑んだ。
「奥様は……見事に務めを果たされました。政務の采配、領民との対応、そして書類の確認まですべてにおいて迅速かつ的確。ときに大胆な判断もなさいましたが、結果的にすべてが『的確』でした。特に、被災農家への直接的な支援は、領民の心を掴みました」
「……そうか」
「とても……立派に『辺境伯』の代わりを務めてくださいましたよ」
アシュレイの表情がふっとやわらぎ、彼の瞳は、誇らしげなエナに向けられる。そしてふいに――彼はエナの頭に手を伸ばし、ぽん、と撫でた。
「よく頑張ったね。偉いよ、エナ。私が思っていた以上に、君は強くて、賢い」
「~~~っ!」
頭を撫でられた瞬間、エナの顔が真っ赤になった。素直に受け止めたいのに、身体が拒否反応を起こす。
「ちょ、ちょっとやめてよ! 子供扱いしないで! わたし、もう大人なんだから!」
ぷいっとそっぽを向いて、腕を組む。でも耳まで真っ赤になっているのを、アシュレイもグレンも気づいていた。
「子供じゃないわ。立派な大人の女性よ! あなたの隣に立つ資格のある女性よ!」
「うん、うん。わかってる。もちろんだ。私も、君がいてくれて心強いよ」
「わかってない顔してる!!」
口を尖らせるエナの姿に、アシュレイは思わず笑みをこぼす。そんなやりとりの中にも、確かに息づく「信頼」と「親愛」。かつては戸惑いと強がりで包んでいた想いが、少しずつ、けれど確かに――真の絆という形になり始めていた。
その夜。ふたりは久しぶりに、広い寝室で肩を並べてベッドに座っていた。夜風がカーテンを揺らし、窓の外には満月が輝いている。
「ねえ……アシュレイ」
「ん?」
「……また、出陣とかあるの? ノエルは、国境の動きが気になるって言ってたけど」
「……あるかもしれない。辺境伯である限り、それは私の宿命だ」
エナは、先日のように強がることも、泣き出すこともなかった。彼女は少しだけ視線を落とし、静かに続けた。
「そのとき、また怖くなると思う。強がるかもしれない。怒るかもしれない。でも、逃げない」
「……うん」
アシュレイは、ただ静かに耳を傾ける。
「でも、それでも……待ってるから。あなたが誇りに思う、この屋敷を、領地を、わたしが守って待ってるから。今度は、ちゃんと『いってらっしゃい、無事でいてね』って言うから。だから……ちゃんと『帰ってきて』」
それは、政略結婚という契約を超えた、愛する者への誓いだった。アシュレイは一度ゆっくりと目を閉じ、彼女を抱きしめた。
「――約束する。エナ。君のところへ、必ず帰ってくる。君が私を待つ限り、私はどんな戦場からも、必ず君の隣へ戻る」
ふたりの距離はもう、かつてのように遠くなかった。政略結婚で始まった関係は、少しずつ少しずつ、確かな愛と信頼の絆へと変わっていた。そして、エナの心の中には、もうアシュレイの「包容力」に甘えるだけの「小鳥」はいなかった。彼の隣に、誇り高く立つ、「立派な辺境伯夫人」が誕生していた。
(この人となら、大丈夫だ)
静かな夜の闇の中、エナはそっと微笑んだ。




