01.唐突な縁談
春まだ浅き季節、フィリグリー伯爵家のサロンには静かな緊張が漂っていた。ふわりと白羽のような髪を揺らし、エナ・フィリグリーは長椅子の上にきちんと姿勢を正して座っていた。今日のために、彼女のお気に入りの、淡いラベンダー色のドレスを選んだが、その色は少しもエナの心を明るくしてくれない。彼女の隣には、付き添い侍女のリリーが、なにやらにやにやとした顔で待機している。リリーはエナの数少ない、心を許せる理解者だ。もちろん、理解しているからといって、エナの苦難を笑うという悪癖も持ち合わせているが。
向かいに座る父、ギルバートは、分厚い書類から目を上げ、静かに紅茶をすすった。優雅な所作だが、その奥には商売人としての鋭い計算が見え隠れする。
「――よい縁談だと思う」
その一言に、エナはぱちくりと瞬きをした。
「……は?」
信じられない。まさか、自分の結婚の話をされるとは思っていなかった。まだ十八歳になったばかり。しかも、まだ春の訪れすら本格的ではないこの時期に、いきなり政略結婚?
「お父様、わたくしはまだ社交界にデビューして一年と少し。もっと慎重に、わたくしに釣り合う相手を見定めてくださると思っていたのに……」
エナは悲劇のヒロイン然とした表情を作ってみせる。だが、ギルバートは鼻で笑った。
「おまえのあの毒舌と、小動物じみた外見のギャップに耐えられる男など、そうそういるものではない。すでに何人もの男が逃げ腰になったのだぞ」
「それは、わたくしの愛らしい毒舌の魅力が、凡庸な貴族には理解できないということですわ!」
リリーが後ろで「まあまあ」と囁きながら、笑いをこらえた。
「お相手は西部の辺境伯、アシュレイ・ウエストヴェイル閣下だ」
「ウエストヴェイル……聞いたことありませんけど」
エナは西部の辺境など、興味も関心もない。首都で優雅に暮らす伯爵家令嬢にとって、それは遠い世界の出来事だった。
「冷静で有能だ。五年前に若くして当主となり、現地の情勢を安定させた。民からの評判も高い。何より、彼の領地は国の西側、荒涼とした大地と砂漠の境界線にある。あの不安定な地域を統治し、隣国からの侵略を食い止めているのだ。これ以上の功績はない」
「国の西側……って、要するに、ただの僻地ってことですわね」
(だからって……いきなり他所の辺境に嫁げって、話が飛躍しすぎでしょ!)
エナは笑顔を作った。ぞくりと冷えるような毒入りスマイルである。それは、周囲の人間を凍らせるほどの威力を持つ、エナの最強の武器だった。
「父様……このふわふわで愛らしいエナを、よりによって荒野に押しやるおつもりですの? まあ、それはご立派な判断ですこと。お気楽な伯爵様は、蝶よ花よと大切に育てた娘が、砂漠の盗賊にでも攫われてから後悔なさるのですわね」
リリーが後ろで「でたでた、極上スマイル」と笑いをこらえた。ギルバートは平然と紅茶をすすりながら答える。
「ウエストヴェイル閣下は盗賊ではない。むしろおまえの毒にも耐えうる希少な男だ。それに、この縁談は国王陛下の意向でもある。ウエストヴェイル辺境伯領の安定は、王国の最重要課題だ」
(……失礼な。それに、国王陛下の意向なんて……)
エナの心は冷え切っていた。政略結婚。それも、全く知らない男、全く知らない土地への輿入れ。すべてが気に入らない。だが、父の目は本気だった。どれだけ反発しても、この結婚は決まっているという断固たる意志が、そこにはあった。エナは悟った。これは、彼女のわがままが通用しない、初めての戦いになるだろうと。
それから三週間後。準備期間は驚くほど短かった。伯爵家の権威と辺境伯家の切迫した状況が相まって、物事は驚くべきスピードで進んだ。
春の陽気と共に、フィリグリー伯爵令嬢エナは、ウエストヴェイル辺境伯アシュレイと結婚する。当然、あれやこれやと準備期間に不満は山ほどあったが――。
「……意外と、ちゃんとした式なのね」
式場に一歩足を踏み入れた瞬間、エナは呟いた。西部の古城風の礼拝堂は、石造りで簡素ながらも厳かな美しさがある。白と、荒野の夕焼けのような深い赤を基調とした装花。西部の男らしい、質実剛健な品のある装飾が、彼女の小動物じみた外見をさらに引き立てる。
「お嬢様、美しすぎて溶けちゃいそうです~! 辺境伯様もさぞかし驚くでしょうね!」
「あなたは黙ってなさいリリー。気が散る」
花嫁衣装を着せられたエナは、ふわりと風に舞う羽のように軽やかで、しかし顔はツンと澄ましている。心の中では、気になって仕方のないある存在がいた。そう、夫となる人物――アシュレイ・ウエストヴェイル。
(どんな人か知らないまま結婚式を迎えるとか、なんの冗談よ。父様が「毒に耐える」なんて言ってたけど、まさか、ひげもじゃの筋肉だるまじゃないでしょうね……。それとも、西部の荒くれ者みたいに、無骨な人なのかしら)
そう思っていた矢先、式場の扉が、重々しい音を立てて開いた。入ってきたのは、背の高い青年だった。
その場にいた全員が、一瞬息をのんだ。
精悍な顔立ち、切れ長の灰青の瞳。まるで西部の空の色を映したかのような、澄んでいながらも鋭い眼光。無駄のない体つきに、礼装の裾から見える手の甲の筋が妙に色っぽい。彼の纏う空気は、首都の貴族が持つ甘ったるいそれではなく、風に晒された岩のような、研ぎ澄まされた静けさがあった。
(な……なにあれ……えっ、あれが……?)
エナの毒を吐く口が、機能停止した。青年はエナの前に進み出ると、深々と頭を下げた。その動きには、洗練された礼儀と、辺境伯としての自信が垣間見える。
「ウエストヴェイル辺境伯、アシュレイ・ウエストヴェイル。今このときをもって、あなたの夫となる者です」
声も落ち着いていて低く、やたらと耳に心地よかった。荒々しさの欠片もない、理知的な響き。エナは一瞬、ぽかんと口を開けてしまった。
「……うそ、イケメンじゃない」
つい本音が漏れた。サロンでの毒舌はどこへやら、ただの恋する乙女のような言葉だった。
「おや、そう仰っていただけるとは光栄ですね」
クスッと、彼が微笑んだ。その笑みには、計算されたものではない、自然な余裕と品の良さが滲み出ていた。その笑みに、エナの頬がかすかに染まったのは、リリーしか気づかなかった。リリーは、背後で静かに、面白そうにニヤニヤしていた。
(この顔は……計算外ね。こんなの、毒の吐きようがないじゃない……!)
エナは心の中で悪態をついた。毒を吐くことが、彼女の自己防衛であり、優位に立つための手段だったからだ。しかし、このアシュレイという男に対しては、その毒がどこへ向かうべきか、判断がつかなかった。彼は、エナの毒を無効化するどころか、全く意に介していないように見えた。
式の翌日、エナはリリーとともにウエストヴェイル領へと輿入れした。馬車に揺られること、数日。次第に景色は変わり、豊かな緑の田園風景は減り、空は広く、地平線が際立つ荒涼とした大地へと変貌していった。風は強く、時折、砂塵が舞い上がる。
「わ、本当に何もかもが違うのね……」
長旅の末、馬車を降りると、そこには立派な屋敷が広がっていた。それは、首都の貴族邸のような華美さはないが、西部の強い日差しに映える、白みがかった石造りの堅牢な建築だった。要塞としての機能も兼ね備えていることが窺える。
「わ、空の青さが目に染みる……」
どこまでも広がる青い空と、乾いた茶色の山々。白銀に包まれた地ではなく、風と砂が織りなすその地はまるで別世界で、エナの羽のような髪が風になびくたび、周囲の使用人たちが一斉に見とれているのがわかった。彼らの視線は、好奇心というよりも、珍しいものを見るような、純粋な驚きに満ちていた。
「……ちょっと、見すぎじゃない?」
エナは不安を隠すように、少し不機嫌な顔をした。
「お嬢様、あれは“砂漠に咲いた一輪の白百合が降臨した”という民衆の正直なリアクションです。辺境の男どもは、都会のふわふわな天使なんて見たことがないのですよ」
「調子に乗らせるようなことを言わないの、リリー」
だがその頬は少し紅い。寒さではなく、西部の強い風のせいだけではない。屋敷の階段を上ると、アシュレイが出迎えに現れた。彼は執務服に着替えており、その引き締まった体躯がさらに際立って見えた。
「長旅、ご苦労様。西部の風は強かっただろう?」
乾いた空気の中で彼の姿はやけに温かく、エナの頬に白い息が広がった。
「肌寒かったかな、少し頬が暖紅いな。炉のある部屋に案内しよう。……リリー嬢もご一緒に」
「まあ! お優しい旦那様! 辺境伯様、お嬢様は疲れると毒舌が二倍になりますから、優しくしてあげてくださいね!」
リリーが軽やかに応じると、アシュレイは穏やかに笑った。
「承知した。毒舌も、彼女の魅力の一つだ」
(……包容力の塊か。つい突きたくなるじゃない……!)
エナは内心、むず痒い気持ちになった。彼は、エナがこれまで出会ったどの貴族とも違う。エナの毒舌を、まるで飼い慣らされたペットの芸のように扱っている。
「ここがリビングルームでございます。西側の窓からは、広大な荒野とその向こうの夕日が見渡せます。そして、こちらがエナ様の書斎でございます」
案内役のメイド頭のマーサが手際よく説明していく。マーサは恰幅の良い女性で、テキパキとしていて無駄がない。エナはきょろきょろと見回しながらついていった。屋敷は広く、しかし過剰に飾り立てておらず、西部の実用主義に基づいた落ち着いた美しさがあった。
(……あれ、意外と住みやすそう? 辺境って、もっと殺風景で荒れ果てているとばかり思っていたけど……)
書斎には、首都の流行の小説から、西部の歴史に関する専門書まで、幅広い本が並んでいた。エナが気に入るように、父が手を回したのかと思ったが、そうではないようだ。
「次は寝室をご案内しますね」
そう言われて、エナはぴたりと足を止めた。
「……ひとつ、聞いてもいいかしら」
「はい、なんでしょう」
「寝室って、まさか、彼と――同室、ではないですよね?」
エナは政略結婚とは言え、初夜から夫と同じ部屋で過ごすことに対して警戒心を抱いていた。まだアシュレイのことがよくわからない。そして何より、エナのプライドが簡単に体を許すことを拒否していた。その瞬間、後ろから現れたアシュレイが涼やかに言った。
「もちろん、別室を用意してあるよ」
エナは反射的に振り返った。彼がいつの間にか背後に立っていたことに、全く気づかなかった。
「エナが慣れるまでは、そっとしておくのが礼儀だろう。君の意思を無視して、強引に物事を進める趣味はないからね」
「……っ!」
(なんかこう……紳士的すぎて……つまらないっ!)
エナはなぜか、ほんのりとむくれた。彼の言葉は、あまりにも予想通りで、エナの虚を突く余地を与えなかった。彼はエナの毒舌を無視し、エナの警戒心すらも、最初からわかっていたかのように受け流している。これは、エナの持ちうる全ての戦術が、彼には通用しないことを意味していた。アシュレイは、エナのむくれた表情を見て、目を細めて微笑んだ。
「怒らないでくれ。君が素直になるまでは、そばにはいないから。君のふわふわの髪に砂をかけるような真似はしたくないんだ」
その言葉に、エナの頬がまたほんのりと赤く染まった。
(なんなのよ……余裕たっぷりで……こっちは初めて尽くしなのに……!)
エナは、彼の余裕が癪に障った。彼が本当にそう思っているのか、それともエナの出方を伺っているのか、それすら判断できない。リリーが後ろでにんまり笑っている。
「お嬢様、これは毒の効かない、初夜より手強い恋の始まりかと」
「うるさいわよ。どっちにしても、わたくしがこの辺境伯を転がしてやるんだから」
エナはそう言い放ったが、その声には、いつもの確信めいた自信がなかった。しかし――。
(……少しだけ、あの人となら……この荒涼とした地で、何か面白いことが起こるかも……)
心の中で、そう思ったことを、エナ自身が一番驚いていた。彼女の新たな生活は、始まったばかりだった。




