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第五話 紫の君、紫苑

 春の雨が、硝子の向こうで静かに流れていた。

 東京の空は京都よりも灰色で、けれどどこか柔らかい。

 濡れたアスファルトに街灯が滲み、車のライトが通るたびに、水面のように光がゆらいだ。

光哉はカフェの窓際で、冷めたコーヒーを見つめていた。

 香ばしい苦味の中に、ふと母の白檀の香がよぎる。

 もう戻れない過去が、いつもふいにこの街のどこかで顔を出す。

 そのときだった。

 入り口のベルが軽やかに鳴り、傘をたたむ音が響いた。

 振り向くと、紫のスカートをまとった少女が立っていた。

 濡れた髪の先から、一滴の雫が白い首筋を伝い、襟に吸いこまれていく。

――紫苑しおん

 その名を知るのは、少しあとのこと。

 けれど、その瞬間すでに、光哉の心はかすかに色づいていた。

 少女は、店員に声をかけると隣の席に座った。

 制服の袖口が雨に濡れて冷たそうで、光哉は思わずハンカチを差し出した。

「これ、どうぞ」

「ありがとうございます」

 透明な声だった。

 風鈴が鳴るような、清らかでどこか儚い音。

 光哉は微笑んだ。

 その笑みが久しぶりに自然に浮かんだことに、自分でも少し驚く。

「寒くないですか?」

「はい。でも…ちょっとだけ、心臓が震えてます」

 そう言って笑うと、少女の瞳に街の灯が映った。

 紫苑色――春と冬のあいだに咲く花のような、不思議な色だった。


 その日を境に、光哉はよくそのカフェに通うようになった。

 紫苑は放課後になると、いつも同じ席で本を読んでいた。

 指先でページをめくる仕草が、春の風に花びらが舞うように静かで、見ていると時間の流れを忘れる。

「将来、何になりたいんだ?」

「わかりません。でも…誰かの心を動かせる人になりたいです」

 その答えに、光哉の胸が微かに疼いた。

 沙羅も、麗香も、みな“誰かを満たしたい”と願っていた。

 皆、光哉に心の手を伸ばすが、光哉は手からすべる絹の布のように、こぼれていってしまう。光哉には熱い情熱と寂しさが隣り合っていた。

 紫苑の笑顔だけは、曇らせたくないと、光哉は脳裏で思った。

「君は、もう十分誰かの心を動かしてるよ。」

 そう言いながら、視線を逸らす。

 彼女の髪から漂う微かな石鹸の香が、胸の奥で波を立てた。


 ある夕暮れ。

 公園のベンチで並んで座ると、沈みゆく陽が二人の間を黄金に染めた。

 光哉の肩に、紫苑の髪がかすかに触れる。

 その一瞬、彼の呼吸が止まる。

「光哉さんは、どうしてそんなに寂しそうなんですか?」

 彼女の問いは、春の終わりの風のようにやさしかった。

 光哉は答えられず、空を仰いだ。

 桜の花びらが、まだ少しだけ枝に残っている。

「人はね、光の中にいても、影を抱えてる」

「……光と影、どっちが好きですか?」

「影だよ。影にいるときには、光がよく見える」

 紫苑は小さくうなずくと、彼の手の上にそっと自分の指を重ねた。

 柔らかく、かすかに震える温度。

 その熱が、心の奥の冷たい場所をひとつずつ溶かしていく。


 その夜、光哉は夢を見た。

 紫苑が庭の紫陽花の前に立ち、雨に濡れながら彼を見つめている。

 その瞳は泣いているようで、笑っているようで――。

 目覚めると、胸がやけに熱かった。

 窓を開けると、夜明けの風が肌を撫でていく。

 遠くで小鳥の声がする。

 生きているということが、こんなにも艶やかに感じられたのはいつ以来だろう。

 光哉はその朝、紫苑にメッセージを送った。

「君に会いたい」

 返事はすぐに届いた。

「わたしも」

 ただそれだけの言葉が、胸の奥で静かに光を放った。

 それは恋というより、祈りに似ていた。


 春の終わり、ふたりは並んで歩いた。

 街路樹の葉は新緑に変わり、陽射しがまぶしい。

 風が吹くたび、紫苑の髪が光哉の頬をくすぐった。

「ねえ、光哉さん。紫って、好きですか?」

「どうして?」

「この色を見ると、心が落ち着くんです。生まれる前の記憶に近い気がして」

 光哉は黙って頷いた。

 その色は、彼が忘れかけていた“愛のはじまり”の色だった。

 紫苑が笑った。

 その笑みの向こうで、世界が静かに輝いていた。

 風も、光も、人の息づかいも、すべてが生きている――そう感じられた。

 光哉は思った。

 この少女を守りたい。

 愛ではなく、願いとして。

 それが、かつて失った“光”を取り戻す唯一の道のように思えた。


 その日、夕陽が沈むまで二人は別れなかった。

 手のひらに残るぬくもりが、夜の街で灯火のように続いていた。

 紫苑はまだ幼い。

 けれど、彼女の中にある透明な情熱が、光哉の奥深くを照らしていた。

 それは、まだ芽吹いたばかりの花。

 けれど、すでに運命の香りを放っていた。

――紫の君。

 その名が、光哉の心に静かに刻まれた。

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