第七話 花火の約束
東京湾を見下ろす高層高級ホテルのバルコニー。
夜風が海の塩を運び、遠くで花火が上がる音がした。
「ねえ、今年も、あの約束……覚えてる?」
紅音の声は、氷の溶けかけたウイスキーグラスのように、かすかに震えていた。
光哉は答えず、ただ横顔に目をやる。
薄紅のドレスの肩が、風に撫でられて揺れていた。
その素肌の白さが、闇に浮かぶ月光のようで、彼の視線を離さなかった。
夜空に火の花が咲いた。
光と闇の狭間に、ふたりの影が重なる。
紅音は微笑むでもなく、泣くでもなく、ただ遠くを見ていた。
「光哉さん、花火って……生きてるみたいね」
彼女の指がグラスの縁をなぞる。
「一瞬だけ燃えて、きれいに消える。誰も目をそらせない」
「だから、人はまた見上げるんだ」
「……そうね。たとえ、次が最後でも」
彼女の言葉に、光哉の胸の奥がひそかに疼いた。
その一言が、まるで別れの予感のように響いたからだ。
部屋に戻ると、シャンパンの泡が小さく弾けた。
窓の外では、花火が次々と咲き誇り、夜空に金色の雨を降らせていた。
その光が紅音の髪を照らし、彼女の瞳に星屑を散らした。
「光哉さん」
名前を呼ぶ声が、花火の音の合間に溶けていく。
紅音の指先が、ゆっくりと彼の胸元に触れた。
冷たい肌が、火にあたためられるように熱を帯びていく。
彼はその手を包み、静かに唇を寄せた。
触れた瞬間、紅音の息がかすかに震えた。
その震えが彼の指先に伝わり、鼓動がひとつ、深く跳ねた。
言葉はもういらなかった。
彼女の背を抱き寄せると、香水と肌の匂いが混じり合い、夜気の中で甘く滲んだ。
花火が破裂する音が、まるでふたりの鼓動を追うように響く。
紅音の髪が頬に触れ、彼女の唇が近づく。
その瞬間、光哉は息を止めた。
世界が一瞬、音を失った。
ただ、ふたりの呼吸だけが重なり、時間がゆっくりと溶けていく。
──この夜が、永遠ならいい。
そう思った。
けれど、その永遠は、儚い火花のように燃え尽きる運命をすでに抱いていた。
花火が最後の光を放ち、闇が戻ってくる。
紅音は光哉の胸に顔をうずめた。
「ねぇ……来年も、一緒に見られるかな」
「見られるさ」
そう答えながら、彼の声はかすかに揺れた。
紅音の肩が、小さく震えた。
それを風のせいにした。
それでも光哉は、その細い背中を抱きしめたまま、言葉を足すことができなかった。
ガラス越しに見える海は、夜の帳の底で鈍く光っていた。
まるで星を失った空が、静かに涙を落としているようだった。
紅音が微笑んだ。
その笑みは、花火の残光のように、胸の奥に焼きついた。
「もし、あたしがいなくなっても……光哉さんの中で、ちゃんと生きていけるようにしておくね」
「そんなことを言うな」
「ふふ……真面目なんだから」
紅音は、彼の胸元に唇を寄せ、静かに目を閉じた。
そのまま、ふたりは言葉を失い、夜の静寂の中で溶け合っていった。
遠くで、最後の花火が散った。
闇に消える光の尾が、まるで二人の未来を描くように、空を流れていった。
──そして、静けさだけが残った。
窓の外では、風がカーテンを揺らしていた。
紅音の寝息が、かすかに聞こえる。
その音を聞きながら、光哉はただ目を閉じた。
胸の奥に、彼女の熱が、まだ確かに残っていた。
それが、永遠の約束のように。
とある雨上がりの夜。
窓の外では、まだ濡れた舗道が街灯をぼんやりと映していた。
クラブの照明が落とされ、ステージには誰もいない。
紅音はドレスの肩紐を外し、静かに楽屋の鏡台の前に腰を下ろした。
鏡の中で、ひとりの女が笑っている。
だがその笑みの奥には、かすかな翳り。
胸の奥で疼く痛みを、彼女は掌で押さえる。
心臓が、不規則に脈打っていた。
それでも紅音は、リップを引き、まつ毛を整えた。
――最後まで、美しく在りたい。
ドアが軽く叩かれた。
「紅音…もう帰ろうか」
光哉の声だった。
振り向くと、黒のシャツに濡れた髪。
雨の匂いをまといながら、彼はいつものように微笑んでいた。
彼女はゆっくり立ち上がり、彼の胸に顔を埋めた。
鼓動が重なる。
その音の裏で、紅音の唇が震える。
――この人の中で、私は生き続けたい。
その願いだけが、彼女を支えていた。
光哉の指が、彼女の髪をほどく。
湿った黒髪が肩をすべり、紅音の白い背をなぞる。
肌にふれるたび、彼の体温が静かに広がっていく。
唇が首筋を探し、呼吸が交わる。
ふたりの間に言葉はなかった。
ただ、時間の音が止まり、夜が二人を包み込んでいった。
雨の名残が窓を打ち、街の灯が滲む。
紅音の瞳はその光を映しながら、どこか遠くを見つめていた。
――この夜を最後に、私は消える。
その決意を、彼女は胸の奥に沈めたまま、彼の腕の中で静かに微笑んだ。
夜が明ける頃、光哉が目を覚ますと、ベッドの隣に紅音の姿はなかった。
シーツには、彼女の香りと、ひとつの翡翠の指輪が残されていた。
光哉はその指輪を握りしめる。
冷たさの中に、まだ微かに温もりがあった。
まるで、紅音の心臓の鼓動が、そこに閉じ込められたように。
彼は呼吸を整え、窓を開けた。
朝の光が差し込み、風がカーテンを揺らす。
遠くで、紅音の声が聴こえた気がした。
――あの声は幻か、それともまだどこかで歌っているのか。
光哉の指の中で、翡翠が淡く光った。
彼女が残した最後の旋律のように。




