10.素直になれなくて
霧が晴れきらない早朝。辺境伯領の中庭には、静かな緊張が漂っていた。アシュレイがまとう黒い戦装束と、その隣で準備を整えるノエル。その背後には、選抜された百名規模の騎士団が、音もなく整列している。馬の蹄が石畳を打つ音だけが、辺境の静寂を破っていた。
「報告にあった通り、南部交易路沿いでの武装集団の活動が活発になってきた。今回は“偽装交易”の疑いが濃い。周辺に被害が出る前に、迅速に調査と排除を進める」
ノエルが小声で言う。アシュレイは静かに頷いた。彼の表情は、数日前の穏やかな夫の顔ではなく、冷徹な指揮官の顔に戻っていた。そして――。
「……行ってきます」
そう言って、アシュレイは振り返る。その視線の先、石畳の上には小柄な姿のエナが立っていた。白いドレスに、昼には珍しい、内側に毛皮をあしらったケープを羽織って。まだ肌寒いこの季節、彼女の冷え症をよく知っているアシュレイが、前夜にリリーを通して用意させたものだ。
「留守の間、屋敷のことをお願いしてもいいかい? 君なら、完璧にやってくれると信じているよ」
彼の言葉は、もはや「小鳥」への甘やかしではなく、「信頼」を込めた依頼だった。
「……ふん。そんなこと言われなくても分かってるわよ。わたしはあなたの奥方なんだから。……あんたが帰ってくる場所、壊すわけないでしょ。むしろ、あんたが驚くほど立派に、整えておいてやるわ」
背筋を伸ばし、顎を少し上げて。それは誰が見ても、立派な“辺境伯夫人”の姿だった。彼女は、昨夜誓った通り、最高のプライドを持って彼を見送ろうとしていた。けれど――アシュレイの瞳に浮かんだのは、どこか寂しそうな微笑みだった。
「……ありがとう、エナ」
(……あ、また)
あの微笑み。初めてのキスで心が通じ合ったはずなのに、なぜ彼はそんな顔をするのだろう。胸の奥をきゅうっと締めつけるような、優しくて、でもどこか“距離”を感じさせる、あの表情。
(やだ……そんな顔、しないでよ。どうして、別れ際なのに、抱きしめてくれないのよ……!)
駆け寄って、袖をつかんで、「行かないで」とか「寂しい」とか、素直な言葉を口にできれば、この冷たい空気を破れたかもしれない。だが、「立派な奥様」であろうとするプライドが、エナの足を石畳に縫い付けた。その前に、彼は踵を返し、馬に乗ってしまった。ノエルもエナに軽く会釈すると、兄の隣に馬を進める。
「アシュレイ――っ」
名前を呼んだが、その背中はもう遠ざかるばかりだった。騎士団の隊列が、霧の中へゆっくりと消えていく。
「……奥様。少し、休まれますか?」
セリアの、いつもよりずっと優しい声に、エナはかすかに首を振る。
「いいの。……仕事、あるんでしょ? やるわよ。やらせて。休む暇なんてないわ」
彼女の言葉に、グレンが静かに文書を差し出した。彼は、アシュレイが出発する直前に、「エナが仕事に没頭できるよう、忙しくさせてやってくれ」と密命を受けていた。
「では、本日の申請書は二十件。内訳は……こちらに整理してあります。まずは優先度の高い補給物資の件から。旦那様不在の間も、領民の生活は待ってくれません」
「うん……えっと、この集落は……春の雪解けによる水害の補修、ね」
エナは書面を見つめながら、懸命に記憶を呼び起こす。市場で見かけた農夫の顔。地図で学んだ村の位置。
「……ここの水車、小規模だけど、灌漑に使ってるはず。補給より、まず修繕じゃない? 修繕用の大工を先に回すべきよ。それが滞ると、夏作に影響が出る」
「正解です。奥様、的確ですわ。その判断力は、旦那様に引けを取りません」
ティナが嬉しそうに笑う。エナの判断は、見事にグレンの計画と合致していた。けれど、心のどこかではずっと、あの“悲しそうな微笑み”が残っていた。
(わたし、何か……言いすぎた? 最後の最後で、わたしはまた、素直じゃない自分を押し付けてしまった?)
毒舌。それはいつもの自分のやり方。でも、それが“彼を寂しくさせた”としたら。彼女の心は、政務の的確さとは裏腹に、深く沈んでいた。
昼過ぎ。政務の合間に、エナは中庭に出て、一人ベンチに腰かけた。手には温かい紅茶。グレンが、彼女が席を立つ瞬間に、さりげなく用意させたものだ。けれど心は冷えていた。
(アシュレイは、わたしの“強がり”を分かってて、だからああいう顔をしたんだわ。優しすぎるのよ。……ずるいくらい、優しい。素直になれないわたしの弱さを、すべて見抜いて、優しく受け入れた)
「……なんで、抱きしめてくれなかったのよ……」
ぽつりと、誰に向けるでもない言葉が零れる。
「……ほんとは、怖かったのに。また、一人でこの大きな屋敷に取り残されるのが」
行ってしまう背中に、「行かないで」なんて言えなかった。“領主夫人”としての誇りが、プライドが、それを許さなかった。でも、心のどこかで、分かっていた。――あの微笑みは、わたしが「素直な愛を求める女性」ではなく、「立派な奥様」になれるかどうかを、静かに見ていたのだと。
「奥様」
声に顔を上げると、グレンが少しだけ離れた場所に立っていた。彼は彼女の姿をそっと見ていたのだろう。
「……様子を見に来ただけです。お気になさらず。紅茶は温かいうちにどうぞ」
「……様子なんて、見なくていいわよ。わたし、別に泣いてないし。弱くなんかないわ」
「はい、見事なものです。奥様の気丈さは、我々がよく存じております。けれど……時に、気づかないふりも“優しさ”です。無理に強く振る舞う必要はありません」
「…………」
エナはそっと瞳を伏せた。グレンの言葉はまっすぐに、けれど押し付けがましくない。使用人としての距離感を保ちつつ、しっかりと心に届く。
「セリアも、ティナも、屋敷の皆が奥様を見守っております。旦那様も、奥様がこの屋敷を守ってくださると信じて、安心して行かれました。どうか、ご自分を信じて、日々をお過ごしください」
「……ええ、分かってるわ」
エナは深く息を吸った。吸い込んだ空気に、少しだけ春の匂いが混じっていた。彼女は、この屋敷の全員が、自分を「アシュレイの隣に立つ者」として受け入れていることを、実感した。
その夜。帳簿を読み終えたあと、エナはぽつりと呟いた。
「……わたし、大人になるわ。もう、あんな寂しい顔はさせない」
声に出してみると、不思議と気が引き締まる。アシュレイの隣に、対等な立場で立つには、まだ足りないものばかりだ。
けれど、あの人は言ってくれた――『一緒に歩いていこう』。ならば、止まってはいられない。
(次に会うとき、わたしはもう、強がりで毒を吐くような子供じゃない。ちゃんと胸を張って、心から「おかえりなさい、愛しい人」って言うんだから)
エナはそっと、執務机の引き出しを開けた。昨日、アシュレイへの感謝を綴りかけたままの、花柄の便箋。それは彼に宛てた、まだ出せない手紙。「あなたがいなくて寂しい」とも、「どうか無事で」とも書かれていない、ただの便箋。
いつか――素直に想いを伝えられる、「大人の愛の言葉」で手紙が書ける日のために。エナは再び、政務の書類に目を向けた。その瞳は、決意に満ちて、夜の暗闇の中でも輝いていた。




