11.できることをしたい気持ちは同じ
――朝から、空気が張り詰めていた。アシュレイの出陣から四日目。ウエストヴェイル邸の執務室では、エナが膝に書類を載せ、難しい顔をしていた。以前の彼女なら、この緊迫した空気に耐えられず、すぐに茶会へと逃げ出していたかもしれない。だが今は、彼女自身がその緊張の源となっていた。
「……なるほど、春の増水で川が氾濫し、農地の一部が被害を受けたのね。これは、単なる水害ではない。下流のダムの老朽化が原因にあるかもしれないわ。補助金の申請は……あった?」
エナは、ただ申請書を読むだけでなく、原因と対策にまで思考を巡らせていた。
「はい。ただ、補助金申請の書式に不備があり、現状では受理できない状況です。現地で対応に当たっている係官から、直接ご指示をいただきたいとの要請が――」
グレンがいつもと変わらぬ冷静さで説明を終えると、エナは唇を引き結んだ。彼女の銀色の瞳は、真剣に輝いている。
「わかったわ。今すぐ副官を現地に派遣して、被害の実態とダムの状態を調べて。正規の申請書の提出が困難な場合、こちらで代筆する。緊急事態よ、役所の形式にこだわっている場合じゃない。領民の命が優先よ」
グレンは、エナの即断即決に驚きを隠せない。都の貴族令嬢であれば、慣例を無視した判断などありえない。
「それと――」
エナは机の端に置いた地図に目を落とす。被害があった地域は、領内を縦断する主要な交通の要でもある。
「堤防の補修が急務ね。予算、予備費から捻出して。最速で人を集めて。……状況が落ち着いたら、被災者の避難先として隣村の空き家を使えるかも、確認して。食料と水の備蓄もすぐに送る手配を」
「承知しました。迅速に対応いたします。奥様の采配、旦那様も驚かれるでしょう」
グレンが深く頷くと、ティナがにこりと笑った。
「奥様、立派な采配ですわ。まるで、もう何年も辺境伯夫人をなさっているみたい」
「べ、別に……当然のことよ……。わたしが今この屋敷で一番『偉い』んだから、当然やることをやってるだけで……」
どこか強がるような言い方。でも、その表情にはほんの少し、自信の色が浮かんでいた。それは、アシュレイに「お利口な子」と笑われたくないという意地と、「誰かの役に立てた」という純粋な喜びの証だった。
(……アシュレイ。あなたが任せてくれたから、わたし、やってみようって思えたの。あなたに『守られるだけの小鳥』だなんて、絶対に言わせないわ)
あの人がくれた「信頼」に、応えたくて。だから今日も、エナは机に向かう。
一方その頃、南部との国境付近。アシュレイ率いる騎士団は、敵の根拠地から少し離れた渓流沿いの野営地で、最終的な作戦会議を行っていた。夜を徹した行軍により、騎士たちの顔には疲労が滲んでいる。
「武装集団の根拠地は谷に沿った廃村にありました。地形が複雑で、包囲には難があります。補給物資は外部から運ばれており、長期戦になれば民間に影響が出ます」
ノエルが地図の上に指を滑らせる。彼の目は、真剣だが冷静だ。
「包囲ではなく、“切り離し”だ。北と西を押さえて補給路を断つ。廃村は一つしかない。奴らが崩れた隙を突いて、最小限の戦力で制圧する」
静かに語るアシュレイの言葉に、全員が頷いた。その声は低く、しかし、彼の決断に迷いがないことを示している。
「……戦は避けられぬ。だが、血を流すのは最小限に。民を守るのが我々の役目だ。我々は、剣を持つ者だ。その責任を忘れるな」
アシュレイの目には、一点の曇りもなかった。彼はこの戦いのリスクを十分に理解している。だが、同時に、この戦いの先に何があるかも知っていた。
(留守を預けた以上……彼女に『悲しい報告』だけは持ち帰れない。彼女の守ろうとした屋敷と、領地を、完璧な形で維持しなければ)
馬上の姿でなくとも、彼は今、間違いなく「辺境伯」だった。彼の強さは、剣の腕前だけではなく、守るべきものへの愛によって支えられていた。
「……奥様。ご相談が」
昼下がり、政務の合間に中庭に出ていたエナの元に、セリアが申し訳なさそうに声をかけてきた。
「グリンツ村の少年たちが、急に屋敷に来てしまって……今、使用人が応対しておりますが、なかなか引いてくれません」
「子ども?」
「ええ。三人組で、旦那様に直談判したいと……。水害で被害を受けた村の子のようです」
エナは一瞬躊躇した。公務はグレンとセリアに任せるべきだ。だが、彼女は昨日、自分の中に芽生えた「誰かの役に立ちたい」という感情を無視できなかった。
「……わたしでいいわ。行くわよ、セリア。リリー、お茶を入れて、応接室に連れてきてちょうだい」
応接室に向かうと、そこには土で汚れた靴のまま立っている少年たちがいた。おそらく十歳前後の年齢。けれど、彼らの瞳は真剣だった。
「お、おれたちの畑が……洪水でやられて……でも、父ちゃん、病気で動けないから申請も行けなくて!」
「母ちゃん、泣いてたんだ……だから、なんとかしたくて! おれたちが伯爵様に話せば、きっと助けてくれると思って!」
泣きそうになりながら、必死に訴える声。彼らの必死さに、エナの心は震えた。彼女は、王都では見たことのない、領民の純粋な信頼の眼差しを初めて受け止めていた。エナは椅子に腰かけ、少年たちと同じ目線になった。
「……偉いわね。あなたたち、自分の言葉で話せたのね。ちゃんと届いたわ、あなたたちの勇気と気持ち」
「……えっ?」
少年たちは、突然の奥方の言葉に戸惑う。
「大丈夫。あなたたちの村の書類は、もう今朝、わたしが確認して、一番最初に手配を済ませたわ。必要な手続きはわたしが全部やっておく。畑のことも、体調のことも、すべてよ。あなたたちは今日は帰って、お母さんに『ちゃんと話してきた。奥様が全部助けてくれるって』って、伝えてあげて」
少年たちの目がまるくなり、やがてぱっと花が咲いたように笑った。
「ありがとう、お姫様!」
「……奥様、です!」
セリアが笑いながらツッコミを入れる。エナは、少年たちの笑顔がまぶしくて、思わず顔を背けた。けれど、そんなささやかなやり取りが、エナの胸をあたためていた。
(……アシュレイ。ねえ、わたしね……ちょっとだけ、立派な奥方に近づいたかもしれない。あなたに頼らず、わたし自身の力で、誰かを助けられた)
その夜。政務を終えたエナはひとり、屋敷の塔のバルコニーに立っていた。満月が照らす夜の空。風はまだ冷たかったが、心は不思議と穏やかだった。
(会いたいな)
ぽつりと、つぶやく。
(声が聞きたいな。……怒ってるかな。あのとき、ちゃんと「気をつけて」って言えなかった。あなたの手を握る勇気もなかった)
風が髪を揺らす。彼女は、自分の臆病さを責めた。けれど次の瞬間、エナの目元に力が宿った。彼女は、遠い国境の方角を見つめる。
「……帰ってきたら言うの。絶対に。今度は逃げないわ。『大好きよ、あなたしかいない』って、ちゃんと、伝えるんだから」
大人になるって、こういうことなのかもしれない。自分の弱さを認め、本当に欲しいもののために、プライドを乗り越えること。少しずつ、けれど確かに。
夜更け、南部国境。作戦開始の合図とともに、アシュレイたちの部隊が動いた。地形を読み、気流を読み、敵の動きを封じていく。彼の指示は迅速かつ的確で、部隊は迷いなく動いた。
「敵、動揺しています! 北側の補給路を完全に断ちました! 包囲完了!」
「部隊を三つに分けて、拠点を制圧する。ノエル、東側を任せる。徹底的に『民間に被害を出さないこと』が最優先だ」
「了解、兄上! 美しい手際で終わらせてきます!」
仲間の剣が、月光を反射して光る。敵は投降し始め、戦火は思ったより早く収束した。アシュレイの目的は制圧であり、殺戮ではない。彼の指揮は常に、「民の命」を最優先に置いていた。
アシュレイはひときわ深く息を吐くと、空を見上げた。雲間から見える月は、どこか「あの子の瞳」のようだった。不安を抱えながらも、この地で自分を待つ、芯の強い愛しい妻の瞳。
(無事を祈っていてくれたのか?)
ふっと、笑みが浮かぶ。それは、エナに見せた寂しそうな微笑みではなく、すべてが満たされた安堵の笑みだった。
(……すぐに、帰るよ。君の待つ、私が愛する屋敷へ)
彼は、この戦いが終わったことで、やっと心から安堵した。エナの元へ帰る「大義名分」ができたのだ。




