第八話 翡翠の指輪
雨上がりの午後だった。
雲の切れ間から差す光が、窓辺のガラスを濡らしていた。
水滴の軌跡が、まるで誰かの涙のようにゆっくりと流れてゆく。
机の上、黒いベルベットの小箱。
光哉はそれを指先で開けた。
中にあったのは、小さな翡翠の指輪。
透きとおる緑が、淡い光を宿していた。
彼は息を潜め、指輪を掌にのせた。
そこには、微かに香水の残り香があった。
夜の甘やかな残り香。
紅音の髪が頬をかすめた時と同じ香り。
――紅音が、最後に彼の部屋を訪れた夜の記憶。
薄暗い照明の中で、彼女は静かにピアノを弾いていた。
白いドレスの背中が、音に合わせて小さく揺れている。
肩越しに振り向く微笑み。
唇に触れる声。
「この音、あなたに残しておくね」
その指に、あの翡翠が光っていた。
音符が空気に溶け、夜が彼らを包みこんだ。
光哉は、指輪をそっと唇に寄せた。
金属の冷たさが、胸の奥に沈んでいく。
一瞬、紅音の指の感触がよみがえる。
舞台のライトの下で輝いた汗、香水と混じる肌の熱。
彼女の歌声が、彼の喉の奥を震わせていた。
目を閉じると、あの夜の湿った空気がよみがえる。
雨上がりの街。
ビルの谷間を抜けて吹く風が、夜の匂いを運んでいた。
紅音は傘も差さず、濡れた髪のまま彼を見上げた。
「雨って、好き。匂いが、生きてる感じがする」
唇からこぼれたその言葉が、今も耳の奥に残っている。
彼は窓を開けた。
外の空気が、室内に流れ込む。
雨に濡れた街の匂い。
遠くのアスファルトから立ちのぼる熱気。
そのすべてが、紅音のいた世界を運んできたようだった。
机の上には、一通の封筒。
紅音の筆跡。
薄墨色のインクで、丁寧に綴られた文字。
〈この指輪を、あなたの光の隣に置いてください〉
その一行だけだった。
光哉は、静かに微笑んだ。
悲しみの形をしているのに、どこか温かい。
人は、こうして誰かの中に残っていくのだろう。
夕暮れが訪れ、部屋の中が茜色に染まる。
窓の向こう、ビルの屋上に咲いた夕陽の光が、まるで花火の残響のように揺れていた。
紅音の声が、かすかに聞こえた気がした。
「ねぇ、光哉さん、まだ見てる? あの空を」
彼は指輪を指にはめた。
翡翠の冷たさが、皮膚の熱に溶けていく。
その瞬間、世界が息を吹き返すように、音と光が戻ってきた。
車のクラクション、遠くの笑い声、風に舞う雨の匂い。
どれもが、生きている証のように鮮やかだった。
紅音がこの世界に刻んでいったもの。
それは、触れられない熱。
けれど確かに、ここにある。
光哉は立ち上がり、窓の外を見つめた。
群青の空に、かすかな星が滲みはじめていた。
その光は、どこかで紅音の歌声とつながっている気がした。
──この世界は、なんて美しい。
生も死も、悲しみも喜びも、すべてが光の粒となって、今ここにある。
翡翠の指輪が、夕闇の中で静かに輝いていた。
彼はその輝きを見つめながら、胸の奥にそっと呟いた。
「君はまだ、ここにいる」
そして、静かに目を閉じた。
まぶたの裏に、紅音の微笑みが浮かんだ。
夜風がカーテンを揺らし、翡翠の指輪がかすかに音を立てた。
まるで、それが彼女の返事のように。




