第三十話 桜の庭
京都の春の光は、まだ柔らかく、細い枝先に残る蕾を淡く染めていた。光哉は石畳の小径を踏みしめながら、かつて母の手を引かれて歩いた桜並木を思い出す。幼い日の記憶は、母の温もりと香り、声の響きまでも抱えて、心の奥に深く沈んでいた。その記憶は、孤独の中で静かに疼き、触れるものすべてに母を探す目線を光哉に植え付けていた。
紫苑が隣に立つ。彼女の指先が軽く、無意識に光哉の手に触れる。小さな接触が、胸の奥に眠る記憶の痛みをくすぐる。肌の熱を通じて、幼少の孤独も、失った愛の空洞も、わずかに揺れ始める。紫苑の存在は、光哉の心の奥深くまで、静かに、しかし確実に入り込んでくる。
「幼い頃のことは覚えてる?」
紫苑の声は低く、そっと心に触れるようだった。光哉は微かに視線を下げ、幼い日の母の面影を思い浮かべる。母の微笑、柔らかな手のぬくもり、指先の温度。紫苑の掌が彼の手のひらに重なり、その温度が過去の空洞に染み込むように広がる。彼女の呼吸、指先の滑らかさ、髪の香りが、母を亡くした痛みの記憶を少しずつ溶かしていく。
並木を歩きながら、光哉の肩に紫苑が身体を寄せる。わずかな接触なのに、過去の孤独が柔らかくほぐれていく。幼い光哉を抱きしめてくれた母の温もりはもうないはずなのに、今は紫苑の指先、腕の柔らかさが、その温度を置き換えていた。彼の胸の奥で、哀しみが解け、どんどん光と安らぎに変わっていく。
光哉は立ち止まり、桜の蕾に触れる。内に秘めた春の息吹は、母のぬくもりを思い出させる。だが今は紫苑が手を重ね、過去の空虚をそっと埋めるように、暖かさをくれる。胸の奥でずっと締め付けられていた痛みは、指先から伝わる温もりに溶けて、息をするたびに柔らかく広がっていく。
小川のせせらぎが耳を撫でる。光哉は紫苑の髪に頬を寄せ、香りを吸い込む。桜の蕾の香り、川の水の清らかさ、紫苑の髪の温かさ。五感すべてが、過去と現在をつなぐ媒介となり、母を失った哀しみは、もはや光哉の心を苦しめてはいなかった。
紫苑の手は光哉の肩から胸へと滑り、軽く抱き寄せる。光哉は目を閉じ、心の奥で解ける感覚を感じ取る。母への哀しみはもう涙の形ではなく、静かに解放され、心に残るのは柔らかな温度と、春の光の中で揺れる桜の色彩。幼い日の孤独も、東京の激しい夜たちも、今はこの庭で紫苑によってそっと置き換えられた。
二人は並木を歩き、やがて小さな庭へたどり着く。光が二人を包み込み、肌に残る触れ合いの熱だけが、存在の証として残る。光哉は紫苑の指を握り、互いの呼吸を感じながら歩みを進める。過去の哀しみを溶かした新しい愛の温もりが全身を満たす。
紫苑が小さく笑い、肩を寄せてくる。光哉は彼女の髪に頬を預け、吐息を耳に感じる。春の光、桜の香り、川のせせらぎ、肌の温もり。すべてが融合し、光哉の心深くに眠っていた哀しみは静かに解放され、紫苑の存在とともに柔らかい光に包まれる。母を失った孤独の痛みは、もはや恐れではなく、愛と記憶に変わったのだった。




