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第六話 夜の雨に濡れて

 夜の雨が、街の灯をぼかしていた。

 ガラス越しに見える西麻布の街は、まるで水の底のように静まり返っている。

 光哉は車を降り、黒い傘を差した。

 スーツの肩に冷たい滴が落ち、シャツの繊維に染みていく。

 雨の匂い。アスファルトとジャスミンを混ぜたような湿った香り。

 ラウンジ〈AUBE〉。

 木製の扉を開けると、ピアノの音が空気を切り裂いた。

 煙草と香水の残り香が、夜の熱を孕んで絡みつく。

 薄闇の中、ステージライトが一点、ゆるやかに揺れる。

 その光の下に、彼女はいた。

 紅音あかね――。

 赤いドレスの肩が、滑らかに露を帯びている。

 細い指がマイクを包み、唇から零れる声が、まるで雨を撫でるように柔らかだった。

「Fly Me to the Moon」

 古びたジャズの旋律に、彼女の息づかいが溶けていく。

 光哉は一歩、席を進めた。

 視線が交わる。

 その刹那、紅音の唇がかすかに揺れた。

 微笑みとも、挑発ともつかぬ表情。

 彼の中で、遠い夜の記憶が疼いた。

――沙羅の声。麗香の香り。

 だが、それらとは違う熱が、今、胸の奥で火をつける。

 演奏が終わると、拍手がまばらに響いた。

 紅音はグラスの赤ワインをひと口含み、視線をそらさず彼のもとへ歩み寄った。

「はじめて見た顔ね。常連じゃないでしょう?」

「旅の途中みたいなものだ」

「旅人……いい響き」

 紅音の声は、低く濡れていた。

 彼女の笑みの奥に、夜の秘密が潜んでいる。

 光哉はグラスを傾けながら、彼女の指先がカウンターをなぞるのを見ていた。

 その動きは、言葉よりも雄弁だった。

「あなた、どこかで泣いた顔ね」

 不意にそう言われ、光哉の手が止まる。

「……そんな顔に見えるか」

「ええ。きっと、愛に裏切られた人の顔」

 沈黙が、二人の間を濃くする。

 氷の割れる音が、夜の静寂を裂いた。

「歌が好きか?」

「生きる理由のひとつかもしれない」

 紅音はそう言って、彼の耳元に近づいた。

 息がかかるほどの距離。

 淡いローズの香りが、彼の記憶を深く侵していく。

「あなたみたいな人、いつも最後に誰かを傷つける」

「……そうかもしれない」

「でも、私、そういう人が嫌いじゃないの」

 唇がほとんど触れるほど近づき、紅音は笑った。

 その笑みの奥に、危うい輝きが宿っていた。


 雨が止むころ、二人は街へ出た。

 光哉は彼女に傘を差し出したが、紅音は首を振った。

「濡れるの、嫌いじゃないの。生きてる気がするから」

 髪が頬に張りつき、ドレスが肌にまとわりつく。

 街灯の光を受けて、彼女の体の曲線が雨粒を散らした。

 その姿が、光哉の視界を奪う。

 無言のまま、彼はそっと紅音の腕を掴んだ。

 その手を、彼女は拒まなかった。

 むしろ、少しだけ体を寄せてきた。

「どこへ行くの?」

「静かなところへ」

 車のドアが閉まり、夜の世界が切り離された。

 フロントガラスを滑る雨粒が、無数の光を走らせる。

 紅音の手が、彼の太腿に触れた。

 温度は低いのに、熱が走る。

「あなたの目、危ないわ」

「君の声もだ」

「似た者同士ね」

 闇の中、二人の呼吸が近づく。

 唇が触れ、離れ、また求める。

 車内に漂う香水と雨の匂いが、混じり合って世界を満たした。

 シートに倒れ込む音。

 金属のボタンが外れる小さな音。

 紅音の肩にかかるドレスの布がずり落ち、月明かりが白い肌を照らした。

 音楽も言葉も消えた。

 ただ、肌の間を流れる静かな波音だけが響いていた。


 夜が明ける。

 窓の外では、雨上がりの街が濡れた息をしている。

 紅音は眠りながら、光哉の腕の中で微かに動いた。

 睫毛に残る涙の粒が、光を反射していた。

「……まだ夢を見てるみたい」

 囁くように言って、彼女は彼の胸に顔をうずめた。

 光哉はその髪に触れながら、黙って外を見た。

 濡れた路面の上で、朝日が跳ねている。

 命は、こんなにも儚く、そして美しい。

 それを知るたびに、彼はなぜか胸が締めつけられる。

 紅音が指を動かし、彼の頬をなぞった。

「ねえ……また、会える?」

 光哉は答えず、その手を握った。

 窓辺の光が二人の影を重ねる。

 その一瞬、すべてが永遠に思えた。

 だが、朝の光ほど、残酷に現実を告げるものはない。

 紅音は笑った。

「今夜も歌うわ。――来てくれる?」

 光哉は視線を落とし、ただ小さくうなずいた。

 紅音の唇がふたたび彼の指をなぞり、離れる。

 その余韻が、彼の胸に焼きついた。

 雨の匂いがまだ、部屋の奥に残っている。

 そして、どこかでピアノが鳴った気がした。

――夏が、始まっていた。

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