第九話 紫苑の微笑み
東京の夜は、いつも冷たい。
だがその冷たさの奥で、どこか透明な光が微かに揺れている。
それは、紅音が去ったあとに残った、“この世界の美しさ”の名残のようだった。
そして、かつて見た春の雨の匂いが潜んでいる気がした。
光哉は、自室の窓辺に立っていた。
ガラス越しに見える街の灯が、まるで星座のようにまたたいている。
グラスの底に残るウイスキーの琥珀が、その光をやわらかく揺らめかせていた。
もう二度と誰かを抱くことはない。
そう思っていた。
しかし、かつて見た春の雨の匂いが懐かしく愛おしい香りを思い出させる。
――紫苑。
思い出の中の少女の名が、ふと胸の底で浮かんでは沈む。
もう何年も会っていない。
あの紫色のスカート、雨に濡れた髪、震える指先。
すべてが、遠い夢の中に閉じ込められていた。
紫苑の香りがよみがえったその時、紫苑からのメッセージが届いた。
「会いたいです」
光哉の心が疼いた。
数日後、エントランスのチャイムが鳴った。
静かな部屋の空気を、柔らかな音がふと切り裂く。
エントランスのロックを開け、紫苑が近づいてくる気配がする。玄関のチャイムが鳴ると、ドア越しに紫苑の温度が伝わってくるようだった。光哉はゆっくりとドアを開けた。
そこに紫苑が立っていた。
白いブラウスに薄い藤色のカーディガン。
肩まで伸びた髪が春の夜気を含んで、ほのかに光っていた。
瞳の奥の輝きは、あの頃と変わらない。けれど、その光はもう少女のものではなかった。
「ご無沙汰しています、光哉さん」
その声を聞いた瞬間、時がゆっくりと逆流するように感じた。
「……紫苑。どうしたんだい、急に」
「ずっと……会いたかったんです」
紫苑は小さく微笑んだ。
けれどその笑みには、長い時間を越えてきた切なさがにじんでいた。
リビングに通すと、彼女は窓際に立った。
外では小雨が降り出していた。
光哉がティーカップを差し出すと、紫苑は両手で受け取り、静かに息を吹きかけた。
「懐かしい香り……。あのときのカフェの匂いに似てますね」
光哉は頷いた。
「あの場所、もう閉店したんだ」
「そう……なんですね」
紫苑は小さく俯き、ティーカップの縁に指を滑らせた。
高層階の窓から吹き込む風が、彼女の髪をゆるやかに撫でる。
テーブルの上に置かれた翡翠の指輪に、紫苑の目が留まった。
「綺麗な指輪。女性物ですか?」
光哉は頷いた。
「とある人が残したものだ」
紫苑は何も言わなかった。
ただ指先で指輪をそっと撫でた。
――沈黙が、部屋を包む。
ふと、外の雨が降り出した。
窓を叩く音が細やかに響く。
「16歳の高校生だった私も、大学生になりました」
「おめでとう」
「ありがとうございます。ずっと、伝えたかったことがあって」
紫苑は光哉の方へ顔を上げた。
その瞳は、まっすぐに彼の心を射抜く。
「私、あの春からずっと……光哉さんのことを忘れられませんでした」
静かな声だった。
けれど、その響きは胸の奥で深く広がった。
「忘れようと思っても、無理でした。どんな人に出会っても、あなたの言葉が重なってしまうんです」
光哉は息をのんだ。
彼女の言葉の中に、過ぎ去った時間が確かに息づいていた。
「紫苑……」
「あの時、覚えてますか? “影にいるときには光がよく見える”って言ってましたよね」
「覚えているよ」
「私、あれからずっとその言葉を支えにして生きてきたんです。でも、最近ようやくわかった気がします。――私にとっての光は、あなたでした」
光哉は視線を落とし、息を整えた。
胸の奥で、何かが静かに融けていく。
紅音を失って以来、心に閉じたままの扉が、きしむような音を立てて開いていくのを感じた。
紫苑は一歩、近づいた。
彼女の髪から、春雨の匂いがかすかに漂う。
「光哉さん……今でも、あなたの隣にいてはいけませんか」
その問いは、まるで祈りのようだった。
光哉は、何も言えなかった。
ただ、そっと手を伸ばして彼女の髪を撫でた。
その瞬間、紫苑の瞳に涙が滲んだ。
――あの頃の無垢が、今は艶へと変わっていた。
雨音が窓を叩く。
そのリズムに溶けるように、二人の距離が近づいていく。
光哉はソファに場所を移し、隣に座るように目で促した。
紫苑はティーカップと共にためらいがちに座る。
距離はわずか十数センチ。
だが、空気は熱を帯びていた。
彼女の指がカップに触れるたび、かすかに音を立てた。
その音が、なぜか心臓の鼓動と重なる。
「光哉さん……」
名前を呼ぶ声が、雨音の隙間をすり抜けて届いた。
光哉は顔を上げる。
紫苑の瞳が、まっすぐに彼を見つめていた。
その目の奥に、幼さと大人の狭間で揺れる光があった。
「ねえ……どうして、人は愛を求めるんでしょうね」
紫苑の声が震えていた。
「痛いのに、苦しいのに、それでも……あなたのように、誰かを想ってしまう」
光哉は答えなかった。
ただ、紫苑の頬に流れた一筋の髪を指先で払った。
その瞬間、紫苑の肩が小さく震えた。
触れた肌が、かすかに熱を帯びる。
呼吸の音が近づき、互いの鼓動が同じリズムを刻む。
「紫苑……」
名を呼んだ声が、まるで封印を解く呪文のように響いた。
彼女は目を閉じた。
光哉の手が頬をなぞり、唇の端にかかる。
雨の匂い、髪の湿り気、唇に触れた呼気が、夜の温度を変えていく。
時がゆっくりと溶けていく。
紅音を失った夜、彼は温度をうしなった。
だが、今――
この若い命の鼓動の前で、温度が少しずつ戻っていくのを感じていた。
紫苑の手が光哉の胸に触れた。
指先が布越しに心臓の鼓動を確かめる。
その仕草はあまりに静かで、それゆえに抗いがたく艶やかだった。
唇が重なったのは、ほとんど自然の摂理のようだった。
光哉は彼女を抱きしめた。
夜の雨がさらに強くなる。
窓の外では稲光が走り、部屋の中の影を一瞬だけ照らした。
――愛と罪の境目が、曖昧になる。
紫苑の背中に滑る指先が、彼女の呼吸を乱していく。
互いの体温が混ざり、静かな夜が、ひとつの祈りのように震えた。
触れた唇、指先の熱、呼吸の重なり。
すべてが、あの春の続きを描いていた。
――誰かを想うことの美しさ。
――世界が再び色づく瞬間。
紫苑は目を閉じた。
まつ毛が震え、唇がわずかに開く。
呼吸が交わるたび、空気が淡く震える。
「もう……子どもじゃないよ」
囁く声が、喉の奥で溶けた。
紫苑の指が彼のシャツを掴んだ。
白い布が音もなく引き寄せられ、肌と肌の距離がなくなっていく。
光哉の瞼の裏で、紅音の笑顔が過ぎる。
衣擦れの音。
息づかい。
首筋をなぞる指。
その一つ一つが、時間の底に沈んでいくようだった。
朝。光哉はカーテンの隙間から差し込む光で目を覚ました。
隣には、眠る紫苑の姿。
白いシーツの上で、彼女の髪が光を吸い込むように輝いている。
指先でその髪を撫でると、微かな寝息がこぼれた。
光哉は目を閉じた。
胸の奥に、痛みと安らぎが同時に広がる。
紫苑は、彼の新しい“光”だった。
それは紅音とは違う、けれど確かにこの世界の命の一部だった。
外では、雨上がりの街がきらめいていた。
ガラスに映る陽光が、まるで生まれ変わるように世界を照らしている。
光哉は静かに呟いた。
「生きているって、こういうことなのかもしれないな」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、光のなかで――
彼は初めて、“もう一度、愛してもいい”と思った。
そして紫苑は、まどろみの中で微かに微笑んだ。
その微笑みが、朝の光よりも柔らかく、すべての過去を包み込むように輝いていた。




